「薩夜麻」と「大海人」の関係について考察しています。
「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩夜麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)彼らの一族は「百済を救う役」でも軍に編成されており、その意味でそもそも「薩夜麻」の軍であったという可能性があります。
また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)
「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩夜麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
そのため、「薩夜麻」が帰国した際に「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
「大伴部博麻」の帰還も「六八六年」の「天武」の「死」を聞いたことと関係があると考えられるものであり、これは別途述べたことがありますが、「薩夜麻」が生きている間は「帰国」出来ないものであったのではないでしょうか。このことも「天武」と「薩夜麻」が同一人物であることを示唆するものです。
これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
『弘仁私記序』には「半島」からの「渡来人」が「天皇」なった記述のある「書」が市中に出回っていたが、それらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『弘仁私記序』で書かれた「書」はその意味では正しいと言えます。そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。
そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「劉仁願」の使者である「李守真」が「上表」つまり「天皇」に対する「書」を提出しています。この「書」が「劉仁願」が「遣わした」という表現からも「国書」ではなかったと思われることからこれも「菅原在良」には取り上げられていないようですが、実際にはこの時点で「天智」に対して何らかのメッセージが送られたと見られるわけです。
(六七一年)十年春正月己亥朔…
辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。
…
秋七月丙申朔丙午。唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。
その後の動静を見ると、その3ヶ月後には「天智」は病を得、「大海人」は出家し、直後に「薩夜麻」が帰還しています。これらの推移から考えて「李守真」の書には「薩夜麻」の帰国に関する情報が書かれてあったのではなかったでしょうか。彼の帰国に反対の意思があるかどうか、「倭王」としての帰還を拒否しないか問う内容ではなかったでしょうか。これに対し「天智」は受諾したものと思われ、それを承けて「薩夜麻」の帰国となったと考えられます。
但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に記事の脱落があるようです。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。「近江」遷都以降は「対馬」まで来ると知らせが来て上陸させるのかを検討した上で「京」(この場合「近江京」か)まで出向くよう指示するか、「筑紫」で対応するか決めるわけですが、この場合それらが全て脱落しています。しかし他の例からは「筑紫」での対応であっただろうと思われますが、「天武元年」の際には「筑紫」に彼等は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、「李守真」も「筑紫」から動くことはなかっただろうと思われるわけです。(国書を持参していないのですから当然ですが)
さらに「天武元年」に「郭務悰」が「書凾」を提出したという記事があります。「李守真」が帰国した七月から四ヶ月ほど経過した同じ年の十一月に今度は「郭務悰」等が大挙して押し寄せたというわけです。
(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進「書凾」與信物。
夏五月辛卯朔壬寅。以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
戊午。高麗遣前部富加抃等進調。
庚申。郭務悰等罷歸。
この来倭は当然「李守真」の報告を踏まえたものと思われるわけであり、上表に対する「天智」の反応に応じたものであったと思われ、「薩夜麻」の帰国に反対しない意を表明したものと思われるわけです。
この時の「郭務悰等」の来倭には「王権」として軽率な対応はできなかったはずであり、それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における「倭国軍」の敗北という状況は、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずだからです。
さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであり、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。つまり、彼が死去したという『書紀』の記事内容については疑義があるといえます。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位することを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。
「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)
「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩夜麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
そのため、「薩夜麻」が帰国した際に「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
「大伴部博麻」の帰還も「六八六年」の「天武」の「死」を聞いたことと関係があると考えられるものであり、これは別途述べたことがありますが、「薩夜麻」が生きている間は「帰国」出来ないものであったのではないでしょうか。このことも「天武」と「薩夜麻」が同一人物であることを示唆するものです。
これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
『弘仁私記序』には「半島」からの「渡来人」が「天皇」なった記述のある「書」が市中に出回っていたが、それらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『弘仁私記序』で書かれた「書」はその意味では正しいと言えます。そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。
そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「劉仁願」の使者である「李守真」が「上表」つまり「天皇」に対する「書」を提出しています。この「書」が「劉仁願」が「遣わした」という表現からも「国書」ではなかったと思われることからこれも「菅原在良」には取り上げられていないようですが、実際にはこの時点で「天智」に対して何らかのメッセージが送られたと見られるわけです。
(六七一年)十年春正月己亥朔…
辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。
…
秋七月丙申朔丙午。唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。
その後の動静を見ると、その3ヶ月後には「天智」は病を得、「大海人」は出家し、直後に「薩夜麻」が帰還しています。これらの推移から考えて「李守真」の書には「薩夜麻」の帰国に関する情報が書かれてあったのではなかったでしょうか。彼の帰国に反対の意思があるかどうか、「倭王」としての帰還を拒否しないか問う内容ではなかったでしょうか。これに対し「天智」は受諾したものと思われ、それを承けて「薩夜麻」の帰国となったと考えられます。
但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に記事の脱落があるようです。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。「近江」遷都以降は「対馬」まで来ると知らせが来て上陸させるのかを検討した上で「京」(この場合「近江京」か)まで出向くよう指示するか、「筑紫」で対応するか決めるわけですが、この場合それらが全て脱落しています。しかし他の例からは「筑紫」での対応であっただろうと思われますが、「天武元年」の際には「筑紫」に彼等は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、「李守真」も「筑紫」から動くことはなかっただろうと思われるわけです。(国書を持参していないのですから当然ですが)
さらに「天武元年」に「郭務悰」が「書凾」を提出したという記事があります。「李守真」が帰国した七月から四ヶ月ほど経過した同じ年の十一月に今度は「郭務悰」等が大挙して押し寄せたというわけです。
(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進「書凾」與信物。
夏五月辛卯朔壬寅。以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
戊午。高麗遣前部富加抃等進調。
庚申。郭務悰等罷歸。
この来倭は当然「李守真」の報告を踏まえたものと思われるわけであり、上表に対する「天智」の反応に応じたものであったと思われ、「薩夜麻」の帰国に反対しない意を表明したものと思われるわけです。
この時の「郭務悰等」の来倭には「王権」として軽率な対応はできなかったはずであり、それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における「倭国軍」の敗北という状況は、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずだからです。
さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであり、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。つまり、彼が死去したという『書紀』の記事内容については疑義があるといえます。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位することを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。
「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
ただし両者にも「敬問」という語が前置されており、これは「友好的関係」の表明であり、あなたを敵とは考えていないという意味ですから極端な「威圧」や「脅迫」というものではなかったと思われます。そもそも「難波日本国」としては「唐」に対して非友好的な態度や言辞を弄したことはなかったはずですから、そのような内容の国書にはそもそもならなかったであろうと思われるわけです。たただしそのために否定的な回答はしにくかった面はあったものと見られます。
これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。つまり「唐」がその存在を認めて国書を提出した相手は「日本国」であったというものであり、そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志によるものであったということになります。
ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されていません。通常「国書」は「使者」により「宣」せられた後(読み上げられた後)渡されるものであり、「表函」が提出されたという事はすでに「宣」せられた後のことと理解できます。また「国書」はその地の「王」に対して提出されるものですから、「宣」せられるためには「国王」に「面会」できたことも推定できます。しかし「菅原在良」の言葉からは「国書」を入手したとは思われません。「国書」は形式として「表函」の上に置かれているのが通常であり、そこには「表題」が見えるように大書されていたものです。つまり単に「函」の上に置かれていた表題にはそう書いてあったという意味のことしか言及されておらず、それを受け取った内容が把握されていたようには見受けられません。つまり「国書」(表)は受け取らなかったという可能性が高いものと思われますが、その点の詳細が不明です。あるいは受け取ったのが「薩夜麻」であったとすると後の「新日本国」にはその現物がなかったという可能性があります。「天智」とその側近が把握している範囲のものではなかったという可能性はあると思われ、「倭国王」宛の「国書」は「薩夜麻」とその側近が受領したという事実を反映しているのではないでしょうか。
これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。つまり「唐」がその存在を認めて国書を提出した相手は「日本国」であったというものであり、そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志によるものであったということになります。
ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されていません。通常「国書」は「使者」により「宣」せられた後(読み上げられた後)渡されるものであり、「表函」が提出されたという事はすでに「宣」せられた後のことと理解できます。また「国書」はその地の「王」に対して提出されるものですから、「宣」せられるためには「国王」に「面会」できたことも推定できます。しかし「菅原在良」の言葉からは「国書」を入手したとは思われません。「国書」は形式として「表函」の上に置かれているのが通常であり、そこには「表題」が見えるように大書されていたものです。つまり単に「函」の上に置かれていた表題にはそう書いてあったという意味のことしか言及されておらず、それを受け取った内容が把握されていたようには見受けられません。つまり「国書」(表)は受け取らなかったという可能性が高いものと思われますが、その点の詳細が不明です。あるいは受け取ったのが「薩夜麻」であったとすると後の「新日本国」にはその現物がなかったという可能性があります。「天智」とその側近が把握している範囲のものではなかったという可能性はあると思われ、「倭国王」宛の「国書」は「薩夜麻」とその側近が受領したという事実を反映しているのではないでしょうか。