古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「訓令」と「薄葬令」について

2024年01月21日 | 古代史
「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」

「要旨」
「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。

Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止
 各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)
 正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えるというわけです。たとえば、欽明天皇陵までは明らかに「前方後円墳」ですが、(「敏達」はいずれか明確でないものの)「用明」以降「方墳」となります。またほぼ同時期に「筑前」の「夫婦塚1・2号墳」を初めとした北部九州の「有力者」と思われる古墳が「方墳」へと変化するのが確認できます。さらにそれはいわゆる「群集墳」(註二)でも同様であり、この時西日本全域において墓制全体が「方墳」へと統合されていったように見受けられます。
 この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられているものの、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
 このことについては、拙稿(註三)でも論じたように、このように広い範囲で同時期に同様の事象が発生するためにはその時点でそのような広い範囲に権力を行使可能な「強い権力者」が存在したことを意味すると思われ、またそのような「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されていたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。さらに、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」に対する「統治機構」の確立が「難波朝廷」成立に先立つものであり、「七世紀初め」であったことと考えられることがその理由として挙げられるでしょう。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由が不明となりますが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えた場合この「時間差」はある意味自然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国である「筑紫」及び近隣の「諸国」と、「遠距離」にある「東国」への「統治力」の「差」がここに現れて当然といえるわけです。それは「出先機関」として「難波朝廷」成立以前に「難波」を中心とする近畿に拠点ができたことを示すものとも言えます。
 また、この時出されたはずの「詔」に類するものが『日本書紀』(以下『書紀』と略す)の該当年次付近では見あたりません。ただし、一見関連していると思えるものとしては、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。

「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」

 この「詔」は、一般に六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。
 しかしこの「詔」は単に「寺院」の造営について述べたものであり、「前方後円墳」の「築造」を停止するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。
 かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないわけであり、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「前方後円墳造営」の禁止や制約を加えるための直接的な指示や「詔」が別に出ていたと考えざるを得ません。
 しかし、史料上ではこの六世紀末という時期にはそのようなものが見あたらないわけです。「何」を根拠として「前方後円墳」の築造が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明でした。

Ⅱ.「薄葬令」について
 『書紀』によれば「薄葬令」というものが「孝徳朝」期に出されています。
(以下「薄葬令」を示します。ただし「読み下し」は「岩波書店」の「日本古典文学大系新装版『日本書紀』」(以下「大系」と略す)に準拠します)

「(大化)二年三月癸亥朔…甲申。詔曰。(中略)迺者(このごろ)我が民(おほみたから)貧しく絶しきこと、專墓を營るに由れり。爰に其の制(のり)を陳べて、尊さ卑さ別(わき)あらしむ。夫王以上之墓者。其の内の長さ九尺。濶(ひろ)さ五尺。其の外の域(めぐり)は方九尋、高さ五尋。役(えよほろ)一千人。七日に訖らしめよ。其葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には、白布(しろぬの)を用ゐよ。轜車(きくるま)有れ。上臣の墓は、其内の長さ濶さ及高さは皆上(上)に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方七尋。高三尋。役五百人、五日に訖らしめよ。其の葬らむ時の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐよ。擔(ひて)行け。盖し此は肩を以って與を擔ひて送るか。下臣の墓は。其の内の長さ濶さ及高さは皆上に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方五尋、高さ二尋半、役二百五十人、三日にして訖らしめよ。其の葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐること亦上に准(なずら)へ。大仁。小仁の墓は、其の内の長さ九尺。高さ濶さ各四尺。封(つちつかず)して、平(たいらか)ならしめよ。役一百人。一日に訖らしめよ。大禮より以下小智より以上の墓は。皆大仁に准へ。役五十人。一日に訖らしめよ。凡そ王以下小智以上の墓は、小さき石を用ゐよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等には麁布(あらきぬの)を用いるべし。一日も停むること莫かれ。凡そ王より以下、及庶民(おほみたから)に至るまでに、營ること殯(もがりや)得ざれ。凡そ畿内より諸の國等に至るまでに、一所に定めて、收め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく處處に散し埋むること得じ。凡そ人死亡ぬる時に、若(も)しは自を經きて殉(したが)ひ、或いは人を絞りて殉しめ、強ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉はしめ、或いは亡人の爲に寶を墓に藏め、或いは亡人の爲に髮を斷り股を刺して誄す。此の如き舊俗(ふるきしわざ)一(もはら)に皆悉くに斷めよ。」

 これは『書紀』では「七世紀半ば」の『孝徳紀』に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないという見方もあり、より遅い時期に出されたものと考える向きもありました。(註四)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、「持統朝」に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬令」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。
「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」
 このように「薄葬令」の中の区分に使用されている冠位は「六四七年」までしか使用されなかったものであり、これを捉えて「薄葬令」が「持統朝」に出されたとは言えないとする考え方もあり、それが正しければ『孝徳紀』以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)
 しかしこれについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係しているとみるべきではないでしょうか。なぜなら「薄葬令」の中身を吟味してみると「七世紀半ば」というタイミングで出されたものとするにはその中身に明らかな疑義があるからです。

Ⅲ.「薄葬令」中身の検討
 この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(註五)岩波の「大系」の「注」でも「方形」であると明言しています。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていたものです。
「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」
 この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、「倭人伝」の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、この「薄葬令」では「円墳」を主として想定していないことがわかります。
 しかしいずれにせよ「前方後円墳」についての規定ではないことは明確です。この「薄葬令」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなると思われます。「前方後円墳」は「縦横」のサイズも形状も異なり、「方」で表現するのにはなじまない形だからです。
 このことから考えて、「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬令」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があることとなります。
 
Ⅳ.「殉死禁止」規定の矛盾と『隋書俀国伝』
 さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」その他旧習を禁止するという以下の規定です。
「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」
 「殉葬」は『魏志倭人伝』に「卑弥呼」の死に際して「殉葬するもの奴婢百余人」とあるように古来から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは各地で確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かでしょう。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには「殉葬」がまだ行われているという「現実」が必要であり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は「詔」の内容とは整合しないといえます。

Ⅴ.「薄葬令」制定と「訓令」の関係
 この「薄葬令」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「曹操」(武帝)ですが、その後子息である「曹丕」(文帝)に受け継がれ、彼の「遺詔」として出されたものが『三國志』に見られます。この『孝徳紀』の「薄葬令」の前段にもそれが多く引用されているのが確認でき、当時の倭国でもこれを踏まえたものと見られます。但し、それがこの時期に至って参照され、前例とされているのには理由があると思われ、その実は「仏教」推進のためであり、それは「隋」の高祖「文帝」からの「訓令」によるものであったと考えることができそうです。
 倭国から北朝に初めて派遣された使者である「遣隋使」が「文帝」に問われるままに答えた倭国の風俗(慣習・制度等)の中に「倭国王」の統治の体制について述べた部分があり、そこで「兄弟統治」と理解される内容を答えたところ「無義理」つまり「道理がない」とされ、「訓令」により「改めさせられた」という記事が『隋書』にあります。

「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是『訓令』改之。」(『隋書/列伝/東夷/俀国』より)

 私見によればこの「訓令」の中身としては「仏教」の国教化と古典的祭祀の停止というものがそこで示されたと考えます。そしてそれを承けて「倭国王」が具体的に国内に示したものの一つが「薄葬令」であったと思われるわけです。
 「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については、「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたと考える論(註六)もあり、それに従えばこのようなことも含め「隋」の「高祖」(文帝)が忌み嫌った「無義理」のものとみることができるでしょう。
 「遣隋使」の語ったところでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたというわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制としては「倭国」の独自性があらわれていたものであり、それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものでしょう。そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
 そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。「訓令」の用例(註七)からも具体的な内容を含んでいて当然とも思われます。
 「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが「仏教」を「国教」とするというものであったと思われるわけです。

Ⅵ.「倭国」の統治体制の変革と「前方後円墳」と「殯」の停止
 「隋帝」から「仏教」を国教とするべしという「訓令」を受けた「倭国王」自身も「古典的祭祀」として行われている現実を「忌避」し、「打破」しようとしたとも考えられます。それはこのような祭祀の存在が「王」の交代というものについて「倭国王」というより「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することとなるということを懸念したと考えられるからです。
 この時「倭国王」は「統一王権」を造り、その地盤を固めようとしていたと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察され、そうであるなら「隋帝」からの「訓令」はいわば「渡りに船」であったといえるでしょう。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。そのことはまた「埴輪」の終焉が同時であることからもいえることです。
 「埴輪」については「前方後円墳」と組み合わせて行われていた「祭祀」の重要な要素であり、また「墓域」を「聖域」化する重要なパーツとして位置づけられていたとされます。その「埴輪」がいわゆる「終末期古墳」とされる「円墳」や「方墳」からは随伴しないわけであり、それは「埴輪」が「前方後円墳」と同様「倭王権」からの指示等により廃止されたことを示していると思われます。
 さらにこの「薄葬令」では「殯」について「王以下」はこれを営んではいけないというような禁止規定(以下のもの)が設けられています。
「…凡そ王より以下、及庶民(おほみたから)に至るまでに、營ること殯(もがりや)得ざれ。…」
 「殯」の期間が設定されなければ、上に見たような「前首長」から「次代」の首長へと「霊」の受け渡しという「古典的」な祭祀が執り行えないこととなります。これは「地域首長」にそのような祭祀の長たる性格を認めないという意志が見えるものであり、そのような祭祀そのものを否定すると同時に「祭祀的首長」というものの存在を否定するものともいえるものです。
 このように「薄葬令」は「墳墓」の「形状」についての制限と「殯」についての制限というように二重に枠をはめることにより「前方後円墳」とそれに付随する「祭祀」をもろともに禁止する趣旨であったと見られるわけです。
 以上のように現実として「前方後円墳」が作られなくなり「方墳」が増加する時期と『書紀』で「薄葬令」の出された時期とは乖離しているわけですが、その場合は優先し重要視すべきは現実であり、『書紀』ではありません。『書紀』を第一に考えて歴史を理解しようとするすべての試みは否定されるべきであり、その意味でも「薄葬令」の出された時期として「六世紀末」から「七世紀初め」というものを想定することやそのことに「隋」の「文帝」からの「訓令」が関与していると考えるのはあながち間違いとは言えないと思われるわけです。

(補足)
 『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については機会を頂ければ詳述したいと思います。

(註)
一.広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書二〇一〇年)、原島礼二『古代の王者と国造』(教育社歴史新書一九七九年)その他多数の論文による。
二.古墳時代の中期以降終末期まで多く作られた墳墓群であり、山の斜面などのかなり狭い土地に造られているという特徴があります。
三.拙論「「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)」(『古田史学会報』一〇八号及び一〇九号二〇一一年)
四.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘していますが、上に述べたように疑問があります。(『新「大化改新」論争の提唱 -日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
五.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。
六.春成秀爾『祭りと呪術の考古学』(塙書房二〇一一年)による。
七.「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。
「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境內豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令』蠶織,為作法制,皆著于鄉亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)
 ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
コメント

別の論考として

2024年01月21日 | 古代史
前回までと同趣旨ですが、別の論考を示します。

「大業三年記事」の「隋帝」の正体 ―「大業起居注」の欠如と「重興仏法」という用語―

「趣旨」
 『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること。以上を述べます。

Ⅰ.『隋書』に対する疑い -大業年間の「起居注」の亡失について-
 『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたものです。
 『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた古田氏においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
 おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事については該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については、『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、記事として確実性がやや劣ると見る立場もあるようです。それは「起居注」との関係からです。
 『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、本来は皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる重要且つ極秘の記録でした。この「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという考え方があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点(初唐)で宮廷の秘府(宮廷内書庫)に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、亡失しているようです。
 また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。(註1)
 また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。…」(『隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋』 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。
 ここで出てきた「王劭」という人物については以下に見るように「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰したものです。しかし、当時そのような「私撰」は禁止されており、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧されるところとなったものですが、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。

(以下関係記事)
「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為待史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四/王劭』より)

 その後「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「文帝」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職したとされます。
 このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成できる立場になかったことが明らかです。彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されていまから、「王劭」はあくまでもその期間である「開皇」「仁寿」という文帝治世期間のデータしか持っていなかったこととなるでしょう。
 つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。(「高祖」の「一代記」という性格があった思われます)
 その後「唐」の「高祖」(李淵)により武徳年間に「顔師古」等に命じて『隋史』をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
 『旧唐書』(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に「令狐徳菜」が「高祖」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。

「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德棻奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻』より)

 しかしここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。それが数年の内に全て戻ったとも考えにくいものです。それを示すのは同じ『旧唐書』の「魏徴伝」です。

「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徵』より)

 ここでは「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、全ての史料を集めることができたかはかなり疑問であり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。「経籍志」の中に「大業起居注」存在が書かれていないわけですから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
 似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』は数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性に重大な疑義が呈されています。これも同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『晋書』同様『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。
 特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。その典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのような「皇帝の言動記録」が本来「起居注」そのものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審の一語であるといえます。
 『隋書』に関する研究(註2)では、この「大業年間」の記事に関して「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされていますが、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、それを否定するにはそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。(「起居注」に書かれるべき内容は「皇帝」も見る事ができないという性質のものですから、基本的に極秘資料であり、同内容のものが「鴻臚寺」にあったとすると「秘密」が漏れていることとなってしまいます。)
 また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は「大業起居注」を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
 ではこれらの記事は何を根拠に書かれたのでしょうか。これについては推測するしかないわけですが、「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず「開皇起居注」や「仁寿年間」の記録から記事を「移動」して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」に見られるという「事象」が発生していると思われるわけです。
 つまり「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。

Ⅱ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について
 前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」についての信憑性に問題があるという点については、『隋書俀国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興仏法」というものがあることで、更にその疑いが増します。

「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書』列傳第四十六/東夷/俀国)

 ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。
 さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「仏教」の回復に乗り出しました。彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。そのあたりの様子は、例えば下記のような経典類にも書かれていますが、その中には「重興佛法」という用語そのものの使用例がいくつか確認できます。

(一)「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」(大正新脩大藏經 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通錄卷上/振旦神州佛舍利感通序)

(二)「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。于時赤光照室流溢外戶。紫氣滿庭狀如樓闕。色染人衣。內外驚禁。嬭母以時炎熱就而扇之。…及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(大正新脩大藏經 史傳部二/二○六○ 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)

 つまり、「重興仏法」という用語は「隋」の「高祖」と関連して使用されていると見られます。(育ての親である「尼僧」の予言として「佛法當滅由兒興之」とされたことの現実化としての「重興仏法」ですから、これは「隋代」には「文帝」と強く結びついた特別の用語であったと思われるわけです。)
 また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されているのが注目されます。彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の「高祖」と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
 これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例は『隋書』にもそれ以外の書にも確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
 古田氏は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「文帝」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
 この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。
 しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「文帝」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
 「隋帝」の存否について言えば、「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「文帝」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「文帝」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。(註3)
 以上のような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなります。


1.たとえば「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「『貞観修史』は「実録」を尽くしていないという記述があり(以下の記事)、「実録」が「起居注」から作成されるものであることを考えるとそもそも「起居注」が不完全であったことが示唆されることとなっています。また『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されていることなどから「推測」されていることでもあります。
「(大業雑記)唐著作郎杜宝撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史。未尽実録。故為此以書。以弥縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)
2.榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 二〇〇八』、二〇〇八年三月)
3.さらにいえばこのときの「倭国王」の言葉の中には「大國維新之化」や「大隋禮義之国」というものもあり、これらも「煬帝」ではなく「文帝」をさして使用していると見て自然です。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」(『隋書俀国伝』より)
 この中の「維新」の語も『隋書』では「煬帝」に対して使用された例がなく、「文帝」に対してのものしか確認できません。この「維新」という用語は「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。さらに「大隋禮義之国」という表現も、「隋代」の中でも「煬帝」よりは「文帝」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。なぜなら「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」など多くの「禮制」が「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「文帝」の時代の事でした。ここで「倭国王」の「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。それも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義」の国と呼称したという可能性が考えられるでしょう。
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「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)

2024年01月21日 | 古代史
今回が表記シリーズの最後となります。

「『遣隋使』はなかった」か? (六)

「要旨」
 『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。

Ⅰ.「開皇二十年」記事について
 先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前には「倭国」との交渉を記したものはないわけですから、これが初めての国交記事であるのは明白ともいえます)
 そこでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」はどうなっているのかを問わせ、さらに「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしてるのかを調査しています。これらのことは「国交」が始められた時点における調査事項の一環とすれば納得できるものであり、それは国書などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。このような事項を聴取した上で書かれたものが、『推古紀』に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。
 そこでは「使人長吏大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として『隋書』に書かれているものではないかと考えられるのです。つまり『推古紀』記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられ、その『推古紀』記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですから、この「開皇二十年」記事も「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになるでしょう。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料では)「国交開始」のための「遣隋使」派遣という事態を承けて、「表報使」として「倭国」に派遣されたものであり、その際に「国書」を持参したというわけです。
 よく似た例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。(註1)そこでは「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
 この例からは「倭国」からの遣隋使に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと推量されることとなります。それが「鴻臚寺掌客裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」の位という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることも注目されます)
 さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であった可能性があります。なぜなら「蕃客」との接客対応は本来「鴻臚寺掌客」の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの本来の職掌であったと見られるからです。
 『後漢書』にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。(註2)
 これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られることとなった経緯として、「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「鴻臚寺掌客」であるところの「裴世清」であったことが重要であったという可能性があるでしょう。

Ⅱ.「隋」の「楽制」について
 「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。

「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」(『隋書列傳第四十六/東夷/?国』より)

 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。

「…始開皇初定令置七部樂。一曰國伎、二曰淸商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・?厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(『隋書/志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭』より)

 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけですから、これが「倭国」からの使者がもたらしたものと考えれば、その使者が派遣されたのは「開皇の始め」つまり「隋初」と考えざるを得ないものです。(前王朝である「北周」の史料には「倭国」が現れませんから、早くても「隋代」であるのは確かと推察できます。)
 上の「開皇二十年」の「記事」中に現れる「倭国」の「国楽」が「隋」へ献納されたものと見られ、「雑楽」として「隋制」に取り込まれたものでしょう。これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国から「間接的に」伝えられたものというようなことは考えられません。それが「隋」という国家の制度として取り入れられたということは、当然「正式」な(公式な)ものとして「隋」に伝えられたことを意味しますから、「倭国」からの正式な使者が伝えたと考えるのが相当でしょう。それはこの「七部楽」が奏されるのは当該国の使者が「皇帝」に面会する時点であるとされることからも示唆されるものであり、「隋」への伝来も同様に正式な使者により伝えられたと考えるべきことを示します。
 従来からこの「隋代七部楽」の成立というものと「開皇二十年記事」に書かれた「国楽」というものの間に関係があるとは考えられていたものの、その場合この両者間に「年次」の「矛盾」が発生してしまう点については考慮されてきていませんでした。(「開皇二十年」は「開皇の始め」ではないからです)しかるに、この「七部楽」を含む「楽制」の成立は「楊堅」の治世期間の初期のものであり、これが「隋」と「倭国」と国交が樹立された時点の話であるはずのこととなると、やはり『隋書』には「年次移動」があると考えざるを得ないこととなります。つまり「開皇二十年」記事の本来時点が「隋代初期」であったことを示すということとなりますから、この記事自体が本来「楽制」を定める以前の時点の「隋初」の時代の記事であったものということとなるでしょう。またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らす」というように「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。

「倭王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎。」(『隋書列傳第四十六/東夷/俀国』より)

 この「鼓角を鳴らす」のは逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと思われます。それは「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事と関連しています。
 このことから、この「鼓角」という「楽器」は「遣隋使」以降に「倭国内」に流入したものと考えざるを得なくなり、「隋皇帝」からのいわば「下賜」としてのものであったという可能性が高いものです。
 渡辺信一郎氏の著書(註3)ではここに書かれている部分について「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのは「開皇十三年」(五九四年)とされ(『『隋書/志第八/音樂上』)、この「倭国」の歓迎の様子はそれを踏まえたものとされていますが、これは上の推測と極端には反しないものと言えるでしょうす。(整備にもその準備期間があると思われ、南朝を滅ぼし統一した時点付近で整備がはじめられたとするとそれほどの時期的矛盾ではないといえます)

Ⅲ.「東都」と「東京」
 『斉明紀』に「伊吉博徳」という人物が「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(『斉明紀』)

 この「東京」とは「洛陽」を指すものですが、この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものではありますが、「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されたものです。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったものです。更にこの「東都」はそれ以後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていました。(註4)(唐の高祖は一旦「東都」という表現を止めたとされますが、それ以降も史書には「東都」という表記が出てきます)
 無論「伊吉博徳」が遣唐使として訪れた「高宗」の代の「唐」においても「洛陽」は変わらず「東都」とされていたものです。しかし「伊吉博徳」はその「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の「中国」に対する知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識が彼にはなかったこととなってしまいます。ところが『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸東都。」
「六年春正月癸亥朔,…己丑,倭國遣使貢方物。」(いずれも『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、その前年の十一月から「煬帝」は「東都」にいたものであり、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたと理解されるように書かれています。しかし、そうであるならこの時の「遣隋使」は必ず「洛陽」の呼称が変更になったことを帰国後報告したであろうし、それは王権とその周辺の人々にとって重要な情報としてその後の教養となったはずです。そう考えればその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾ということとなります。
 ただし、この時外国使者の受付を業としていた「鴻臚寺」がどこにあったかが不明ですが、まだ「京師」つまり「大興城」にあったと見ることもできるかも知れません。その場合は「倭国」からの使者も「洛陽」ではなく(それ以前の遣隋使同様)「大興城」に至ったと見る事もできるかもしれませんが、そうとは思われません。なぜなら日付から考えてもこの時の遣使は「正月」のお祝いに駆けつけたものであり、それは各国の使者においても同様であったはずであり、彼らが「皇帝」のいる「洛陽」ではなく「長安」(大興城)に行っていたとすると不審極まるものです。「倭国」からの使者は当然「洛陽」つまり「東都」を訪れたはずであると思われることとなるでしょう。しかもこの時の「倭国」からの使者記事の直前に「瑞門街」(これは「洛陽」の街の名称)において「天下奇伎異藝」つまりあらゆる地方からのあらゆる雑伎についてのカーニバルとでもいうべきものが開催されたらしいことが書かれています。

(再掲)「…丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。…」

 このような催し物が「煬帝」の政策の一環として多くの夷蛮からの使者達に見せるべくものとして開催されたことは疑えず、その意味からも各国からの「元日」の祝賀使達は「洛陽」に集まっていたと見られ、その中に「倭国」からの使者も加わっていたであろうことも疑えないこととなります。そう考えると、この時の「倭国」からの使者は必ず「東都」と改称された「洛陽」を訪れていたと考えるべきこととなりますからその知識は「倭国」に持って帰られたはずであり、そうであれば「伊吉博徳」が「東京」と称している理由が不明となります。
 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして『伊吉博徳書』は考える必要があり、この『伊吉博徳書』は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、ここで「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。そのことからの帰結として、この「伊吉博徳」の派遣以前の「遣隋使」や「遣唐使」はまだ「東京」と称していた時代にしか「洛陽」を訪れていないという可能性が考えられることとなるでしょう。
 そもそも「倭国」はそれまで「北朝」と関係が構築されていなかったわけですから、派遣された最初の「遣隋使」は(多分「百済」の引率により)「北朝」の都である「長安」(大興城)を訪れたものであり、「洛陽」についての知識はずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたもの以来でした。(当時は確かに「東京」と称されていたもの)さらに後代の「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の都「建康」へ行ったものであり、「洛陽」が「東京」と呼称されているという知識は「漢魏晋」以降変更されることがなかったものと思われるわけです。それがその後の「伊吉博徳」の教養として身についていたとすると、「東都」に改称されて以降「遣隋使」が本当に送られていたのかという点が最も疑わしいこととなるでしょう。つまり「大業六年」の「倭国記事」は信頼できないと考えられるわけです。
 この点から見ても『隋書』の「大業年間」の記録はやはり不審があるものであり、「大業年間」の記事の多くが、「帝紀」「列伝」の違いなく本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないか、つまり「年次」の移動があるのではないかという疑念はさらに補強されることとなります。

Ⅳ.『隋書』と『推古紀』記事の関係 ―まとめとして―
 以上いろいろの角度から検討しましたが、『書紀』は『隋書』を見て書かれていることはすでに明らかであり、さらにいえば『隋書』に年次を合わせていると思われ、真の年次から「ずれ」が発生していると思われます。また「大業三年」記事に合わせたのが、日本側で把握していた「最初」の(「開皇始め」と思われる)「遣隋使」記事であったとみられます。なぜ「最初」の「開皇始め」の「遣隋使」記事を「大業三年記事」に合わせたかというと、それは「天子」を標榜する「国書」に対して激怒した「隋皇帝」から「宣諭」されるという忌まわしい事件(推測によればこの時「謝罪」も行ったと見られる)を隠蔽するためであり、「訓令」は受けたものの基本的に「平和的」で「晴れがましい」という雰囲気の中で「隋使」との交渉が成立した「最初」の使者往還の記録を『隋書』中の「隋使」(裴世清)訪問記事に合わせざるを得なくなったものと思われますが、そもそも『隋書』中に「裴世清」が来倭した記事がこの一箇所しかなかったためそこに記事を持ってきたというわけであり、その『隋書』が資料不足から真の年次からずれて記録せざるを得なくなっていたという事情までは承知していなかったものであり、そのため「二重にずれて」しまったというのが事の真相ではないかと思われるわけです。

「註」
1.「…貞觀十五年,尸羅逸多自稱摩伽陀王,遣使朝貢,太宗降璽書慰問,尸羅逸多大驚,問諸國人曰 自古曾有摩訶震旦使人至吾國乎。皆曰 未之有也。乃膜拜而受詔書,因遣使朝貢。太宗以其地遠,禮之甚厚,復遣衞尉丞李義表報使。尸羅逸多遣大臣郊迎,傾城邑以縱觀,焚香夾道,逸多率其臣下東面拜受敕書,復遣使獻火珠及鬱金香、菩提樹。…」(『舊唐書/列傳第一百四十八/西戎/天竺國』より)
2.「大鴻臚,…及拜諸侯、諸侯嗣子及四方夷狄封者,臺下鴻臚召拜之。…」(『後漢書/志第二十五 百官二/大鴻臚』より)
3.渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)
4.「(天寶元年)二月…丙申,合祭天地于南郊。制天下囚徒,罪無輕重並釋放。流人移近處,左降官依資敍用,身死貶處者量加追贈。枉法贓十五疋當絞,今加至二十疋。莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又?門侍郎為門下侍郎。東都為『東京』,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下)

「他参考文献」
氣賀澤保規編『遣隋使が見た風景 -東アジアからみた新視点-』八木書店二〇一二年二月
榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」『アリーナ 二〇〇八』二〇〇八年三月
河上麻由子『古代東アジア世界の対外交渉と仏教』山川出版社二〇一一年
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系 日本書紀』岩波書店
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
『隋書』『旧唐書』『北斉書』『後漢書』等の漢籍資料は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。
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「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)

2024年01月21日 | 古代史
以下も前回からの続きとなります。

「『遣隋使』はなかった」か?(五) ―「重興仏法」という語の解釈を中心に―

「要旨」
 ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。

Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について
 前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興仏法」というものがあることで、更にその疑いが増します。

「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書列傳第四十六/東夷/?国』より)

 ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(楊堅)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「楊堅」とは同じレベルでは語れないと思われます。
 さらに、「楊堅」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。「北周」の「武帝」は「仏教」(「道教」も)を嫌い、「寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「楊堅」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「道仏二教」の回復に乗り出しました(実際には「仏教」の比重が高かったものですが)。彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。そのあたりの様子は、例えば下記のような経典類にも書かれていますが、その中には「重興佛法」という用語そのものの使用例がいくつか確認できます。

(一)「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」(『大正新脩大藏經/集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序』より)

(二)「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。于時赤光照室流溢外?。紫氣滿庭?如樓闕。色染人衣。?外驚禁。?母以時炎熱就而扇之。…及年七?告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘?略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。?著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(『大正新脩大藏經/續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一』より)

 つまり、「重興仏法」という用語は「楊堅」と関連して使用されていると見られます。(育ての親である「尼僧」の予言として「佛法當滅由兒興之」とされたことの現実化としての「重興仏法」ですから、これは「隋代」には「楊堅」と強く結びついた特別の用語であったと思われるわけです。)
 また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されているのが注目されます。彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「楊堅」と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
 これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例は(『隋書』以外の書にも)確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「楊堅」や「唐」の「宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
 古田氏は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「楊堅」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
 この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「楊堅」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「楊堅」が在位していると思っていたというようなものまであります。
 しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「楊堅」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
 「倭国年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「高祖」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「楊堅」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「高祖」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。
 以上のような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。

Ⅱ.「大隋禮義之国」と「大國維新之化」という語について
 「大隋禮義之国」という表現は、当然「隋代」の中で有効な言辞ですが、特にその中でも「煬帝」よりは「楊堅」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。
 ここでいう「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われますが、それらは「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」更には「軍礼」など多くの「礼制」が主に「北齊」の制度を継承しながら「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「楊堅」の手によるものであり、「開皇の初め」に定められたものがほとんどであったものです。
 「禮義」とは上のように「禮制」と同義と考えられますが、またそれ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。

「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(『隋書/志第二十/刑法』より)

 ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
 このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。それも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義」の国と呼称したという可能性が考えられるものですが、その場合特に「高祖」の時代のことを指すと見るべきではないかと思料します。
 さらに「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。

「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」(『『隋書列傳第四十六/東夷/?国』』より)

 ここで言う「維新」の語も『隋書』では「煬帝」に対して使用された例がなく、「楊堅」に対してのものしか確認できません。(ちなみに「唐」の「高祖」(李淵)の例も確認できません)
(以下「維新」の例)

「…帝又自糾?前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈?人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(『隋書/志第八/音樂上』より)

「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。?于九載,廓定江表,尋以?口滋多,析置州縣。…」(『隋書/志第二十四/地理上』より)

 この「維新」という用語は「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「唐」の「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながる性格のものと言え、自らの治世に対する発言ではないと思われます。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、彼らはいずれも「禅譲」とは言いながら実質的には「新王朝」の開祖であり、そのような人物に特有の使用例と思われます。つまりこれが「煬帝」へのものであったとするとやはり不審としかいえないわけです。

Ⅲ.「裴世清」の昇進スピードと「大業三年記事」について
 「隋使」として派遣されたとされる「裴世清」については、「裴氏族」に関する「家系」などを記した「裴氏家譜碑」(註)によれば「裴世清」は「貞観年間」(六三八年)には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、「裴氏家譜碑」では「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたとされます。また同じ「裴氏家譜碑」の記載では彼は「武徳七年(六二五年)以前」に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「八品」という位階は(もちろん「九品」であればさらに)低すぎると言えるでしょう。つまり仮に古田氏が言うように「隋」から「唐」へと「王朝」が交替した際に「文林郎」から降格されて「鴻臚寺掌客」(正九品)となったとすると、当時の位階制度から考えて、約三十年でおよそ二十階位以上昇進したこととなってしまいます。(各品について「正従」が有りまた「上下」があります。)その昇進スピードは異常に速いこととならないでしょうか。これを達成するには毎年昇進し、しかも二段階以上の特進がその中に無ければなりません。このことは「位階」の年次差による推定に不適切な部分があることを示唆するものです。
 彼の「隋使」としての来倭が少なくとも「開皇年間」のこととすれば、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いこととなりますから「六〇〇年」段階の「文林郎」(従八品)から、約四十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これであればかなりノーマルな昇進速度といえると思われます。
 ただし、通常中国でもその後の日本でも冠位に就くことのできる下限の年齢(初叙)は「二十五歳」でした。この時点で最下級の冠位を授けられるわけですが、「鴻臚寺掌客」の冠位はまさにその最下級のものであり、この「来倭」時点の「裴世清」は二十五歳を僅かに過ぎた程度であったらしいことが推定できるでしょう。これが「開皇年間」の事実であるとすると、仮に「大業三年」記事の年次がその通りであったとすると、「六〇八年」という段階で「文林郎」であったこととなり、四階級程度の昇進に十五年以上の年数を要したこととなってしまいます。これは逆に異常に遅い出世といえるのではないかと思われます。このペースではとても「六三八年」までに「江州刺史」という「四品」の位階までは上昇できないこととなるでしょう。さらにその前に六二四年以前に「五品」にまで到達する必要が有るわけです。それらは想定として相当無理があると思われますが、その場合上に見たように「隋」から「唐」になった時点で(古田氏の説とは逆に)「特進」したと推定するしかなくなります。しかし彼が「唐王朝」成立においてそれほど重要な役割を演じたようにも(記録からは)見受けられません。戦功でも上げれば別ですが、彼は「文官」ですからそのような機会もなかったものと見られますので、特進すべき事情が見あたらたないこととなります。
 そもそも「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)というケースもありましたが、それらは一律に行われたものではないと思われますし、そのような影響を受けたのは、もっと「政局」に影響が大きい「高位」の存在であったと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や下降があったとは考えにくいと思われます。
 またこの当時「隋王朝」の高官として「裴矩」という人物がいました。彼は「裴世清」と同様本名は「裴世矩」であったものですが、「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱としては避けたものです。彼らは同族ではありませんでしたが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、このような場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定され近しい関係にあったことが推定できますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、その場合上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既にかなりの高齢であったことが推定され、その後記事がないのはこの記事以降まもなく死去したからではないかと考えられますから、逆算すると「開皇年中」で二十代であったとして不自然ではないこととなります。それは「開皇始め」に「最下級官僚」である「鴻臚寺掌客」であったという先の推定とは基本的に矛盾しないものです。つまりこれが「隋」の「高祖」に関連したものであり、実際には「開皇年間」のことであったとすると「裴世清」の昇進スピードはわかりやすくなると思われます。「開皇年間」に「鴻臚寺掌客」として派遣の後(少なくとも十年以内)に「文林郎」となっている事となりますから、それであれば特に遅すぎるとは言えなくなります。そしてここから「六二四年」以前に「五品」、その後「六三八年」までの間に「四品」まで昇進したという想定は先に述べたように大変自然であると思われると同時にそれ以前との昇進スピードともほぼ一緒になると思われますので、その意味でも矛盾はないと思われます。
 これらのことから考えて「初唐」段階で「鴻臚寺掌客」であったとは考えられないことと同時にやはり「六〇八年段階」で「文林郎」であるという『隋書』の記載にも問題があると考えられることとなります。

 次稿では「隋代七部楽」の成立から「遣隋使」の派遣時期を推定するとともに「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称していることから『隋書』の年代について考察します。
(以下続きます)

「註」
奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 ―金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに―」(『史林』史學研究會編九十五巻第四号二〇一二年)によります。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔の人物が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があり、そこには最終的に「江州刺史」として「従四品上」の位階を得ていたなどとされます。


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「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

2024年01月21日 | 古代史
さらに前回からの続きです。

「『遣隋使』はなかった」か?(四) ―『隋書』の成立に関する事情の考察から―

「要旨」
 前項では古田氏の指摘した部分について検討し、『推古紀』記事が「唐初」とはいえない可能性を指摘し、実際には「隋初」のことではなかったかという点について考察したわけですが、ここでは『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次に疑いがあること。以上について考察します。

Ⅰ.『隋書』に対する疑い -大業年間の「起居注」の亡失について-
 『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたようです。
 『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた古田氏においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
 おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事については該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については、『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、他の資料(「通典」・「冊布元亀」)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見る立場もあるようです。それは「起居注」との関係からもいえることです。
 『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる皇帝に直接関わる記録です。
 その「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点(初唐)で宮廷の秘府(宮廷内書庫)に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、亡失しているようです。
 また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。そのことは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史(註1)が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事(以下の記事)や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されていることなどから「推測」されていることです。

「(大業雑記)唐著作郎杜宝撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史。未尽実録。故為此以書。以弥縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)

 また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修五代史。十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。…」(『隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋』 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。
 ここで出てきた「王劭」という人物については以下に見るように「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰したものです。しかし、当時そのような「私撰」は禁止されており、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を見られるところとなったものですが、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
(以下関係記事)

「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為內史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四/王劭』より)

 その後「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職したとされます。
 このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、彼の『書』の作成に大業年間の「起居注」が利用できたとは言えないこととなるでしょう。彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されていまから、「王劭」はあくまでもその期間である「開皇」「仁寿」という高祖治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。
 その後「唐」の「高祖」(李淵)により武徳年間に「顔師古」等に命じて『隋史』をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
 『旧唐書』(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に「令狐徳菜」が「高祖」に対し「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」つまり買い求めた結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。(註2)
 しかしそこでは「亡逸」という表現がされており、それがかなりの量に上ったと思われるわけですが、それが数年の内に全て戻ったとも考えにくいものです。それを示すのは同じ『旧唐書』の「魏徴伝」です。(註3)
 そこでは「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、それはそれ以前の史料回収作業が完璧ではなかったことを示すと共に、彼等の時にも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問とみるべきことょ示すものであり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。『経籍志』の中に『大業起居注』が漏れていることを見ても、これら史料収集の時点でも『大業起居注』という根本史料は見いだせなかったこととなります。
 推測によれば『大業起居注』に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
 また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。

「太宗問侍臣隋大業起居注今有在者否 公對曰在者極少 太宗曰起居注既無何因今得成史 公對曰隋家舊史遺落甚多比其撰録皆是採訪或是其子孫自通家傳參校三人所傳者從二人為實 又問隋代誰作起居舎人 公對曰崔祖濬杜之松蔡允恭虞南等臣每見虞南說祖濬作舎人時大欲記録但隋主意不在此每須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具」(王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)

 これによれば、太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。
 結局、この問答からも『大業起居注』は逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったとは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われるのです。
 似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』は数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性に重大な疑義が呈されています。これも同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、そのため『晋書』作成に民間史料に多くを依存しなければならなかったと見られるわけですが、それと同様に『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったと考えられるわけです。しかし、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に『起居注』によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。その典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのような「皇帝の言動記録」が本来「起居注」そのものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかについては大いに疑問が発生するところです。
 『隋書』に関する研究(註4)では、この「大業年間」の記事に関して「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされていますが、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、それを否定するにはそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり恣意的な判断と思われます。
 また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は『大業起居注』を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
 そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。「起居注」というものは皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる言動の記録は存在しなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に書かれたものなのでしょうか。
 これについては推測するしかないわけですが、『大業起居注』が欠落した中で「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず『開皇起居注』や「仁寿年間」の記録から記事(もちろん王劭版『隋書』も)を利用して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果本来「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」に見られるという「事象」が発生しているのではないでしょうか。つまり「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。

 次稿では「大業三年記事」に現われる「重興仏法」等の用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」に向けて使用されたものとしか考えられないことなどや「裴世清」の昇進スピードを解析し「大業三年」記事に疑いがあることなどを考察します。

(以下続く)

「註」
1.「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德棻奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻』より)
2.この『隋書』の編纂事業は「唐」の二代皇帝「太宗」が臣下である「魏徴」に命じて「貞観年間」に行わせたものであり、(他に行われた歴代王朝の修史事業を含めて)「貞観修史」と称されています。
3.「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徵』より)
4.榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 二〇〇八』、二〇〇八年三月)

「参考資料」
中村裕一『大業雑記の研究』(汲古書院二〇〇五年)


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