古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

隋皇帝からの「訓令」とは-2

2024年01月21日 | 古代史
 「隋」の高祖「文帝」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。
 彼はそれまでの「北周」による宗教弾圧から回復させたわけですが、「学校」における教育の中身が「儒教」が中心であったことから文帝はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされた「最新」の仏教)を示しそれを国教とすべしとしたという可能性は高いものと推量します。それが「法華経」であったと思われ、そのため派遣した「隋使」にそれらを講説させたものではないでしょうか。
 これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連していると考えられます。

「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)

 この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣され、その「表報使」として「隋」から使者が派遣されたことを如実に示すものといえます。彼が「訓令書」を携え、「倭国王」に対し「統治」の体制を見直すことを強く「指示」したというわけです。そしてその具体的方策として「法華経」が示された(講義された)ものと考えていますが、同時に「文帝」が「大興善寺」を都の中心に据えて仏教を国策の中心とするシンボルとしたように、「倭国」においても「国策」としての寺院を「都」に建設するべきという進言(あるいは勧告)をしたものではなかったでしょうか。そのために必要な技術と人材及び物資を「援助」したという可能性が考えられます。
 既に考察したように「高麗大興王」という存在は実際には「隋帝」を意味するものであり、「高麗大興王」からの援助という黄金も実際には「隋帝」からの援助であったと思われるわけです。そしてその「黄金」が使用されて「丈六仏像」が完成したのが「元興寺」であったというわけですから、この「元興寺」は「隋」における「大興善寺」の役割を負っていたものと考えられます。(この「元興寺」については後述)
 ここで「隋使」が行ったと思われる「講説」を受けて「法華経」に基づく仏教文化が発展するわけであり、「六世紀末」から「阿弥陀信仰」が急速に発展すると云うところにこの「訓令」の影響があったものと思われます。(それは特に「法隆寺」に関することに強く表れているものであり、「玉虫厨子」の裾部分にも「阿弥陀像」が押し出しで描かれているなどのことに現れています。またその「法隆寺」には「瓦」などを初めとして「四天王寺」や「飛鳥寺」などのように「百済」の影響がほとんど感じられず、かえって「隋・唐」の影響があると見られることがあり、それらは深く関連していると考えられます。)
 このような仏教文化の発展には色々な要素があったものと思われますが、この時「文帝」から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。
 このような趣旨で「隋使」が「講説」を行ったとすると、それが行われた場所(地域)として「倭国王」の所在する場所であり、また「遣隋使」により「俗」として「如意寶珠」があり、「祷祭」が行われているとされた「倭国」の本国である「九州島」において、まず「新・法華経」が講説されたみられることとなるでしょう。
 「九州島」が「倭国」の本国であることは『隋書』の中でも「阿蘇山」を初めとする「九州島」内部の様子の描写が物語っているものであり、そう考えると「倭国」の主要支持勢力も九州島の中に求めるべき事となるでしょう。その筆頭にあげられるのは「海人族」であり、「住吉」「宗像」「安曇」などの諸氏です。(「如意寶珠」は海中の大魚の脳中にあるとされますから、海人族との関係が最も深いものと推量します。)
 そして特にその「法華経」(「堤婆達多品」の補綴されたもの)の内容が「九州」の有力者であった「宗像君」にとってはあたかも自分自身のことを言われたような衝撃を受けたとしてまた不思議はないと思われます。
 その新しい「法華経」の白眉としては「女性」が(でも)「往生」できるとする立場です。その典型的な場面は「女人変成男子」説話です。これは「提婆達多品」にあるもので、「文殊私利菩薩」が「海龍王」の元に行き「法華経」を講説したところ「海龍王」の娘が悟りを開いたという説話であり、その際「娘」は「男性」に姿を変えた上で「悟り」を開いたとされます。(これ自体はそれ以前の仏教が抱えていた「女性差別」という欠陥に対するアンチテーゼとしての「男性」への変身であり、「法華経」自体の主張ではないとされます。)
 このような内容は「王権」やその支持勢力の女性達にとって「斬新」であり、興味をかき立てられたことでしょう。「宗像君」の周辺の女性達もまた例外ではなかったと思われ、積極的反応を示したのではないでしょうか。
 実際に「複数」の娘がいたと思われる「宗像君」にとってみればこの「法華経」の内容はまさに自分自身のことであり、「娑竭羅龍王」に自分自身を重ね合わせることはたやすいことであったものと思われます。そのため彼自ら「率先」して「法華経」に帰依したものと思われ、その結果彼の一族も挙って「法華経」の布教・拡大に乗り出すこととなったものと思われます。それはもちろん彼らにとっては「瀬戸内」の制海権を手に入れるという実質的利益を確保する狙いもあったものでしょうけれど、また「倭国王権」の意志に沿ったものであったのが大きいと思われます。
 こうして「厳島神社」「伊豫三島神社」など「瀬戸内」の西側まで「宗像三姉妹」を核とした「法華経」が伝搬したものと思われます。
 この時点以前にすでに「市杵島姫」を初めとする「宗像三姉妹」に対する信仰は、特に海人族において篤かったものと思われますが、それが「法華経」という外来のものに結びつくことで伝搬力が増したという世界もあったのではないでしょうか。つまり「堤婆達多品」が添付された形で「隋」から伝わったと思われる「法華経」が、「宗像三姉妹」により受容され、在地信仰と一体化した形での強い伝搬(いわば「神仏混交」の発生といえるでしょうか)がこのとき発生したものであり、それ以前の「百済」からの純粋仏教とは異なる性質を持っていたものです。
 これら「宗像族」による「法華経」信仰とその拡大は「倭国王権」の意志に適うものであり、強く歓迎されたものと思われます。
 このように「訓令」により「統治体制」と「宗教」について改革が行われることとなったと思われるわけですが、さらにそれが現れているのが「前方後円墳」における祭祀の停止であり、「薄葬令」の施行であったと思われます。
 この「前方後円墳」で行われていた祭祀の中身は不明ですが、明らかに仏教以前に属するものであり、それと「兄弟統治」と解される「統治体制」が「古典的」と称すべき同じ時代の位相に部類するのは理解できるものです。
 「祭政一致」と云われるように「統治」と「祭祀」とは不可分のものであり、「訓令」により「統治」の根拠を仏教とすべしとされたなら、古来からの「祭祀」についても改革されるべき事となるのは当然であり、そのような「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というものも国内諸氏に求められたものと思われます。
 後にも述べますが、「薄葬令」は「七世紀半ば」に出されたとすると遺跡などとの齟齬が大きく、これは「六世紀末」あるいは「七世紀初め」に出されたと理解するべきものであると思われ、これが「隋」の皇帝からの「訓令」の影響あるいは効果によるものであったと見る事ができると考えられるものです。
 ところで、「小野妹子」が「百済」国内で「国書」を盗まれたという記事が『書紀』にありますが、この「盗まれた国書」というものがこの「訓令書」であったというような理解があるようです。しかし、それには従えません。「訓令書」についてもそれが「文書」という形態を取っていた場合は「国書」に準じた扱いであったと思われ、「隋使」が終始所持・保有していたと考えられます。「皇帝」の「勅使」としての重大性を考えるとそのような「訓令書」についても当然「隋使」が「肌身離さず」所持して当然であり、また「訓令」は本来「皇帝」が「倭国王」に対して直接行うものですが、遠距離のため皇帝の代理として「隋使」が「倭国」を訪れ「倭国王」に対し「訓令」することとなるわけですから、その瞬間まで「訓令書」が他の誰かの手に渡るはずがないこととなるでしょう。いずれにしても「小野妹子」の主張は真実ではなく、それは「文帝」が激怒した結果「使者」が「国書」を持参しなかった「言い訳」であったと判断できるでしょう。(妹子が同行したのは2回目の文林郎としての裴世清と思われますから)
 ただしこの「訓令書」が「国書」と同一であったという可能性もあります。つまり「国書」の末尾に「訓令」が書き加えられていたという体裁であった可能性もあると思われるからです。その場合『推古紀』の国書には「続き」があったということとなるものと思われますが、詳細は不明です。
コメント

隋皇帝からの「訓令」について-1

2024年01月21日 | 古代史
以前として再投稿の論となります。 

従来あまり重要視されていないと思われることに、「兄弟統治」と思われる政治体制を「遣隋使」が紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。

「…使者言俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」

 ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。

「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)

「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,上?望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之?,更起朕心。」賚絹百匹,衣一襲」(「隋書/列傳第四十/儒林/元善)

「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為?門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,?見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(「隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃」)

 いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
 中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は「僭越」とは思ったものの、国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。
 そもそも「訓令」とは手元の「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
 「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。

「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織』,為作法制,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)

 ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
 また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。

「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其?舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁?湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(「舊唐書/本紀 凡二十卷/卷十六 本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年)

 ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
 また以下の例では「隋」の高祖の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。

「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。?琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜?年代,王道衰而變風作,微言?而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異?,?駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。『今四海乂安,五戎勿用,理宜弘風訓俗,導德齊禮,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(「隋書/帝紀 凡五卷/卷二 帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年)

 この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、そこでは一般論として「綴往聖之舊章,興先王之茂則。」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。
 ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の独自性があらわれていたものです。それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものであり、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
 そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。
 「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
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「釆女」と「兵衛」-2

2024年01月21日 | 古代史
「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。

「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。

「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 これを見ると、餝船(飾り船)三〇艘とあり、また餝騎(飾り馬)七十五疋とありますが、その主体が「軍」であったのは疑えないでしょう。当時「馬」に乗るのは「軍関係者」に限られていたはずです。推測によれば彼らは「倭国王」直属の「兵士」であり、「舎人」のうち「警衛」に特化した者達ではなかったかと思われます。(額田部連比羅夫はその長(率)か。)
これをさらに明確にするのは『隋書』(俀国伝)の記事です。

「倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多■,從二百餘騎郊勞。」

 この両者が同一の出来事を指すものとは思われないのはその内容を見ると明らかですが(すでに述べましたが)、それは別としてこの時の歓迎の人々を見ると、「設儀仗」とされていることからも「兵士」を含んでいることは明らかであり、ここでいう数百人は「六-七〇〇人」ではなかったかと思われます。それは「釆女」と同様「伊尼翼」の子弟から徴発された人達であり、人数も同様と見られるからです。
 彼らが「兵士」であるのは「鼓角を鳴らして」という表現にも表れています。『隋書俀国伝』には「倭国」(俀国)の楽器として「鼓」や「角」(これは「つのぶえ」)があるとは書かれていません。そこには「樂有五弦、琴、笛」としか書かれておらず、これでは「鼓角を鳴らして」歓迎はできないはずです。これについてもすでに検討しましたがこの『隋書俀国伝』に書かれた記事が第一回目の来訪記事ではないという点にその理由があるでしょう。それ以前に「隋使」(裴世清)は来ており(その時点での彼の職掌が「鴻臚寺掌客」であったもの)、その時点において「鼓角」を持参し「隋使」との交渉時にそれを使用して歓迎するという「隋」の儀礼を教授したものと推察されます。そしてその「鼓角」を使用しての歓迎は「隋」において「軍」の行うべきこととされ、いわば「軍楽隊」が存在していたことと推察されるわけですが(「隋」ではこの「鼓角」が加わった形で「楽制」が整備されたのは「開皇十三年」(五九四年)とされます(『『隋書/志第八/音樂上』)、同様に「倭国」においても「軍」が「鼓角を鳴らして」歓迎する役割を与えられていたと見られるものです。(※1)その意味でもこの時の「阿輩臺」が率いていた「数百人」の一部は確実に「軍関係者」であり、「兵衛」であったろうと推察されるわけです。
 またここで「小徳」という官位の人間が来迎の指揮を執っていますが、倭国には「小徳」を含む「内官」の制度があるとされており、「内官」が「隋」など中国で「王権内部」(というより「京域」ともいうべき地域)における人事階級制を示すものですから、彼も「京師」に所在する立場の人間であったことが推定できます。また、そのことから「京師」がこの段階で存在している事は確実ですが(それはこの記事で「入京」とされていることでも分かりますが)、「阿輩臺」も「京師」に所在する役職であり、ここで書かれた「数百名」が兵士が主体であるなら、それらを率いている彼(阿輩臺)は文字通りその「率」と思われます。
 また「臺」は「弾正臺」等の名称と同様の「政府の役所」という意味と思われ、また「倭国王」が「『阿輩』[奚+隹]彌」と自称していることから「阿輩」が「倭国王」に関わるものであることが推定でき、その意味で「阿輩臺」は個人名と言うより「職掌」であって「倭国王」に直結する組織(兵衛)であった可能性があるでしょう。つまり彼は「兵衛率」であったと見られるわけです。
 ところで少なくともこの時点ですでに「京師」を含む「畿内」とその他の地域(畿外)の別なく一律の「制度」として「階級制」があったと見るべきでしょう。(※2)なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。それを示すのが「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれています。

「…太子勝於被戦畢于時以『大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公』奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 また、同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、その「内官」とはすでに見たように「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「官位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。
 (ちなみに「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、その意味では「倭国」の統治体制がかなり中央集権化していたことが示唆されます。)

(※1)元京都府立大学学長の渡辺信一郎氏はその著書『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)の中で同趣旨のことを主張されており、それでは「遣隋使」自体が早期に送られていたこととなるとして波紋を呼んでいるようです。(ただしその主張は六〇〇年の遣隋使の実在を主張するもののようですが)
(※2)同様の議論はすでに「大越邦夫氏」によって行われていますが(大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社))、『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く異なる文脈においてのものであり、そのことはこの二つは全く別のことではないかと思われることを示します。少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないことは重要と考えます。
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采女と兵衛

2024年01月21日 | 古代史
以下もまた以前投稿したものの再提出です。

『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。

「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」

 これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。
 またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよそ「半数」が、「釆女」として彼らの子女姉妹から一人ずつ選出していたように思われますが、では残りの半分からは何も選ばれていなかったのかというと、もちろんそんなことはなかったはずであり、それらからは「男子」つまり「舎人」あるいは「兵衞」が出されていたものではなかったでしょうか。
 「舎人」や「兵衞」は後の例からも地方有力者の子弟から構成されており、倭国王の至近で近侍・警護する役割を担っていたことから身元・素性のハッキリした人物である必要がありました。その意味では「釆女」と同様の選抜基準であったはずです。そう考えれば「釆女」を出していない残りの「伊尼翼」の子弟が「舎人」や「兵衞」として「王権」に近侍した可能性が高いと思われ、その人員数として「釆女」とほぼ同数の「六-七〇〇名」程度が想定できます。この数は後の左右兵衛府の兵員数として「八〇〇名」とあることとそれほど違わないことからも妥当性が高いと思われます。
 後の制度や例をみても「兵衛」と「釆女」は同基準で貢上するものとされているようです。以下の例では「筑紫七国」と「越後」に「兵衞」あるいは「釆女」を「貢」するようにとされています。 

「(七〇二年)二年…夏四月…壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。…」

さらに「養老令」(軍防令)を見ると以下のようにあります。

「軍防令兵衛条 凡兵衛者。国司簡郡司子弟。強幹便於弓馬者。郡別一人貢之。若貢采女郡者。不在貢兵衛之例。〈三分一国。二分兵衛。一分采女。〉」

 これを見ると両者とも同時に貢上する義務はなかったように受け取られます。つまり全郡から「兵衞」を出すという前提の制度ではあるものの、すでに「釆女」を貢いでいる場合は「兵衛」を出さなくても良いとされています。(これに関する『令集解』でも「謂。仮令。一国有三郡者。二郡貢兵衛。一部(一郡)貢采女。若其不等者。従多貢兵衛耳。」とあり、国司に対する義務として、国に含まれる複数の郡のうち兵衞を出すのは全体の三分二を下回ってはいけないと言う事のようです。)
 またこの規定は「「釆女」を既に選出している場合」の規定のようにも思われ、「釆女」というものが制度として先に決められていたようにも受け取られますが、それは「改新の詔」で「釆女」についてのものしか述べられていないことと関連しているように思われます。つまり「改新の詔」の中では「釆女」についての規定はあるものの、「舎人」についても「兵衞」についても何も書かれていないのです。(「仕丁」についての規定はありますが、彼等は一般の人達(農民など)からの選抜ですから全く別のものです)

「…凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者從丁一人。從女二人。以一百戸充釆女一人粮。庸布。庸米皆准仕丁。…」(大化二年春正月甲子朔条)

 しかし実際には「釆女」や「舎人」(あるいは「兵衛」)の始源となる制度はすでに『隋書俀国伝』時点で確実に存在していたものであり、既にかなり中央集権的状態があり、広範囲に統治を開始していたことが窺えます。ではそれらの成立はいつ頃であったでしょう。
 これら「舎人」「兵衛」や「釆女」は上に見たように「地方」の勢力から選ばれていたわけですが、「倭の五王」の時代には王権を支える勢力は「地方」と言うより「王権」に近い勢力が主体であったと思われ、そのような勢力のサポートにより「王権」が「共立」されていたという可能性も考えられるところです。たとえば「倭の五王」の「武」の上表文には「虎賁」という表現が出てきます。

「…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士『虎賁』、文武效功、白刃交前、亦所不顧。…」

 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は中国では「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。この「上表文」では「古典」に依拠した表現を使用し、「南朝」の「皇帝」など相手側に理解しやすいように言い換えていると思われますが、当然「倭国内」では別の呼称をしていたと思われ、それが「舎人」(あるいは「兵衛」)ではなかったかと考えられます。それは後の「藤原仲麻呂」時代(天平宝字二年(七五八年))に「兵衛府」が「虎賁衛」(こほんえい)と改称された例からもいえると思われます。
 その「舎人」や「兵衛」の代表と言ってもいいのが「大伴」「佐伯」「久米」等の氏族であったと思われます。彼等は「聖武天皇」の「陸奥出金の詔」やそれを引用した大伴家持の「陸奥出金歌詔」においても「海ゆかば」という彼等の家訓が示されているように、「皇帝」の至近に警衛している家柄であり、「虎賁」のような「王権」の至近で警衛する役割を行う「兵衞」のような職掌を代表する有力な氏族であったと思われ、彼等のような氏族のサポートにより維持されていた時代が「倭の五王」の時代であることが推測されるものです。

「万葉集四〇九四番歌」
「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
「… 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 『我れをおきて 人はあらじ』と いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの (一云 を) 聞けば貴み (一云 貴くしあれば)」(読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版角川書店」によります)

 ここでも確かに「梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り」というように、近侍しての護衛とその「御門」つまり「門衛」を行っていたことが彼等の自負として歌われています。
 彼等「久米」や「大伴」「佐伯」などは『書紀』によれば「神武」がまだ九州にいる頃からのいわば「同胞」であり「仲間」であったことは古田氏の「神武歌謡」の解析からも明らかであり、彼等は「神武」のような「王権中枢」と非常に近い関係があったことは明確ですから、「阿毎多利思北孤」の時代の「釆女」「舎人」とは時代の位相が全く異なる事は明らかであり、それを遡る時期である「倭の五王」の頃をその時期として措定するのが妥当と思われます。
 また、それは後の「兵衛府」が「中務省」という「倭国王」に直結する組織に配されていることからも窺えます。それは「王権」との「距離」が近いことを示すものであり、その始源についても「近かった」であろうことを示唆するものです。更にその「兵衛府」の長官が当初「率」と表記し「そち」と訓ずるとされていたことも重要です。
 この「率」はその「訓」として「そち」という「呉音」が想定されていることから「魏晋朝」時代まで遡上する起源を持っていると思われ、「率善校尉」「一大率」に使用されている「率」と同義・同音である可能性が強いと思われます。そのように「率」そのものの起源が古いと見られることはその「率」を以て「長官」としている「兵衛府」の組織自体もやはり歴史的なものである可能性を考えるべきでしょう。
 古代中国では「兵衛」は有力各豪族が自己の領域に開いた「軍府」の兵士を言い、「北周」以前から各地に存在していたものですが、これを「隋代」に再編成し「十二衛府」へと変更したものです。この段階で「府兵」と「禁軍」とに分かれました。「府兵」は「班田農民」で構成された「衛士」であり、「禁軍」は皇帝直属の「兵衛」であったものです。
 「倭国」にも「兵衛」のような、各々の諸国の有力者により編成された「軍団」を保有していたと思われますが、「倭の五王」の時代になり、いわば「大統一時代」、つまり「九州」やその周辺だけではなく、「東国」全般に影響力を及ぼすための(「戦闘」と言うより)「威圧行為」(それは「馬と剣」による)を行っていったものであり、その際逐次勢力下に置いた各国の有力者から(「質」の意味もありますが)「子弟」を徴発し、「倭国王」の周辺の警護に配置していったものではないでしょうか。これが「舎人」という制度へとつながっていったものと思われます。
 彼等は「倭国王」の至近に存在することとなるわけですから「氏素性」が明確であることが求められたものであり、そのような人物を父ないし祖に持つようなものだけが「近習できる」というある意味特権でもあったのです。これは「隋・唐」でも行われていた「宿衛」に非常によく似た存在であったと思われます。
 「宿衛」は「各諸国」(例えば「新羅」や「吐播」など)からある種「人質」として受け入れた人員を「皇帝」の近くでボディーガード役とするものであり、「新羅」からは「金春秋」の息子(金仁問)が「宿衛」とされていたという記録があります。後の『令集解』の「宮衛令」条でも「宿衛」について「宿衛。謂内舎人兵衛。」とされ、「宿衛」と「兵衛」更に「舎人」との関係が関連していることを示唆しています。
 彼等はそれまでの「倭王権」と近い関係にあった「久米」や「大伴」などの氏族とは異なり、新たに統治下に入った領域の氏族であり、ここにおいて「倭王権」の性質が大きく変化したことを示すと思われます。より広大な地域に権力を及ぼすようになると、その傘下に入った氏族の数も増え、彼等の発言力が相対的に増大しはじめた時期が「倭の五王」の最終段階つまり「五世紀末」ではなかったでしょうか。この時期付近で「釆女」「舎人」という制度が確立したのではなかったかと推察されるものです。
(続きます)

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「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)

2024年01月21日 | 古代史
以下前回からの続きとなります。 

「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)
 (現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)
 さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「尼寺」と判断できる寺が「筑紫」周辺にないことがあるとともに、『扶桑略記』の中に上の『続日本紀』とほぼ同文記事があり、そこでは『筑紫尼寺』という寺院名が「削除」されていることがあり、さらにもし「筑紫」にそのような寺院があったのなら「観世音寺」がそうであったように「大宰府管内」の「尼寺」を統括する立場にあったはずであるのに、それを裏付ける資料がないとされていることなどが挙げられています。(※)
 しかし『扶桑略記』のことで言えば『続日本紀』に比べはるか「後代史料」であり、書かれた時点ではすでに「廃寺」あるいは「移築」が行われた後であると思われますから、存在していない寺院となっていたことの反映として「筑紫尼寺」という寺院名が書かれなかったという可能性があります。
 そもそも『続日本紀』にないような独立史料ならともかくほぼ同内容の記事ならばその信憑性は「先行史料」である『続日本紀』が優先されてしかるべきと思われます。(『扶桑略記』はその時点の「常識」で書き換えられているという可能性が考えられるでしょう。)その意味では「筑紫尼寺」という表記は一概に誤記とはいえないと思われます。
 また確かに「仁明天皇」の代の『続日本後紀』の記録をみると、「観世音寺」(観音寺)が「国分寺」「国分尼寺」をはじめとする「大宰府管内の全ての寺院」を統括していたように書かれています。

「承和十一年(八四四)四月壬戌十条」「大宰府言。管大隅薩摩壹伎等國嶋司言。建國任職。大小是同。除災祈福。彼此不異。如今比國皆有講讀師之職。修正月安居等事。而件國嶋既無講讀之職。還失鎭護之助。加以國分二寺雜物。觸類夥多。既無綱維。令誰検領。望請准諸國之例。置講讀師者。府司商量。所陳有理。望請准管内諸國博士醫師之例。府司於觀音寺。与彼講師共簡試部内僧精進練行智徳有聞堪任講筵終始無變者。將補任之者。勅。講師者。依請補任。讀師者莫更置之。但安居齋會之日。依延暦廿五年三月格。以國分寺僧次第請之。」(『続日本後紀』巻十四より)

 このことからも「筑紫尼寺」という存在に対して疑問が発生するとされているわけですが、この記事が置かれた「八四四年」という年次の直前の「八四二年」には「嵯峨上皇」の「七七御齋」(いわゆる四十九日)が「檀林寺」で行われたという記事があります。

「承和九年(八四二)九月乙未四。修太上天皇七七御齋於檀林寺。」(『続日本後紀』より)

 この時点で「檀林寺」がすべて完成していたということではないとは思われるものの、明らかに主要な機能はすでに備わっていたものと思われます。さらに『続日本後紀』には「八三六年」という段階で「造檀林寺使」という役職の存在が書かれています。

(『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月壬午十四条」「壬午。右京少属秦忌寸安麻呂。『造檀林寺使』主典同姓家繼等賜姓朝原宿祢。」

 これらのことから考えてもし「筑紫尼寺」から「梵鐘」を「檀林寺」へ移したとすると、この時点以降「筑紫尼寺」関係の記事が消えて不思議ではないこととなります。逆に言うとそれ以前には「筑紫尼寺」がまだ存在していた可能性があることとなりますが、それを示唆するのがこの時点以前には「観世音寺」の統治権が「尼寺」には及んでいなかったと受け取ることのできる記事があることです。

「天長八年(八三一)三月乙巳七条」「乙巳。仏舎利五百粒、令大宰府観音寺講師光豊、安置彼府管内国分寺及諸定額寺。」(『日本後紀』巻卅九逸文(『日本紀略』)より)

 上の記事からは、この「八三一年」という段階では「観音寺」講師の権能は限定的であり、「国分寺」に対しては統括的立場にあるものの「尼寺」については記述されておらず、早い時期から「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督していたものとはいえないことがわかります。(「国分二寺」という言い方がされていないという点で、末尾にある「諸定額寺」の中に「国分尼寺」が含まれていたとは言いにくいと思われます。)
 つまりこの時点付近でまだ「筑紫尼寺」は存在しており、その「大宰府管内尼寺」に対する支配力もこの時点付近までは継続していたものではないかと考えられる訳です。その後「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督する立場に変ったというわけですが、それは「八三六年」に「造檀林寺使」が任命されていることと関係していると思われ、この年次付近で「筑紫尼寺」という存在が「廃寺」となって「筑紫」から消えたと考えると「八四四年」の記事との関連が整合するといえます。
 またこのことは「鐘」だけを移設したというより「伽藍」全体が「移築」されたと考えることも可能かもしれません。もとよりどちらの寺院も何らの遺跡も発見されておらず詳細が不明ですから、このような推定はほとんど「妄想」に近いかもしれませんが、可能性としてはありうると思われます。「移築」してしまうと「礎石」以外何も残らなくなってしまいますから、「諸史料」に「筑紫」周辺に「尼寺」の存在が確認できないというのも道理であることとなります。
 このような経緯で「鐘」が「檀林寺」に入ったとすれば、その後の鎌倉時代になっても宮廷の人たちは「檀林皇后」と呼ばれるようになる「橘嘉智子」という人物のイメージと共に、このような背景を(当然)よく承知していたはずであることとなりますから、『とはずがたり』において「後深草院」が「浄金剛院」の鐘の音を聞いてすぐに「観世音寺」そして「都府楼」へと連想して詠ずる場面にはそれなりの「必然性」があったと言うこととなるでしょう。

(※)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報大宰府学』第七号二〇一三年三月)によります。
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