古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3

2024年01月21日 | 古代史
 (以下さらに前回からの続き)

 ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるとされます。

『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」

 ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)
 そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院名が記述されているのが注目されます。

『続日本紀』「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」

 ここでは「筑紫尼寺」という寺院が「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。

『続日本紀』「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 また同じ大宝元年の「太政官處分」の文章中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとされていますから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であったという可能性が高いと推量できるでしょう。
 また寺封に関する記述からもその創建などが「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」とほぼ同じ木型が使用されたとみることができるでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
 「由緒」も正しくまた「音高」も「黄鐘調」であったと思われるこの「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないでしょう。
 実際には「唐招提寺」や「東大寺」の鐘も「黄鐘」をかなでるものであったと分析されていますが、それらは遠く奈良にあったものであり、京都にある「鐘」で「黄鐘」を鳴らすのは「浄金剛院」だけであったという可能性が考えられるところです。それは「兼好法師」が「凡鐘の聲は黄鐘調なる『べし』」というように、「あるべき」という表現をしていることにも現れているようです。つまり実際にはそのような寺院は少なくなってしまったものであり、それを「憂えて」の意見ではなかったかと推察されます。
 そう考えると当時の人たちの音高(音階)を聞きわける耳(音感)にも驚かされます。それは「天王寺」の「楽人」たちが「気温」の変動により「鐘」の音高が上下するという理由で基準音として一定の季節を定めていたという記述からもうかがえるものですが、それは「鐘」の材質である「黄銅」が気温変化に割と敏感に膨張収縮するという科学的な性質とも整合する話であると思われます。
 ところで「筑紫尼寺」は当然のこととしてその創建主体は「女性」であったことが推測できます。そして、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずであり、またその後「橘嘉智子」がその寺院を移築したという経緯から考えて「女性」として最高位にあったであろう人物を想定でき、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」であった可能性が高いと推量します。
 このように「天智」の皇后である「倭姫」の御願という可能性のある「筑紫尼寺」から少なくとも「梵鐘」は「檀林寺」に移建されたと考えられるわけですが、そのような行動の背景となっていたものは「橘皇后」の夫である「嵯峨上皇」の父の「桓武天皇」の時代に「天武」系から「天智」系への皇統の切り替えがあったとする、多く行われている諸論と関係があると思われます。
 「桓武天皇」はそれまで破られることのなかった「天武」の「国忌」の日の「廃務」を破り「任官・叙位」を行っています。さらに彼は「山稜」に対する「奉幣」も「天武」「草壁」などを無視して「天智」「志貴皇子」「光仁天皇」に対してのみ行うなど、明らかに「天武」に対する「軽視」と言うより「無視」と考えられる行為を行い、自身の先祖である「天智」への傾倒を明白に示しています。そして正式に「延暦十年」になり「国忌省除」が行われ、「国忌」から天武系の天皇達のものが排除されると共に「廃務」も行われなくなります。さらに「嵯峨天皇」になると「天武」の崩日つまり「九月九日」は「重陽節」という重要な儀式を行う日とされたものであり、完全に「天武」の国忌は無視されるようになっていました。
 この「九月九日」は「節」としては元々『養老令』には規定されていませんでした。

「雑令諸節日条」「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日。十一月大嘗日。皆為節日其普賜。臨時聴勅。」
 
 これを見てわかるように『養老令』は当初から「天武」の「崩日」を「国忌」としていたものであり、このため「重陽の節」という重要な儀式を行わない規定となっていたものです。これを「嵯峨天皇」は無視して「重陽の節」を行うようになったのです。
 これは既に述べたように「天智」に対する重視と裏返しのものであり、この時代には「天智」を「先帝」とする意識が高まっていたことが推察されます。
 「天武」に対する崇敬がなくなり、「天智」を「律令制」における初代皇帝とする考え方が起きていたことが「天智」の「勅願」を重視するものへとつながったと言うことが考えられ、それを具現化する一環として「筑紫尼寺」を「都」へ移すという行為が行われたと推定します。(ただし、それが「観世音寺」の移築につながっていないのは「大宰府管内」の諸寺の統括というある種政治的行為の管掌役を「天智」の勅願寺が行うべきと「嵯峨」が考えていたからではないかと思われ、そのため「観世音寺」は移築されなかったと推定します。)

(※)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報太宰府学』第七号)そこでは『扶桑略記』に「大宝元年八月甲辰日、太政官処分、近江国志我山寺封、起庚子年計満卅年、筑紫観世音寺封、起大宝元年計満五歳、並停止之」とあって「観世音寺筑紫尼寺」とう表記が変えられているようにみえ、これを根拠に『「観世音寺筑紫尼寺」の部分は「筑紫観世音寺」の誤りと考えられている。』とされ、『大宝元年段階で筑紫に封を施入されるような寺格の寺院は観世音寺を除いては史料的にも遺跡としても知られておらず、「筑紫観世音寺」の誤記とする考えは正しいと思われる』とされています。他方大宰府管内の「尼寺」を統括する「寺院」の存在が不明であるということもまた確かであるとされ、それを「観世音寺」伽藍の内部の「菩薩堂」とされる建物をそれであるという考えも示されていますが、それはかなり「矮小化」といえるものであり、推定される「尼寺」統括という機能を果たすためには、組織や人員等ある程度潤沢である必要があると思われ、本来独立寺院として考えるのが妥当と推察します。
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「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2

2024年01月21日 | 古代史
 (以下前回からの続き)

 ところで「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

(徒然草第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129Hz付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。
 つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
 実際に「妙心寺鐘」について正確にその音の高さを測定した記録があり、その解析によれば、基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測され、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となるとされますから、これは間違いなく「黄鐘」(こうしょう)に相当するものです。(※)
 つまり「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものであるというわけですが、その「基準音」は共に同じであるというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題でしょう。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目すべきです。
 この「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけですが、同じ工房で「青銅製品」の鋳造も行っていたとして不思議はありません。(周辺には「銅製品」を作製していた遺跡が確認されています)そこで「梵鐘」が鋳造されていたとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは「不審」であるかも知れませんが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったということを意味しているのです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 たとえば、『淮南子』には以下のようにあります。

「中央土也。其帝黄帝,其佐后土,執繩而制四方。其神爲鎮星。其獸黄龍,其音宮,其日戊己」
「黄鍾爲宮,宮者音之君也」
「甲乙寅卯木也。丙丁巳午火也。『戊己四季土也。』庚辛申酉金也。壬癸亥子水也」
(以上『淮南子』巻三「天文訓」より)

 これらによれば「中央は土」であるとされる他、音は「宮」,日は「戊己」などとされることや「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていること、さらには「中央」を表す「戊己」は「四季の土」であるというわけであり、結局「黄鍾」は「四季」を表すものということとなって、このような「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたものと推察されるわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」という一定の音高を発する必要があるとすると、あえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。それを示すように「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 このように「妙心寺鐘」にわずかに先行して製作された鐘があったとするわけであり、この「大鐘」も同じ「糟屋」工房で製作されたもので、同じ「木型」から鋳造されたとみられますから、当然この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となります。
 ちなみにこの「大鐘」はどの寺院に使用されたのかというと、この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事がありますから、この「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。(ただしこれらの記事群には年次移動の可能性はありますが)

「(天武)九年(六八〇年)十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」

 先の「大鐘」記事では「貢」ずるとされていますから「王権」に献上されたものであり、この当時「王権」が関与している建築中の寺院はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上するとしたらこの「薬師寺」が最も適当と思われます。(ただし現在の「薬師寺」「新薬師寺」双方の「梵鐘」とも後代の「八世紀」の鋳造と考えられていますから、この時の「梵鐘」とは異なると思われ、何らかの理由により失われてしまったと考えられます。)
 さらに言えばこの「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」などの「準勅願」とでもいうべき「御願」によるもの)にだけ納められたものではなかったでしょうか。
 このような「黄鐘調」の鐘は、上に見たように「淮南子」では「音之君」とされていますから、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があるでしょう。それはこのような「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来について考えた場合、「中国」(隋)からの使者が持参した物品の他に「寺院」とそれに関するものについても相当量の下賜物があったと見られ、その中に「梵鐘」もあったと推定されるからです。
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものと思われ、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。(「大興王」からの黄金寄贈も隋皇帝(文帝)からのものであると推測しています)
 つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。(寺院が造られたにも関わらず梵鐘が備わっていなかったとするとそれもまた大変不自然といえるでしょうから。)
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、それが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。

(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)
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「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1

2024年01月21日 | 古代史
下記の論はやや迂遠ではありますが、間接的に「遣隋使」による仏教奨励策の一環として「寺院」に必須の「鐘」が「隋皇帝」(文帝)から「下賜」されたという論の一部を形成しています。

「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について

 鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。

「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」

 ここでは天皇以下高貴の方々による楽器の演奏が行われたことが記されていますが、その中で「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
 この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「鐘」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえて詠じたというわけです。

「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無??/何為寸歩出門行」(『菅家後集』より「不出門」)

 これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。つまり聞こえてきた「浄金剛院」の「鐘」の「音」からすぐに「観世音寺」の「鐘」に想いが行ったというわけですが、それは音高つまり「鐘」の発する「音色」がこの「浄金剛院」と他の寺院とでは異なっていたことを示すものと思われ、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということをみな承知していたということもまた示唆されるものです。
 つまり「浄金剛院」の「鐘」が奏でる音高は「黄鐘」であり、また「無常」を表すものであったものですが、当時の京都の他の寺院の「鐘」はその後時代を経て発生した「日本音階」により鋳造されていたものであり、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであったという可能性もあるところです。このことから「後深草院」以下諸々の宮人は「浄金剛院」の「鐘」が「観世音寺」の「鐘」と兄弟であり、それがもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものということをよく承知していたということが知られます。そのような事情がなぜ把握されていたのかということは「不明」としか言えませんが、これについて書かれたもの(※)では、元寇などの影響で「観世音寺」や「大宰府」についての知識が京の宮廷人たちにも知られるようになっていたからとされていますが、そのような理由だけでは「鐘」同士の関係などの「深い」事情は容易に知られないものと思われ、「周知の事実」とはなりえないものと思われます。つまり、何らかの明確な理由があるからこそ「浄金剛院」とその「鐘」についての「経緯」を「宮廷」の人たちはよく承知していたものと思われるわけです。
 「浄金剛院」の鐘は当初「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」が創建された際(八五〇年)に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものであり、その後その「壇林寺」が「廃寺」となって以降「浄金剛院」に移されたわけですが、「橘皇后」が「鐘」をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という「古音律」にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったものであったからではないでしょうか。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いに身を委ねたとされます。そのような彼女であれば「鐘」の音色にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。そのためどこかから「黄鐘調」の音高を発する「鐘」を探し出してきたものでしょう。
 しかも推測するにそれは「筑紫」など九州の寺院ではなかったかと考えられます。それは『徒然草』における「兼好法師」の記述として「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、『遠國』よりたつねだされけり。」とある部分からも推察されます。ここで「都」には「鐘」を「正しい音髙」つまり「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されますが、この「遠国」というのが「筑紫」であったという可能性は高いと思料します。
 この「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとは限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、仮にそれが同義であったと仮定すると、そのような「都」を遠く離れた場所で「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った「鐘」が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。それは「浄金剛院」の鐘が「筑紫」で鋳造されたものであることと深く関係していると考えられる訳です。
 (『徒然草』の中では「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されるものの、あえてその出所を伏せてあるようにも感じられます。)
 この「筑紫」周辺の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この「鐘」が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができると思われます。ただし、それが何という寺院であったかは不明ではあるものの、皇后の御願によって建てられる寺院に使用されるのですから、当然その「鐘」も「由緒正しい」ものであったはずであり、「太宰府」近辺の「旧王権」に近かった寺院が措定されるでしょう。


(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』29号一九九二年二月)
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「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)

2024年01月21日 | 古代史
以前投稿したものですが、これもまた「遣隋使」に関連する論となります。

「七弦琴」―「帝王の琴」と倭国

要旨
「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。

Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」
 倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「埴輪」などがありますが、その研究によれば、地域により「弦」の数に違いがあるのが確認されています。
 それによれば西日本に出現する「五弦」型と関東地域の「四弦」型とが確認できるとされます。
ところで、『隋書俀国伝』では「楽」として「俀(倭)国」に存在するものとして「五弦琴」と書かれています。

「…樂有五弦琴笛…」

 ここに書かれた「五弦琴」が「五弦」と「琴」なのか「五弦琴」という琴なのかについては意見が分かれています。これを「五弦」と「琴」というように区切って理解する場合は「五弦」とは「琵琶」を意味すると考えられることとなりますが、その場合「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、「隋」と同じで「七弦」であったと考えられる事となります。しかし、「倭国内」の遺跡からは「七弦」の琴が確認されず、当時もその前代も倭国内には「七弦琴」は存在していなかったと考えるべきこととなり、そうであれば『隋書』の記述とは食い違います。そのため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
 そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ『隋書』内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。

「…樂有琴笛琵琶五絃,。??鼓以警?,吹蠡以即戎。…」(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)
「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」(隋書/列傳第四十八/西域/康國)

 これらの例を見ると、「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明瞭に書かれており、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないことは明らかと思われます。つまり、「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃琴」ではなかったかというものです。
『隋書』の中にもありますが、元々「琴」は「五弦」であったものであり、後に(周の文王の時とされる)に二弦加えられ、七弦となったとされています。 『礼記』などにも「帝舜」(つまり周代以前)と「五弦琴」についての逸話が書かれています。

「…昔者,舜作五弦之琴以歌南風,?始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有德者也。…」『礼記』「楽記」

 このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
 またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。

「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)

 このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
 また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは「倭国伝」の「五弦」もまた「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
 他の史料においても「五弦」はほぼ全て「五弦琴」を指し、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。
 また、この『倭人伝』(及び「高麗伝」)において書かれている「琴」について、これが「七弦琴」を指すものとすると、「林邑伝」などで「楽」の例を挙げる場合の先頭近くに書かれる場合が多いことと食い違うともいえるでしょう。
 『風俗通義』(註一)では「雅琴者楽之統也、八音與竝行、然君子常御所者、琴最親密、身於離不。」とされ、「七弦琴」としての「琴」は諸楽器の「統」であり、合奏の際にはその中心となる楽器とされています。さらに常に君主の傍らにあるべき楽器ともされていたものです。(「君子左琴」の思想)
 つまり「楽器類」を列挙する場合は暗黙のルールとして「琴」(七弦琴)から始められるものと思われ、「琴」(七弦琴)が存在している場合には当然「先頭近く」に書かれるものであり、それに対し「五弦琴」は逆に南方的であることから考えても「隋」など「北朝」から見ると「マイナー」な存在であり、「琴」が存在しているならそれに先だって書かれるというようなことはなかったのではないかと思われ、基本的には先頭には来ないと考えるべきでしょう。そう考えれば「五弦琴」という表記は「五弦」と「琴」ではなく、いわゆる「五弦琴」を示すものと思われることとなるでしょう。
 また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「林邑伝」のように「中国」(隋)と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないと考えられることとなり、「琴」単独で書かれているとはいえなくなると思われるのです。
 『雄略紀』に「呉」の人が「渡来」した記事がありますが、彼は「呉琴」の奏者の祖とされていますから、彼により「呉琴」が持ち込まれたものと思われますが、この「呉琴」とは「帝舜」が奏したという「五弦琴」を指すと思われ、これは当時の中国でも「北朝」というより「南朝」の領域で多く弾かれていたものです。

「(雄略)十一年…秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。」

 「五弦琴」はそれ以前からもあったと思われるものの、中国のものとは弦の張り方(並行なのか放射状なのか)など細かい点で違いがあり、この時点以降倭国独自のものから中国式へ主流が変ったということが考えられるでしょう。
「中国」では「七弦琴」が長く使用され、「隋」以前の「六朝時代」やそれ以前も「七弦」であったと考えられています。その「調弦法」は「二弦」がオクターブ離れて調弦されるものが一般的であり、(曲により「調」が違う場合があり、その場合は「調弦」が違う)「西日本」の「五弦琴」と中国の「七弦琴」とが「同源」であるという可能性が考えられるものの、一般には「五弦琴」は「帝舜」が弾じたという記述があり、周王朝時代以前の古式であるという可能性が考えられ、それを「列島」では早期に受容した後改変せずそのまま保存していたと理解できます。
「舞」も「琴」も元々「王」の独占するところであり、祭祀等のセレモニーには不可欠であったと思われ、『隋書俀国伝』にも「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂」と書かれており、「朝會」つまり「朝廷」が開かれるたびに必ず「儀仗」つまり「儀式」のための「武器」「武具」を飾り、またそれを身につけた人員を配置し、なおかつ、「国楽」を「奏する」とされています。
 このように「王」の「統治」と「楽」を奏するという行為は不可分のものであり、「弦」の数の違いは「音階」「調律」の違いとなり、それは即座に「奏」される「曲目」の違いとなりますが、その曲目は「国楽」と呼称され、「国家」を象徴するものであったわけですから、その違いは「国家」(国)の違いとならざるを得ません。つまり、「弦数」の違いは「統治領域」の違いでもあるわけです。(埴輪として「琴」が出土しているのも、「古墳」の主である「王」に奉仕するという性格を良く表していると思われます。)

Ⅱ.「七弦琴」と『源氏物語』
 すでに述べたように倭国内には『隋書』の時代「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が倭国を訪れる以前には「七弦琴」が存在していなかったこととなりますが、これに関して『源氏物語』の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。
 『源氏物語』が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」は既に廃れており演奏されることもなくなっていたにも関わらず、主人公である「光源氏」はその「七弦琴」の名手とされています。(「源氏物語絵詞」など平安後期以降に書かれたものではあるものの、その中に「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(註二)
 この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており(これは「音」と思われる)、「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。「和琴」は「六絃」であったと思われ、「あづまごと」の別名のように「東国」(関東)にその起源を持つものでした。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(註三)
 それによれば『聖徳太子伝暦』という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、『源氏物語』の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。

(『聖徳太子伝暦』の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子 御之微服…指太子曰 那童子也 是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰 敬礼救世觀世音大菩薩 傳燈東方粟散王云云 人不得聞 太子修容 折磬而謝 日羅大放身光 如火熾炎 太子亦眉間放光 如日輝之枝…」

 (以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」

 このようにそのシチュエーションの細部までよく似ているとされます。この『聖徳太子伝暦』は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
 また、一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性も考えられ、そうであれば、それは「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
 ところで「七弦琴」がもたらされたとしてもそれで演奏するための「楽譜」がなければ演奏はできないわけであり、この時同時にそのような「譜」が伝来しなければなりませんが、「光源氏」が「聖徳太子」と関連づけて書かれているとすると、「物語」の中で彼や近待の人が演奏する「琴」の楽曲にそれが反映している可能性があります。それについては、「源氏物語」の「若菜下」において「夕顔」などを中心とした四人で「光源氏」の前で演奏される曲に注目されます。そこでは「漢代」に「匈奴」との間で政略結婚をさせられた「王昭君」(王明君)の悲話をモチーフとした「胡笳の調べ」が演奏されていたことが明らかとなっています。(註四) これは「梁」の時代「琴」の名手「丘公」が「作曲」したものであり、それ以降しきりに演奏されたものです。(以下「源氏物語」の当該部分)

「…返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、『こかのしらへ』、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発喇を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)

 このように「源氏」の中で「胡笳の調べ」が演奏されていることから、「南北六朝」時代の「碣石調幽蘭」という「琴譜」が伝来したと見ることができると思われます。(現在も存在・保管されています)これは上記「丘公」の手による『琴譜』の一部であり、その中には「胡笳調」が含まれているのです。(註五)
 このようなことはこの「七弦琴」や「譜」の伝来が一概に「唐代」であるとは限定できない性格を持つと思われ、むしろ「遣隋使」という存在を考えると、「隋代」の伝来を措定して全く無理がないものであり、「聖徳太子」の時代であるという設定や伝承とも整合すると思われます。しかも「隋」との関係が友好的な雰囲気であったのは「宣諭」事件(註五)以前の「開皇年間」に限られると思われますから、六世紀末を措定するのが最も妥当であると思われます。
 この「七弦琴についてはその当の「源氏」の中で「光源氏」本人の口から次のようなことが語られており、「琴」の出自を含め興味が持たれます。

「…この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)

 つまりこの国に「初めて」「琴」の演奏法などが伝えられた時点で、この「琴」がすばらしいものであることを知った人物はその「琴」を極めようとして「多くの年を知らぬ国に過ぐ」し、「身をなきになし」て、学ぼうと精一杯がんばったけども、困難であったというわけです。それほど困難であったためにそれを習得できる人も少なく、「琴」が演奏できる人はどこにいるかさえよくわからなくなってしまったものです。(これは「宇津保物語」を下敷きにした記述と考えられているようです。)
 このように「七弦琴」が廃れてしまったことを嘆くわけですが、それは「七弦琴」そのものが「倭国」においては「古来」からの伝統が全くなかったものであり、一般的な楽器ではなかったことがその理由として最も考えられます。あくまでも「隋皇帝」から「倭国王」へのプレゼントとしてもたらされたものであり、「王権」中枢の人物だけがそれを演奏していたとするわけですが、多くの人々がそれを演奏する機会も能力もなかったとすれば、継続して演奏されることがなくなっていったというのも当然と言えるでしょう。
 つまり「七弦琴」は「平安時代」以前より「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされたものであり、「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものへと(必然的に)なったわけです。それはそもそも「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」から「倭国王」へという至上の品であったという経歴と性格がそのようなランク付けがされることとなった原因であるといえるでしょう。
 『源氏』の中でも「琴」(七弦琴)は「光源氏」の持つ特別なものという意でしょうか「秘したまふ御琴ども」とされ、またそれは特別な袋(文中では「うるはしき紺地の袋」とされる)に入れられているとされます。
 このように「七弦琴」が「至高」のものとして描かれているわけですが、それは「光源氏」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているという点に深く関係していると思われるわけです。
 
Ⅲ.「五行」と「納音」(音律と音数)
 「中国」では「詩」は本来「曲」に乗せて「歌う」ものでした。その場合多くは「琴」が伴奏として使用されていたものです。先に挙げた「帝舜」の「春風」も同様であったものであり、「五弦琴」を弾きながら「詩」を歌ったものです。このような場合元々「詩」の「一音」が、「曲」の「一音」に対応するものではなかったかと考えられます。つまり、「詩」の「一区切り」の音数と「弦の数」とが元々対応していたのではないかと考えられ、「五弦琴」の存在は原初的な「詩」における「一区切り」の数が「五音」であったことを示すものではないでしょうか。
 つまり「琴」の演奏の原初的な演奏法は「開放弦」による演奏が基本であったと思われ、「指」で「絃」を押さえて「違う音階」を発生させるのはそれに継ぐ段階であると考えられるわけです。
 「詩」が本来「曲」に乗せて歌うものであり、またそれを「五弦」に乗せて歌うなら「五言詩」がしっくりくるでしょうし、「七弦」ならば「七言詩」がふさわしいといえるのではないでしょうか。つまり、詩の形式の発展と「琴」の弦数とは関係があるのではないかと考えられることとなります。
 「詩」の形式においては「唐代」以前の「詩」を「古体詩」と呼び、「四言」「五言」「七言」などいくつか種類があるようですが、「漢の武帝」の時代(紀元前一二〇年)宮中に設けた音楽を司る役所を「楽府」といい、またその後そこに集められた民間の歌謡そのものを指すものともなったとされます。当然「曲」が先行して存在しており、「役人」としての「楽人」が典礼用の詩を作り、それをそれらの「曲」に乗せて歌ったもののようです。ただし「曲」にはすでに「題」がついているわけであり、新しく作った詩にも同様の「題」が適用されたものです。
 「魏」の「曹操」の「楽府」に納められた「詩」では「五言詩」が非常に多く、この時代の詩曲の多くが「五音」単位で作られていたことを示しています。「五音」で構成される「詩曲」はまさに「五弦」による伴奏が最もふさわしいと思えます。一音一語と考えれば五言が複数繰り返される型の詩文に曲をつける際には「五弦」の楽器が最も適切に思われるわけです。
 そもそも「詩」が本来「メロディー」を持つものであり、楽器演奏が必須であったと考えると、「詩」と「音階」と(というより「音律」というべきでしょうか)には深い関係があることとなるでしょう。
 中国語は日本語と違って極端な高低アクセントがあり、中国人の話しているのを聞くと「音楽的」という印象を受けるという意見がありますが、それは「詩文」を吟ずる際には特に顕著になったものと思われ、「楽器」で伴奏するのも当然と思われますが、その際に中国語のイントネーション(「平仄」)とマッチしなければならず、「音階」や「音律」と「言語」の間には直線的関係があったこととなるでしょう。それは「五絃」と「五言」の間に関係があると考えることにつながるものです。
 日本においても「山田耕筰」のように日本語のイントネーション(高低アクセント)に沿って作曲をするという運動をしていた例がありますが、中国語の「平仄」はもっと明確に音の高低が意識されるものであり、調律がそれを意識しなかったとは考えにくいと思われます。つまり「平仄」と「音階」は整合的でなければならないはずであり、韻文を音階で表すとするとそのような調律が必要となるということでもあります。
 ところで「五行説」というものがあります。それはこの宇宙が「五つの要素」でできているとする考え方であり、それが移り変わることで「陰」と「陽」が変転するというものです。このような思想が「倭国」に到来したのがいつのことなのかは明確ではありませんが、本格的な導入は『書紀』では『推古紀』に記された「百済」からという「暦本」「天文」「方術」などを扱う人間が来倭したとする記事が注目され、「六世紀終わり」という時期が最も考えられるものです。
 この「五行」はそれぞれ「木」「火」「金」「土」「水」に配され、それに対応する「色」として「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色があるとされます。しかし、「色」だけではなく「音階」も配されているのです。それは「納音」と呼ばれています。
 「納音」は「五行」を音階で表したものであり、それは「五行」に当てはめられていることから考えて、その音階を表す楽器が「五弦」のものであることが推察されます。その音階としては「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」の五つの音階が相当するとされ、さらにその後これが「干支」に配されて年ごとの吉兆を占うものとして考えられるようになりました。これは「五弦琴」あるいは「七弦琴」の「第一絃」から「第五絃」までの「開放弦」の音階そのものであり、年次(生まれ年)に応じて「音階」つまり「納音」が定まっていたものです。
 この「納音」は「南北朝」以降の中国で確認できますが、それがいつ「倭国」へ伝わったかは不明でしたが、「二〇一四年」に熊本県で「納音」が付された「文書」が見つかり、それに「九州年号」が書かれており、またその「九州年号」の最初である「善記」がその「起点」となっていることことが確認されました。(註四)これを見ても、「九州倭国王朝」が健在のうちに伝えられたことが窺われ、すでに行った検討などからも「倭国」に伝わったのは「隋代」であったと考えるのが自然です。
 また、この「納音」が「音階」と関係しているということから、この時の「納音」が「楽器」(特に「七弦琴」)と共にもたらされたものと考えるのもまた自然です。
 「聖徳太子」と「音律」を結びつける伝承は「徒然草」の中に顔を出しています。そこでは「天王寺」の楽士達が自分たちの音階は太子(聖徳太子)の時に定められたものとする記述があります。

 『「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。』(徒然草第二百二十段)

 このように「聖徳太子」の時代に音律が伝えられたとするわけですが、それは当然「隋代」でありしかも「開皇年間」のことであったと見るべきこととなるでしょう。
 ただし、「納音」についてはそれ以降「五行」だけで記述されることが多くなったようです。すでに「唐代」(「武則天」の時代)には「納音」について「五行」の表記だけ見られることとなっています。
 以上のように「納音」は「七弦琴」の流入と共に「倭国」に伝わったものと思われますが、その後「倭国九州王朝」から「新日本国王朝」へ「王朝交代」が起きた結果、「納音」の元となった「五弦琴」「七弦琴」が使用されなくなったものと思われます。「新日本国王朝」では「四弦琴」あるいはそれを改良した「六弦琴」を使用していたものであり、その「音階」は「五弦琴」や「七弦琴」とは異なるものであったと思われ、そのため「納音」の元となった「五音」に基づく「楽」は演奏機会がなくなったものと考えられます。このため、「五行」と「音階」や「納音」についての関係についても不明となっていったものと思われ、「干支」と「五行」の関係だけが遺存したものと考えられるわけです。
 「宣命暦」で書かれた「天平年間」の「具注暦」が発見されていますが、そこには「納音」が「五行」だけで表記されており、この時代にはすでに「音律」が忘却されていたことがわかります。
 ところで、現在確認できる「納音」には「山頭」「井泉」など「五行」の前に形容語をつけて三十種類に分類されていますが、これは「倭国」において考え出されたことではなかったでしょうか。
 中国の使用例では「五音」と「五行」についてのみ書かれており、接頭辞たる形容語が確認できるものが全く見あたりません。
 (以下中国の例)

「…勝龍所以白者,楊姓納音為商,至尊又辛酉?生,位皆在西方,西方色白也。死龍所以黑者,周色黑。…」(「隋書/列傳第三十四/王劭」より)
「蕭吉字文休,梁武帝兄長沙宣武王懿之孫也。博學多通,尤精陰陽算術。…所以靈寶經云:『角音龍精,其祚日強。』來?年命納音?角,?之與經,如合符契。又甲寅、乙卯,天地合也,甲寅之年,以辛酉冬至,來年乙卯,以甲子夏至。冬至陽始,郊天之日,即是至尊本命,此慶四也。夏至陰始,祀地之辰,即是皇后本命,此慶五也。…」(「隋書/列傳第四十三/藝術/蕭吉」より)
「尚獻甫,衞州汲人也。尤善天文。初出家為道士。則天時召見,起家拜太史令,固辭曰:「臣久從放誕,不能屈事官長。」則天乃改太史局為渾儀監,不隸祕書省,以獻甫為渾儀監。數顧問災異,事皆符驗。又令獻甫於上陽宮集學者撰方域圖。長安二年,獻甫奏曰:「臣本命納音在金,今?惑犯五諸侯太史之位。?,火也,能尅金,是臣將死之?。」則天曰: 「朕為卿禳之。」遽轉獻甫為水衡都尉,謂曰:「水能生金,今又去太史之位,卿無憂矣。」其秋,獻甫卒,則天甚嗟異惜之。復以渾儀監為太史局,依舊隸祕書監。…」(「舊唐書/列傳第一百四十一/方伎/尚獻甫」より)

 これらの例を見ても「五行」の前には何も付加されていません。この段階までに確認できないということは、これらは「中国」から伝わったものではなく、日本側で付加されたものではないかと考えられることとなります。

Ⅳ.尺八と遣隋使
 すでに見たように「七弦琴」は「遣隋使」(あるいは(来倭した「隋使」)によってもたらされたと思われますが、同様にこのとき伝来したと推定されるものに「尺八」があります。
 従来「尺八」は「唐」の「呂才」(漏刻の改良を行ったとされる人物)による発明とされているようですが、それは実際には「改良」であったものであり、彼はそれまで基音として「黄鐘」だけであったものを、十二音律すべてに対応する「尺八」を作製したものであり、さらにその「黄鐘」についても「音律」からわずかに狂いがあったものを彼が長さと「孔」の位置を改めて定めた結果、音律が全て基準(三分損益法)に則った、つまりどの「運指法」によっても「音髙」が「音律」に正確なものとなったと言う事と理解できます。(ここでいう「音律」とは、「三分損益法」により導かれる「十二」の音階をいいます。)

「呂才,博州清平人也。少好學,善陰陽方伎之書。貞觀三年,太宗令祀孝孫増損樂章,孝孫乃與明音律人王長通,白明達遞相長短。太宗令侍臣更訪能者,中書令温彦博奏才聰明多能眼所未見,耳所未聞,一聞一見,皆達其妙,尤長於聲樂,請令考之。侍中王珪,魏徴又盛稱才學術之妙,徴日「才能爲尺十二枚,『尺八』長短不同,各應律管,無不諧韻」太宗即徴才,令直弘文館。」(『旧唐書』巻七十九「呂才傳」)

「才製『尺八』凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事」(『新唐書』巻一百七「呂才傳」)

 これらの記述では「尺八」という単語が説明抜きで使用されており、彼以前に既に「尺八」というものがあったことを示唆しています。また彼の「尺八」がこの「貞観三年」をそれほど遡る時期に造られたものではないこともまた確かと思われ、少なくとも「隋末」あるいは「唐初」を上限とすべきものと思われます。
 ところで「法隆寺」に元あったとされ現在国立博物館に保存されている「宝物」に「尺八」が存在します。この「尺八」について学術的調査を加えた結果が公表されており、それによれば「長さ」及び「孔」の位置や発せられる音髙などから、この「尺八」が「呂才」が改良を加える以前のものであることが明らかとなっています。(註五)
 それによれば「法隆寺」の尺八は「宋尺」により造られており、それは中国南朝(劉宋、斉,梁,陳 )の各代で使用され、「楽律」もまたこれによって定められたとされます。また中国北朝においても「北周」「隋」「唐」と歴代用いられたものであり、隋代では,開皇の始めに「鐘律尺」として制定され、その後の「唐」も「唐小尺律」(正律)として使用が継続されていたものです。
 ところで「法隆寺」に関する伝承の中にはこの「尺八」に関するものがあり、例えば『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)には以下のような記述があるのが確認できます。

「尺八,漢竹なり。太子此笛を法隆寺より天王寺に御ますの道,椎坂にして吹き給いしの時,山神,御笛に目して出て御後にして舞ふ。太子奇みて見返し給ふ。爰に山神,見奉りて,怖れて舌を指出づ,其様舞ひ伝へて天王寺に之を舞ふ。今に蘇莫者と云ふなり。」

 ここでは「漢竹」とされ「唐」とは書かれていません。この記事が書かれた年代から考えると、「唐」とする方が常識的であるにもかかわらず、「漢」と表記されており、これはその伝来の年代をおよそ推定させるものであり、少なくともその伝来が「唐」以前を推定させるものです。
 ところでこの「蘇莫者」については『旧唐書』あるいは『新唐書』に関連する記事があります。

「…時又有清源尉呂元泰,亦上書言時政曰:「國家者,至公之神器,一正則難傾,一傾則難正。今中興政化之始,幾微之際,可不慎哉?自頃營寺塔,度僧尼,施與不?,非所謂急務也。林胡數叛,?虜?侵,帑藏?竭,?口亡散。夫下人失業,不謂太平;邊兵未解,不謂無事;水旱為災,不謂年登;倉廩未實,不謂國富。而乃驅役飢凍,彫鐫木石,營構不急,勞費日深,恐非陛下中興之要也。比見坊邑相率為渾脱隊,駿馬胡服,名曰『蘇莫遮』。旗鼓相當,軍陣勢也;騰逐喧譟,戰爭象也;錦?夸競,害女工也;督斂貧弱,傷政體也;胡服相歡,非雅樂也;渾脱為號,非美名也。安可以禮義之朝,法胡虜之俗?詩云:『京邑翼翼,四方是則。』非先王之禮樂而示則於四方,臣所未諭。書:『曰謀,時寒若。』何必?形體,灌衢路,鼓舞跳躍而索寒焉?」書聞不報。…」(『新唐書/列傳第四十三/呂元泰』より)

 ここでは八世紀に入って「唐」の勢威がやや衰え始めた時点において臣下が皇帝に向け諫言しているわけですが、その内容としては都においてさえも「西方」から伝わった習慣に染まっている現実を憂えているわけであり、そこでは「胡服」「駿馬」が描かれていますから、西方から北方にかけての異民族の風習が描写されているようであり、それは「非雅樂也」とされています。「唐」から見て夷蛮とも言える地域の風習であるというわけですが、それを「蘇莫遮」と呼称するとされています。これは『古今目録抄』時点で「今に蘇莫者と云ふなり」とされる「蘇莫者」と同じものであると思われますが、それはまた「渾脱の舞」と呼称されるものと同一と思われ、一種の「剣舞」であり、「軍事」的色彩を帯びた舞であるとされます。
 このようなものが「聖徳太子」の時代に倭国にあったというわけですが、一般には後代の脚色として扱われていますが、「北朝」(北魏)は「亀滋国」などを制圧しその勢力下においていましたから、「隋」においてもそれら胡族の風習が既知のものであったとして当然といえ、そう考えると、この「唐代」の「蘇莫者」の流行は一種のリバイバルではないかと思われます。
 このような「西方」の国の風習が「倭国」に伝わった時期として従来考えられているのは「則天武后」が死去した直後付近であり、その時期が流行のピークであったと思われることから、その時点付近で派遣された遣唐使がもたらしたと言えるかもしれませんが、そのような想定の場合「聖徳太子」や「初唐」以前の規格でつくられた笛と関連していると考えられることを別に説明する必要がありますが、それはかなり困難なのではないでしょうか。
 「蘇莫遮」(渾脱の舞)とともに「法隆寺」の「尺八」が「聖徳太子」との関連のもとに書かれていることや、その「蘇莫遮」が「剣舞」であり「軍楽」と関係していると考えられること、その「尺八」が「唐」以前の基準尺で造られていることが明らかとなったことからも、この「尺八」が「隋代」に伝来したものと考えられることを示し、これも「遣隋使」がもたらしたものと考えると、当然「宣諭事件」以前に伝来したと考えるべきこととなります。そう考えると、少なくとも『書紀』や『隋書』の記事をそのまま受け取るとしても、「大業三年」以前の伝来であると思われ、「文帝」の時代に伝来したと考えるのが正しいと思われることとなるでしょう。そう考えるのは「尺八」の出す音高が「黄鐘」だからであり、それは仏教において「無常」を表す音であり、寺院の梵鐘の出すべき音として認識されていたものだからです。それを踏まえると「煬帝」というより仏教に深く帰依し、仏教を国教とした「文帝」に深く関わるものではないかという推測が可能となるでしょう。
 すでに見たように『徒然草』には「隋代」に「音律」がもたらされたらしいことが書かれているわけですが、その内容から見て「四天王寺」の「鐘」が「尺八」と同じ「黄鐘」という基準音で鋳造されていたらしいことが推定されています。(註六)
 前述した「徒然草」によれば「四天王寺」の舞楽についての音の基準値が非常に繊細に取り扱われていることがわかります。気温や湿度によって「鐘」の最低音高(基本周波数)が変化するため、「二月涅槃會より聖靈會までの中間」といいますから、「二月十五日」から「二十二日」までの間の中間つまり「二月十八日」の鐘の「音」に他の楽器を調律しているというわけです。
 「尺八」の伝来時期や「四天王寺」の「梵鐘」の基準音が「隋代」以前のものであるということを下敷きにして思惟進行すると、それらは「隋」との交流の中でもたらされたものと考えられ、「隋」の「開皇年間」の伝来が最も考えられるものです。それはまた「隋」における「楽制」の制定などの情報や事物がこのとき倭国にもたらされた中の一環であったことを強く示唆するものと思われます。


一.「風俗通義」とは後漢末(二世紀の終わりごろ)の「応劭」の著作。
二.川島絹江「源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究」(『東京成徳短期大学紀要』第四十三号二〇一〇年)
二.川本信幹「源氏物語作者の表現技法」(『日本体育大学紀要』二十二巻一号一九九二年)
三.上原作和『光源氏物語 學藝史ー右書左琴の思想』(翰林書房 二〇〇六年五月)
四.熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎 「【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―」(「古田史学会報第一二二号 
五. 明土真也「法隆寺と正倉院の尺八の音律」(『音楽学』五十九号二〇一三年十月)
六.明土真也「音高の記号性と『徒然草』第二二〇 段の解釈」(『音楽学』五十八号二〇一二年十月)


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「遣隋使」関連論考として

2024年01月21日 | 古代史
以下も「遣隋使」論考の一端に位置するものです。

「高麗大興王」とは誰か

「趣旨」
 ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。

Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは
 『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。

「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」

(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)
「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二軀并挾侍 『高麗大興王』方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺…」

 この「高麗大興王」というのが誰を指すのかは、この年次(六〇五年か)から考えると通常は「嬰陽王」以外いないとされ、また多くの論者が(というより「全員」が)それを「毫も」疑っていませんが、実際には彼にそのような名があったとはどこにも書かれていません。
 『三国史記』『隋書』その他の史料を見ても「元」という「字(あざな)」以外には何も書かれていません。これについては「岩波」の「大系」の注でも「嬰陽王の生時の呼名と思われる」とされるもののその根拠は特に示されず、ただ「元興寺丈六銘にもある」とだけ書かれています。
 また「高麗王」がこのように「黄金」を寄進する理由もやや不明です。この年次の少し前(開皇十七年)に「嬰陽王」の父王である「平原王」(湯)は「隋」の「高祖」(文帝)から「叱責」を受けています。それは隋」が「陳」を征服した時点で次に矛先が回るのは「自分たち」であるという恐怖から、「治兵積穀爲拒守之策」(『隋書』『三国史記』等)つまり、武力を蓄え、食料を準備し「国境」を封鎖するような戦術をとったからです。これを「文帝」に咎められたわけですが、この「元興寺」に対する援助は一般には「倭国」と「連係」して「隋」に対抗する意味とされ、また「隋」と「倭国」の接近を阻止しようとするものであったと理解するのが常識的なようです。しかし、そのような「軍事」的な目的であれば、「麗済同盟」のようなもっと純粋な軍事的結合関係を構築すればよいわけであり、「仏教」を介在とした関係の構築というのは、「隋」の圧力に対抗するという目的のためにはかなり迂遠な方法であると思われます。
 そもそも「仏教」は「隋」の国教のようなものですから、仏教を介して「倭国」と接近するというのは「隋」と倭国」に「割り込む」方法論としては成算が見出しにくいものではないでしょうか。(たとえば「仏教」に対抗して、「道教」的世界観を共有する様な方法をアプローチする方がまだしも効果的と思われます)
 「仏教」を宣揚するような方法論は「倭国」と「隋」との間を接近させる意味はあってもその逆にはなり得ないと思われます。現に「高麗」は「隋」に対抗するため「突厥」に使者を送って共同軍事態勢を築こうとしたとされます。それは「仏教」を介在させるようなものではなく、派遣された人物も僧侶ではありませんでした。さらに「靺鞨」を支配下に入れ、共同で「隋」の版図である「遼西」に攻め入っています。これらの行為と「倭国」への「仏教」に範囲を限定したものとは明らかに趣旨が異なるものであり、同じ意図から出たものとは考えにくいものです。
 この当時「高麗」と「倭国」の関係がそれほど強固なものであったとも考えにくいのは以下の『隋書』の記述からも窺えるでしょう。

「…新羅、百濟皆以倭為大國多珍物、並敬仰之恒通使往來。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)

 ここでは「百済」と「新羅」については「恒に往来」とされているものの、「高麗」との間については何も触れられていません。これは「倭国」からの使者に対して「皇帝」から下問があり、それへの返答をまとめたものと思われますから、「倭国」と関係の深い国として「高句麗」が入っていないのは「隋」による「推理」や「推測」ではなく、事実であったと考えられます。そのような中で「高麗」から「黄金」が大量に「助成」されるというのは非常に考えにくいのではないでしょうか。
 つまり「高麗王」が「黄金」を「倭国」に助成する「必然性」が理解しにくいことも事実と思われるわけです。
 また、「大興」という意義が「大いに興す」という事ならば、例えば「広開土王」のように「国土を広げた王」というような意義がこの「大興王」という呼称にあったかというと、それも疑問です。「嬰陽王」の時代に領土が広がったとか、大きく繁栄したというようなことも史料による限り何も感じられないからです。このような命名あるいは自称は何らかの「事績」をバックにしたものと思われるのが普通ですから、それらがないとすると「大興王」という名称が「浮いて」しまうでしょう。つまり、これらのことは「大興王」というのが誰を指すのか、それは本当に「高麗王」なのか、強く疑問の発生するところであると思われます。

Ⅱ.他の「高麗王」の検討
 そもそも「高麗王」について「大興」というような「称号」が付加されている例は『書紀』では他には見られません。
 「高麗」の「王」について『書紀』では『応神紀』などに、この「大興王」以外に「高麗王」という表記が計十三例の出現しているのが確認できます。

(応神紀)「廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。『高麗王』教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。以表状無禮。則破其表。」

(応神紀)「卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。『高麗王』乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

(雄略紀)「八年春二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。…由是『高麗王』遣精兵一百人。守新羅。有頃高麗軍士一人取假歸國。…遣使馳告國人曰。人殺家内所養鷄之雄者。國人知意。盡殺國内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乘間得脱逃入其國。皆具爲説之。『高麗王』即發軍兵。屯聚筑足流城。或本云。都久斯岐城。遂歌儛興樂。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌儛。知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰。『高麗王』征伐我國。…。」

(雄略紀)「廿年冬。『高麗王』大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。…。」

(欽明紀)「(五五三年)十四年…冬十月庚寅朔己西。百濟王子餘昌明王子。威徳王也。悉發國中兵。向高麗國。…是時百濟歡叫之聲可裂天地。復其偏將打鼓疾闘。追却『高麗王』於東聖山之上。」

(欽明紀)「(五六二年)廿三年八月。天皇遣大將軍大伴連狹手彦。領兵數萬伐于高麗。狹手彦乃用百濟計。打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮。盡得珍寶〔貝+化〕賂。七織帳。鐵屋還來。舊本云。鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於『高麗王』内寢。以七織帳奉獻於天皇。以甲二領。金餝刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛媛名也。并其從女吾田子。送於蘇我稻目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿。鐵屋在長安寺。是寺不知在何國。一本云。十一年大伴狹手彦連共百濟國駈却『高麗王陽香』於比津留都。」

(推古紀)「(六一〇年)十八年春三月。『高麗王』貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造碾磑。盖造碾磑始于是時歟。」

(推古紀)「(六二五年)卅三年春正月壬申朔戊寅。『高麗王』貢僧惠潅。仍任僧正。」

(天武紀)「(六八二年)十一年六月壬戌朔。『高麗王』遣下部助有卦婁毛切。大古昴加。貢方物。則新羅遣大那末金釋起。送高麗使人於筑紫。」

 これらの例を見ると「大興王」と同様の呼称は一例もなく、「黄金」を助成したという「高麗大興王」という表現はかなり特異なものであることがわかります。

Ⅲ.「大興」と「隋」の「高祖」
 この時代「大興」という語は「隋」に関してのみ使用されており、「都」を新たに「大興城」とするなど「大興」が付されたものがいくつか確認できます。

「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋錄者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰『大興殿』。門曰『大興門』。縣曰『大興縣』。園曰『大興園』。寺曰『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風緣斯重闡。伽藍欝跱兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/歴代三寶紀十五卷/卷十二』より)

 ここで見るように「隋」が成立して直後に「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」の「高祖」(文帝)に関する専門用語ともいえるものなのです。
 たとえば「北周」の時代、まだ「文帝」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。

「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰「此兒風骨,不似代間人」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)

「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,戸三十萬八千四百九十九。大興開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)

 ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものと思われます。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。

「…及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(「隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上」より)

 ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
  また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。

「(仁寿)二年。西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑說。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『大正新脩大藏經/佛祖統紀五十四卷/卷三十九/法運通塞志第十七之六/隋/文帝』より)

 この「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼について「大興王」と呼称されていたとしても不自然ではないこととなります。これらのことは「大興王」という呼称について「隋」の「高祖」と関連していると考えることがそれほど不自然ではないことを示すものです。

Ⅳ.「隋」の「高祖」と「仏教」
 「隋」の「高祖」について考えてみると、彼は「周」の皇帝から禅譲を受け即位して以降急速に「仏教」の推進を始めます。(「仏道二教」の復興を図ったとされますが、明らかに「仏教」に多く比重があったことが知られます。)
 当時仏教は「周」の「武帝」により「廃仏令」が出された結果、弾圧とも言うべき状態に置かれていました。「隋」の「高祖」はこれらを速やかに回復し、なお自ら「菩薩戒」を受け、仏教の国教化を半ば強制的に進めていったものです。
 そのような彼ならば夷蛮の国が「仏像」を作るとした際にそれに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も、軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があり、「隋皇帝」という立場ならそれほど苦にもならないものであったでしょう。(註)
 また『元興寺伽藍縁起』によれば「元興寺」完成というタイミングで「裴世清」等が派遣されているようであり、それは「助成」したことと表裏を成す行為であり、「寺院」(元興寺)と「丈六仏像」の完成を見届ける、という意味では当然とも思われます。これを「高麗王」と関連しているとした場合「裴世清」等が「来倭」する意味が不明となるでしょう。(ただし(この『縁起』はその年次については『書紀』に依っているようですから、これも「年次移動」を想定すべきものと思われます。)
 また、上の『元興寺伽藍縁起』の文章には完成に要した「金」の総量が「七百五十九両」とも書かれています。もし、その一部の「三百二十両」が「高麗」からのものすると、残りの「四百三十九両」はどの地域からの助成ないし貢上であったか不審となるのではないでしょうか。
 この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
 『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ると、「高麗」には「金銀」とあります。また「百済」には「銀」に関するものはあるものの「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
 ただし、「七世紀」に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「調」として「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられなくはありません。しかし、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われます。しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものとすることにそれほど「不自然」はないと思われます。しかも当時「隋」と「高句麗」(高麗)との関係は緊張状態にありましたから、「隋」が「高句麗」の「後方」に位置する「倭国」に対して助成することは外交面から考えてもありうることと思われます。遠絶した場所に位置しているとしても「倭国」と「高句麗」との関係をより親密化させないためにも「倭国」に対して「仏教」面で優遇的措置を与えたとして不自然ではないものと思われるものです。

(註)ただし『書紀』では「大興王」が「黄金」を助成したとされる年次として「推古十八年」とされており、これは通常「六〇五年」を指すとされこれでは「高祖」死去後のこととなってしまいますが、私見では『書紀』の年次は『隋書』に合わせる形で移動されており、実際にはもっと遡上するという可能性が考えられ、この「黄金助成記事」も実際には「開皇年間」のことと見るべきと思料します。詳細は別稿。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』」(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
宇治谷孟訳『日本書紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫「平凡社」)
金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』(東洋文庫「平凡社」)
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