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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(1)

2007年11月09日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】


前の「故郷の廃家」について書いたものに、ワシモ(WaShimo)様からコメントをいただきました。ありがとうございました。いただいたコメントに、回答をさせていただきました。


「「がじゅまる」という木の写真は撮影してきておりません。」
と思ったのですが、1枚今年撮影してきた写真の中に森を撮影したものが
ありました。おそらく、大きくはないですが、がじゅまる だと思います。
「このあたりが旧元町集落に一番近いはずだろう。」と思われる
あたりで撮影した写真です。

大木は「硫黄島見聞記」に、硫黄島の貴重な写真と一緒に
ご紹介いただいております。
http://kougabubusitu.hp.infoseek.co.jp/ioujima.html

(「硫黄島見聞記」管理人の「HP管理者 光画部副部長」様、
断りもなくここに紹介させていただいてしまっており、すいません。
問題があるようでしたらこの部分を削除いたします。
掲載いただいたいているのと同じ輸送機に昨年の秋に、乗せていただきました。
東京都主催の旧島民の墓参(入間基地から日帰り)でした。
掲載いただいている水平高射砲の写真は、今年のおがさわら丸での墓参訪島の
時に撮影してまいりましたが、
まわりに一緒に行ったメンバーの方々が多く映ってしまっているので
掲載することができずにいました。
硫黄島のがじゅまるの木の写真を掲載下さってありがとうございます。)

私が、
最初に行った時は、1994年でした。
人数も大規模だったと思います。

長男の伯父(故人)夫婦、次男の伯父、母、母のすぐ下の妹(次女)
と、一同6人で参加しました。
母の従兄弟なども含めると、かなりの親類と一緒に参加しました。

おがさわら丸での墓参がまだ、毎年定期的に開催されるようになる前でした。
父島では本当に盛大な歓迎パーティーを開いていただきました。

まだ、平和祈念館も出来ていませんでしたので、旧島民も、夜は船に戻って
2泊しました。旧島民だけで数十人規模の参加だったと記憶しておりますので、
平和祈念館では泊りきれない人数でした。

新聞記者の方も同行していたこと。
今年の墓参のようなマイクロバス以外にも、
荷台の両側には幌が張ってある軽トラックも、島内移動に
使われて木々が多い道では、ゆっくり進んでもらいましたが、
腕や頭に木々の枝が当たったことを覚えております。

参加人数が多かったのですが、
集合や解散の中心地は今の墓参訪島と同じ厚生館で、
出身など考慮しての班分けがされての
グループ行動であったのは、基本的には今年の墓参と
同じでした。

大きく違ったのは班の数の多さと一つの班の大きさ
(今年の墓参は、元町出身班は村役場スタッフの方1名と
私ともうお一方の三人でした。)です。

20人とかが班行動をしました。

今でも忘れられないその事件があったのは、
島での2日目だったと思います。班行動での島内移動、
出身の見学などが中心だった日でした。

その忘れられない事件があった日は、
暑い暑い日でした。

コメント
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