(以下さらに前回からの続き)
ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるとされます。
『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」
ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)
そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院名が記述されているのが注目されます。
『続日本紀』「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」
ここでは「筑紫尼寺」という寺院が「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。
『続日本紀』「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
また同じ大宝元年の「太政官處分」の文章中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとされていますから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であったという可能性が高いと推量できるでしょう。
また寺封に関する記述からもその創建などが「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」とほぼ同じ木型が使用されたとみることができるでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
「由緒」も正しくまた「音高」も「黄鐘調」であったと思われるこの「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないでしょう。
実際には「唐招提寺」や「東大寺」の鐘も「黄鐘」をかなでるものであったと分析されていますが、それらは遠く奈良にあったものであり、京都にある「鐘」で「黄鐘」を鳴らすのは「浄金剛院」だけであったという可能性が考えられるところです。それは「兼好法師」が「凡鐘の聲は黄鐘調なる『べし』」というように、「あるべき」という表現をしていることにも現れているようです。つまり実際にはそのような寺院は少なくなってしまったものであり、それを「憂えて」の意見ではなかったかと推察されます。
そう考えると当時の人たちの音高(音階)を聞きわける耳(音感)にも驚かされます。それは「天王寺」の「楽人」たちが「気温」の変動により「鐘」の音高が上下するという理由で基準音として一定の季節を定めていたという記述からもうかがえるものですが、それは「鐘」の材質である「黄銅」が気温変化に割と敏感に膨張収縮するという科学的な性質とも整合する話であると思われます。
ところで「筑紫尼寺」は当然のこととしてその創建主体は「女性」であったことが推測できます。そして、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずであり、またその後「橘嘉智子」がその寺院を移築したという経緯から考えて「女性」として最高位にあったであろう人物を想定でき、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」であった可能性が高いと推量します。
このように「天智」の皇后である「倭姫」の御願という可能性のある「筑紫尼寺」から少なくとも「梵鐘」は「檀林寺」に移建されたと考えられるわけですが、そのような行動の背景となっていたものは「橘皇后」の夫である「嵯峨上皇」の父の「桓武天皇」の時代に「天武」系から「天智」系への皇統の切り替えがあったとする、多く行われている諸論と関係があると思われます。
「桓武天皇」はそれまで破られることのなかった「天武」の「国忌」の日の「廃務」を破り「任官・叙位」を行っています。さらに彼は「山稜」に対する「奉幣」も「天武」「草壁」などを無視して「天智」「志貴皇子」「光仁天皇」に対してのみ行うなど、明らかに「天武」に対する「軽視」と言うより「無視」と考えられる行為を行い、自身の先祖である「天智」への傾倒を明白に示しています。そして正式に「延暦十年」になり「国忌省除」が行われ、「国忌」から天武系の天皇達のものが排除されると共に「廃務」も行われなくなります。さらに「嵯峨天皇」になると「天武」の崩日つまり「九月九日」は「重陽節」という重要な儀式を行う日とされたものであり、完全に「天武」の国忌は無視されるようになっていました。
この「九月九日」は「節」としては元々『養老令』には規定されていませんでした。
「雑令諸節日条」「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日。十一月大嘗日。皆為節日其普賜。臨時聴勅。」
これを見てわかるように『養老令』は当初から「天武」の「崩日」を「国忌」としていたものであり、このため「重陽の節」という重要な儀式を行わない規定となっていたものです。これを「嵯峨天皇」は無視して「重陽の節」を行うようになったのです。
これは既に述べたように「天智」に対する重視と裏返しのものであり、この時代には「天智」を「先帝」とする意識が高まっていたことが推察されます。
「天武」に対する崇敬がなくなり、「天智」を「律令制」における初代皇帝とする考え方が起きていたことが「天智」の「勅願」を重視するものへとつながったと言うことが考えられ、それを具現化する一環として「筑紫尼寺」を「都」へ移すという行為が行われたと推定します。(ただし、それが「観世音寺」の移築につながっていないのは「大宰府管内」の諸寺の統括というある種政治的行為の管掌役を「天智」の勅願寺が行うべきと「嵯峨」が考えていたからではないかと思われ、そのため「観世音寺」は移築されなかったと推定します。)
『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」
ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)
そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院名が記述されているのが注目されます。
『続日本紀』「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」
ここでは「筑紫尼寺」という寺院が「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。
『続日本紀』「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
また同じ大宝元年の「太政官處分」の文章中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとされていますから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であったという可能性が高いと推量できるでしょう。
また寺封に関する記述からもその創建などが「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」とほぼ同じ木型が使用されたとみることができるでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
「由緒」も正しくまた「音高」も「黄鐘調」であったと思われるこの「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないでしょう。
実際には「唐招提寺」や「東大寺」の鐘も「黄鐘」をかなでるものであったと分析されていますが、それらは遠く奈良にあったものであり、京都にある「鐘」で「黄鐘」を鳴らすのは「浄金剛院」だけであったという可能性が考えられるところです。それは「兼好法師」が「凡鐘の聲は黄鐘調なる『べし』」というように、「あるべき」という表現をしていることにも現れているようです。つまり実際にはそのような寺院は少なくなってしまったものであり、それを「憂えて」の意見ではなかったかと推察されます。
そう考えると当時の人たちの音高(音階)を聞きわける耳(音感)にも驚かされます。それは「天王寺」の「楽人」たちが「気温」の変動により「鐘」の音高が上下するという理由で基準音として一定の季節を定めていたという記述からもうかがえるものですが、それは「鐘」の材質である「黄銅」が気温変化に割と敏感に膨張収縮するという科学的な性質とも整合する話であると思われます。
ところで「筑紫尼寺」は当然のこととしてその創建主体は「女性」であったことが推測できます。そして、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずであり、またその後「橘嘉智子」がその寺院を移築したという経緯から考えて「女性」として最高位にあったであろう人物を想定でき、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」であった可能性が高いと推量します。
このように「天智」の皇后である「倭姫」の御願という可能性のある「筑紫尼寺」から少なくとも「梵鐘」は「檀林寺」に移建されたと考えられるわけですが、そのような行動の背景となっていたものは「橘皇后」の夫である「嵯峨上皇」の父の「桓武天皇」の時代に「天武」系から「天智」系への皇統の切り替えがあったとする、多く行われている諸論と関係があると思われます。
「桓武天皇」はそれまで破られることのなかった「天武」の「国忌」の日の「廃務」を破り「任官・叙位」を行っています。さらに彼は「山稜」に対する「奉幣」も「天武」「草壁」などを無視して「天智」「志貴皇子」「光仁天皇」に対してのみ行うなど、明らかに「天武」に対する「軽視」と言うより「無視」と考えられる行為を行い、自身の先祖である「天智」への傾倒を明白に示しています。そして正式に「延暦十年」になり「国忌省除」が行われ、「国忌」から天武系の天皇達のものが排除されると共に「廃務」も行われなくなります。さらに「嵯峨天皇」になると「天武」の崩日つまり「九月九日」は「重陽節」という重要な儀式を行う日とされたものであり、完全に「天武」の国忌は無視されるようになっていました。
この「九月九日」は「節」としては元々『養老令』には規定されていませんでした。
「雑令諸節日条」「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日。十一月大嘗日。皆為節日其普賜。臨時聴勅。」
これを見てわかるように『養老令』は当初から「天武」の「崩日」を「国忌」としていたものであり、このため「重陽の節」という重要な儀式を行わない規定となっていたものです。これを「嵯峨天皇」は無視して「重陽の節」を行うようになったのです。
これは既に述べたように「天智」に対する重視と裏返しのものであり、この時代には「天智」を「先帝」とする意識が高まっていたことが推察されます。
「天武」に対する崇敬がなくなり、「天智」を「律令制」における初代皇帝とする考え方が起きていたことが「天智」の「勅願」を重視するものへとつながったと言うことが考えられ、それを具現化する一環として「筑紫尼寺」を「都」へ移すという行為が行われたと推定します。(ただし、それが「観世音寺」の移築につながっていないのは「大宰府管内」の諸寺の統括というある種政治的行為の管掌役を「天智」の勅願寺が行うべきと「嵯峨」が考えていたからではないかと思われ、そのため「観世音寺」は移築されなかったと推定します。)
(※)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報太宰府学』第七号)そこでは『扶桑略記』に「大宝元年八月甲辰日、太政官処分、近江国志我山寺封、起庚子年計満卅年、筑紫観世音寺封、起大宝元年計満五歳、並停止之」とあって「観世音寺筑紫尼寺」とう表記が変えられているようにみえ、これを根拠に『「観世音寺筑紫尼寺」の部分は「筑紫観世音寺」の誤りと考えられている。』とされ、『大宝元年段階で筑紫に封を施入されるような寺格の寺院は観世音寺を除いては史料的にも遺跡としても知られておらず、「筑紫観世音寺」の誤記とする考えは正しいと思われる』とされています。他方大宰府管内の「尼寺」を統括する「寺院」の存在が不明であるということもまた確かであるとされ、それを「観世音寺」伽藍の内部の「菩薩堂」とされる建物をそれであるという考えも示されていますが、それはかなり「矮小化」といえるものであり、推定される「尼寺」統括という機能を果たすためには、組織や人員等ある程度潤沢である必要があると思われ、本来独立寺院として考えるのが妥当と推察します。