「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」
「要旨」
「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。
Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止
各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)
正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えるというわけです。たとえば、欽明天皇陵までは明らかに「前方後円墳」ですが、(「敏達」はいずれか明確でないものの)「用明」以降「方墳」となります。またほぼ同時期に「筑前」の「夫婦塚1・2号墳」を初めとした北部九州の「有力者」と思われる古墳が「方墳」へと変化するのが確認できます。さらにそれはいわゆる「群集墳」(註二)でも同様であり、この時西日本全域において墓制全体が「方墳」へと統合されていったように見受けられます。
この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられているものの、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
このことについては、拙稿(註三)でも論じたように、このように広い範囲で同時期に同様の事象が発生するためにはその時点でそのような広い範囲に権力を行使可能な「強い権力者」が存在したことを意味すると思われ、またそのような「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されていたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。さらに、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」に対する「統治機構」の確立が「難波朝廷」成立に先立つものであり、「七世紀初め」であったことと考えられることがその理由として挙げられるでしょう。
この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由が不明となりますが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えた場合この「時間差」はある意味自然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国である「筑紫」及び近隣の「諸国」と、「遠距離」にある「東国」への「統治力」の「差」がここに現れて当然といえるわけです。それは「出先機関」として「難波朝廷」成立以前に「難波」を中心とする近畿に拠点ができたことを示すものとも言えます。
また、この時出されたはずの「詔」に類するものが『日本書紀』(以下『書紀』と略す)の該当年次付近では見あたりません。ただし、一見関連していると思えるものとしては、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。
「要旨」
「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。
Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止
各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)
正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えるというわけです。たとえば、欽明天皇陵までは明らかに「前方後円墳」ですが、(「敏達」はいずれか明確でないものの)「用明」以降「方墳」となります。またほぼ同時期に「筑前」の「夫婦塚1・2号墳」を初めとした北部九州の「有力者」と思われる古墳が「方墳」へと変化するのが確認できます。さらにそれはいわゆる「群集墳」(註二)でも同様であり、この時西日本全域において墓制全体が「方墳」へと統合されていったように見受けられます。
この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられているものの、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
このことについては、拙稿(註三)でも論じたように、このように広い範囲で同時期に同様の事象が発生するためにはその時点でそのような広い範囲に権力を行使可能な「強い権力者」が存在したことを意味すると思われ、またそのような「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されていたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。さらに、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」に対する「統治機構」の確立が「難波朝廷」成立に先立つものであり、「七世紀初め」であったことと考えられることがその理由として挙げられるでしょう。
この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由が不明となりますが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えた場合この「時間差」はある意味自然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国である「筑紫」及び近隣の「諸国」と、「遠距離」にある「東国」への「統治力」の「差」がここに現れて当然といえるわけです。それは「出先機関」として「難波朝廷」成立以前に「難波」を中心とする近畿に拠点ができたことを示すものとも言えます。
また、この時出されたはずの「詔」に類するものが『日本書紀』(以下『書紀』と略す)の該当年次付近では見あたりません。ただし、一見関連していると思えるものとしては、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。
「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」
この「詔」は、一般に六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。
しかしこの「詔」は単に「寺院」の造営について述べたものであり、「前方後円墳」の「築造」を停止するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。
かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないわけであり、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「前方後円墳造営」の禁止や制約を加えるための直接的な指示や「詔」が別に出ていたと考えざるを得ません。
しかし、史料上ではこの六世紀末という時期にはそのようなものが見あたらないわけです。「何」を根拠として「前方後円墳」の築造が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明でした。
Ⅱ.「薄葬令」について
『書紀』によれば「薄葬令」というものが「孝徳朝」期に出されています。
(以下「薄葬令」を示します。ただし「読み下し」は「岩波書店」の「日本古典文学大系新装版『日本書紀』」(以下「大系」と略す)に準拠します)
「(大化)二年三月癸亥朔…甲申。詔曰。(中略)迺者(このごろ)我が民(おほみたから)貧しく絶しきこと、專墓を營るに由れり。爰に其の制(のり)を陳べて、尊さ卑さ別(わき)あらしむ。夫王以上之墓者。其の内の長さ九尺。濶(ひろ)さ五尺。其の外の域(めぐり)は方九尋、高さ五尋。役(えよほろ)一千人。七日に訖らしめよ。其葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には、白布(しろぬの)を用ゐよ。轜車(きくるま)有れ。上臣の墓は、其内の長さ濶さ及高さは皆上(上)に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方七尋。高三尋。役五百人、五日に訖らしめよ。其の葬らむ時の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐよ。擔(ひて)行け。盖し此は肩を以って與を擔ひて送るか。下臣の墓は。其の内の長さ濶さ及高さは皆上に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方五尋、高さ二尋半、役二百五十人、三日にして訖らしめよ。其の葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐること亦上に准(なずら)へ。大仁。小仁の墓は、其の内の長さ九尺。高さ濶さ各四尺。封(つちつかず)して、平(たいらか)ならしめよ。役一百人。一日に訖らしめよ。大禮より以下小智より以上の墓は。皆大仁に准へ。役五十人。一日に訖らしめよ。凡そ王以下小智以上の墓は、小さき石を用ゐよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等には麁布(あらきぬの)を用いるべし。一日も停むること莫かれ。凡そ王より以下、及庶民(おほみたから)に至るまでに、營ること殯(もがりや)得ざれ。凡そ畿内より諸の國等に至るまでに、一所に定めて、收め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく處處に散し埋むること得じ。凡そ人死亡ぬる時に、若(も)しは自を經きて殉(したが)ひ、或いは人を絞りて殉しめ、強ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉はしめ、或いは亡人の爲に寶を墓に藏め、或いは亡人の爲に髮を斷り股を刺して誄す。此の如き舊俗(ふるきしわざ)一(もはら)に皆悉くに斷めよ。」
これは『書紀』では「七世紀半ば」の『孝徳紀』に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないという見方もあり、より遅い時期に出されたものと考える向きもありました。(註四)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、「持統朝」に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬令」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。
「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」
このように「薄葬令」の中の区分に使用されている冠位は「六四七年」までしか使用されなかったものであり、これを捉えて「薄葬令」が「持統朝」に出されたとは言えないとする考え方もあり、それが正しければ『孝徳紀』以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)
しかしこれについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係しているとみるべきではないでしょうか。なぜなら「薄葬令」の中身を吟味してみると「七世紀半ば」というタイミングで出されたものとするにはその中身に明らかな疑義があるからです。
Ⅲ.「薄葬令」中身の検討
この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(註五)岩波の「大系」の「注」でも「方形」であると明言しています。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていたものです。
「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」
この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、「倭人伝」の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、この「薄葬令」では「円墳」を主として想定していないことがわかります。
しかしいずれにせよ「前方後円墳」についての規定ではないことは明確です。この「薄葬令」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなると思われます。「前方後円墳」は「縦横」のサイズも形状も異なり、「方」で表現するのにはなじまない形だからです。
このことから考えて、「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬令」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があることとなります。
Ⅳ.「殉死禁止」規定の矛盾と『隋書俀国伝』
さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」その他旧習を禁止するという以下の規定です。
「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」
「殉葬」は『魏志倭人伝』に「卑弥呼」の死に際して「殉葬するもの奴婢百余人」とあるように古来から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは各地で確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かでしょう。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには「殉葬」がまだ行われているという「現実」が必要であり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は「詔」の内容とは整合しないといえます。
Ⅴ.「薄葬令」制定と「訓令」の関係
この「薄葬令」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「曹操」(武帝)ですが、その後子息である「曹丕」(文帝)に受け継がれ、彼の「遺詔」として出されたものが『三國志』に見られます。この『孝徳紀』の「薄葬令」の前段にもそれが多く引用されているのが確認でき、当時の倭国でもこれを踏まえたものと見られます。但し、それがこの時期に至って参照され、前例とされているのには理由があると思われ、その実は「仏教」推進のためであり、それは「隋」の高祖「文帝」からの「訓令」によるものであったと考えることができそうです。
倭国から北朝に初めて派遣された使者である「遣隋使」が「文帝」に問われるままに答えた倭国の風俗(慣習・制度等)の中に「倭国王」の統治の体制について述べた部分があり、そこで「兄弟統治」と理解される内容を答えたところ「無義理」つまり「道理がない」とされ、「訓令」により「改めさせられた」という記事が『隋書』にあります。
「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是『訓令』改之。」(『隋書/列伝/東夷/俀国』より)
私見によればこの「訓令」の中身としては「仏教」の国教化と古典的祭祀の停止というものがそこで示されたと考えます。そしてそれを承けて「倭国王」が具体的に国内に示したものの一つが「薄葬令」であったと思われるわけです。
「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については、「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたと考える論(註六)もあり、それに従えばこのようなことも含め「隋」の「高祖」(文帝)が忌み嫌った「無義理」のものとみることができるでしょう。
「遣隋使」の語ったところでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたというわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制としては「倭国」の独自性があらわれていたものであり、それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものでしょう。そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。「訓令」の用例(註七)からも具体的な内容を含んでいて当然とも思われます。
「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが「仏教」を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
Ⅵ.「倭国」の統治体制の変革と「前方後円墳」と「殯」の停止
「隋帝」から「仏教」を国教とするべしという「訓令」を受けた「倭国王」自身も「古典的祭祀」として行われている現実を「忌避」し、「打破」しようとしたとも考えられます。それはこのような祭祀の存在が「王」の交代というものについて「倭国王」というより「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することとなるということを懸念したと考えられるからです。
この時「倭国王」は「統一王権」を造り、その地盤を固めようとしていたと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察され、そうであるなら「隋帝」からの「訓令」はいわば「渡りに船」であったといえるでしょう。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。そのことはまた「埴輪」の終焉が同時であることからもいえることです。
「埴輪」については「前方後円墳」と組み合わせて行われていた「祭祀」の重要な要素であり、また「墓域」を「聖域」化する重要なパーツとして位置づけられていたとされます。その「埴輪」がいわゆる「終末期古墳」とされる「円墳」や「方墳」からは随伴しないわけであり、それは「埴輪」が「前方後円墳」と同様「倭王権」からの指示等により廃止されたことを示していると思われます。
さらにこの「薄葬令」では「殯」について「王以下」はこれを営んではいけないというような禁止規定(以下のもの)が設けられています。
「…凡そ王より以下、及庶民(おほみたから)に至るまでに、營ること殯(もがりや)得ざれ。…」
「殯」の期間が設定されなければ、上に見たような「前首長」から「次代」の首長へと「霊」の受け渡しという「古典的」な祭祀が執り行えないこととなります。これは「地域首長」にそのような祭祀の長たる性格を認めないという意志が見えるものであり、そのような祭祀そのものを否定すると同時に「祭祀的首長」というものの存在を否定するものともいえるものです。
このように「薄葬令」は「墳墓」の「形状」についての制限と「殯」についての制限というように二重に枠をはめることにより「前方後円墳」とそれに付随する「祭祀」をもろともに禁止する趣旨であったと見られるわけです。
以上のように現実として「前方後円墳」が作られなくなり「方墳」が増加する時期と『書紀』で「薄葬令」の出された時期とは乖離しているわけですが、その場合は優先し重要視すべきは現実であり、『書紀』ではありません。『書紀』を第一に考えて歴史を理解しようとするすべての試みは否定されるべきであり、その意味でも「薄葬令」の出された時期として「六世紀末」から「七世紀初め」というものを想定することやそのことに「隋」の「文帝」からの「訓令」が関与していると考えるのはあながち間違いとは言えないと思われるわけです。
(補足)
『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については機会を頂ければ詳述したいと思います。
(註)
一.広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書二〇一〇年)、原島礼二『古代の王者と国造』(教育社歴史新書一九七九年)その他多数の論文による。
二.古墳時代の中期以降終末期まで多く作られた墳墓群であり、山の斜面などのかなり狭い土地に造られているという特徴があります。
三.拙論「「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)」(『古田史学会報』一〇八号及び一〇九号二〇一一年)
四.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘していますが、上に述べたように疑問があります。(『新「大化改新」論争の提唱 -日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
五.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。
六.春成秀爾『祭りと呪術の考古学』(塙書房二〇一一年)による。
七.「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。
「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境內豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令』蠶織,為作法制,皆著于鄉亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)
ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。