心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

エリク・エリクソン 自分が自分の親になること

2017-06-05 08:13:56 | 身体・こころ・社会

エリク・エリクソン(Erik Erikson)の本名は、エリク・ホーンブルガー(Erik Homburger)。

しかし、父親は定かではありません。デンマーク人の芸術家だったのではないかと言われていますが、

ユダヤ系デンマーク人だった母のカーラ・アブラハムセン(Karla Abrahamsen)は、最後まで息子にその実父の名を明かさなかったようです。

 

エリクソンは、1902年6月15日にフランクフルトに生まれたのですが、1905年、3歳のときに母カーラが、

エリクソンの主治医も務めていた小児科医のテオドール・ホーンブルガーと再婚(それに伴ない、カールスルーエに転居)、

エリク・ホーンブルガーの名になったのです。

 

しかしエリクソンは、実父の出自も所在もわからない状態で育ったうえ、

ドイツ人コミュニティからはユダヤ人との理由で差別を受け、かつその北欧系の風貌からユダヤ系社会やユダヤ教の教会からも差別を受け、

二重の差別を受けて育つことになりました。

カールスルーエのギムナジウム・ビスマルク校を卒業したあと、芸術学院に進学するも卒業はせず、

その後画家をめざしながら、各地を転々と“デラシネ”(根なし草)として放浪生活を送るのでした。

まさに後に彼の言う「アイデンティティ拡散」の青年だったのです。

 

そんななか、たまたまウィーンにいた時代、エリクソンは友人の紹介で、

フロイトの娘アンナ・フロイトがウィーンの外国人の子弟を対象に始めた私立の実験学校で教師を勤めることになりました。

そこでアンナの弟子となり、教育分析も受け、アンナが所長も務めたウィーン精神分析研究所で分析家の資格を取得するに至ります。

こうして精神分析家としてのエリクソンの生涯がスタートしたのでした。

 

しかし、アンナ・フロイトの教育分析でも、決して十分に解決できないままでいたのが、自分の父親の問題です。

そこでエリクソンは、自分が自分の親になることで、これを克服しようとしました。

そのしるしとして、1938年秋、アメリカに帰化申請の際、「エリクソン」(Erikson)という新しい苗字を自作して、

「ホーンブルガー」という苗字をミドルネームに移し、

「エリク・ホーンブルガー・エリクソン」の名で市民権を求めました(翌1939年9月に正式に改名)[Friedman 1999,p.135]。

Eriksonとは、エリク(Erik)の息子(son)、つまり今のエリクがエリクの親になるという意味なのです[Ibid.,p.139]

自分が自分の理想の父親エリクになり、デラシネ少年エリクソンと共に生きていく、その“生まれ直しの宣言”がこの名前なのです。

 

<文 献>

Friedman, L., 1999 Identity’s Architect: A Biography of Erik H. Erikson. Cambridge, Massachusetts :Harvard University Press. =やまだようこ・西平 直監訳、鈴木真理子・三宅

 真季子訳、2003『エリクソンの人生 アイデンティティの探究者』新曜社。

 

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