今回の講演でもいくつかの論者は「唐」による「驥尾政策」つまり「筑紫」他に「都督府」が置かれ、「唐」による政治が行われたと考えていることを表明していました。特に「中村修也」先生は「近畿にも都督府が置かれた」ということを表明されていました。
講演の際には当方はこの件について深く考えたことがなく、意見表明しませんでしたが、おぼろげに「驥尾政策」はなかったと考えていたものです。
今回もう少し検討を加えた結果、その感覚は強化され、明確に「驥尾政策」はなかったと考えるようになっています。
彼らは「筑紫都督府」という『書紀』に書かれた存在がそれを表すものだと考えているようですが、私はそうは思いません。
確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどです。その意味で「筑紫」が「倭国」の首都であるという議論があることも承知していますが、別の意味でその点については賛成します。(後ほど触れます)
しかし「都督府」等が置かれるのはあくまでもその当事国自体が「戦闘領域」となった経緯があるのが前提であり、その意味で倭国が戦争当事国でなかったとは断言できないものの、少なくとも「戦闘領域」ではなかったものであり、そのような場所に「都督府」が設置された例がないことを考えると、この時「筑紫」に「都督府」を「唐」が設置するとは考えられないといえます。
また「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一この時の「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す事態を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えるとこのような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいといえます。
「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。
「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)
ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守には常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。
「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」
これは「倭国」の場合と比較すると「海」と「砂漠」の違いはあるものの、間に地理的障害があり、また遠距離であって軍事的負担が多すぎるという点で共通します。このように「唐」は以前から遠隔地については「驥尾政策」的なことは行っていない現実があり、これを踏まえるとこの時「唐」が「倭国」(筑紫日本国)に対して「驥尾政策」を行ったとは考えにくいと言えるでしょう。そう考えた場合『書紀』に出てくる「筑紫都督府」は誰が設置したのかという点が問題になります。私見ではこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えます。
一般に「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、その権利があるのは「難波日本国」しかないといえます。すでに述べたように「日本国」は当時列島に二つ存在していたものであり、「筑紫」地域が「難波日本国」と別国であり、「百済を救う役」の惨敗により倒れた「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
「筑紫日本国」が「高麗」の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも遠征に出動していたのは記録からも明らかですから、「筑紫」にはほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではないと思われます。
そして「筑紫」の「軍事的空白」を埋めた形の「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができます。
彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『海外国記』に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。
また「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一この時の「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す事態を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えるとこのような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいといえます。
「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。
「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)
ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守には常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。
「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」
これは「倭国」の場合と比較すると「海」と「砂漠」の違いはあるものの、間に地理的障害があり、また遠距離であって軍事的負担が多すぎるという点で共通します。このように「唐」は以前から遠隔地については「驥尾政策」的なことは行っていない現実があり、これを踏まえるとこの時「唐」が「倭国」(筑紫日本国)に対して「驥尾政策」を行ったとは考えにくいと言えるでしょう。そう考えた場合『書紀』に出てくる「筑紫都督府」は誰が設置したのかという点が問題になります。私見ではこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えます。
一般に「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、その権利があるのは「難波日本国」しかないといえます。すでに述べたように「日本国」は当時列島に二つ存在していたものであり、「筑紫」地域が「難波日本国」と別国であり、「百済を救う役」の惨敗により倒れた「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
「筑紫日本国」が「高麗」の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも遠征に出動していたのは記録からも明らかですから、「筑紫」にはほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではないと思われます。
そして「筑紫」の「軍事的空白」を埋めた形の「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができます。
彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『海外国記』に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。
「鎮西筑紫大将軍」とは、その語義から言っても明らかに「筑紫都督」を指すものと考えられます。(「都督」は「大将軍」でもあるわけです)またその直前には「筑紫大宰」という名称も現れますが、まず「大宰」が「将軍牒書一函」の内容を確認しているようです。そして、それが「劉仁願」の私信でありまた「私」の使者であるという判断をしたわけですが(実際には「勅旨」とされている)、それを口頭で伝えたのが「九月」のことであり、その段階「以降」については「軍事部門」が担当する、という事になったのではないでしょうか。つまり、ここでは「大宰」と「都督」とが同時に存在している事を示すものと考えられます。
この「将軍牒書一函」についてはその後、「突っぱねる」事となるわけですから、それに対し彼等(「郭務悰」や「百済禰軍」)が不穏な行動を起こすという可能性もあるわけであり、それらを返却する際には「将軍名」(都督名)でこれを行っていると考えられ、最終的な時点では対外交渉は「軍事部門」に任せたという事と考えられます。
「都督府記事」はこの三年後のことであり、ここで言う「鎮西筑紫大将軍」というものと強い関連があるものと考えられます。つまり「鎮西」とは「難波日本国」から見て西の地域である「筑紫」を統治している軍事勢力の長としての自称と思われのです。
この「将軍牒書一函」についてはその後、「突っぱねる」事となるわけですから、それに対し彼等(「郭務悰」や「百済禰軍」)が不穏な行動を起こすという可能性もあるわけであり、それらを返却する際には「将軍名」(都督名)でこれを行っていると考えられ、最終的な時点では対外交渉は「軍事部門」に任せたという事と考えられます。
「都督府記事」はこの三年後のことであり、ここで言う「鎮西筑紫大将軍」というものと強い関連があるものと考えられます。つまり「鎮西」とは「難波日本国」から見て西の地域である「筑紫」を統治している軍事勢力の長としての自称と思われのです。