この貨物廠も硫黄島の北部にあります。写真は貨物廠の壕の入口です。この壕には中に入って見ることはできません。
激戦で日米両軍に多数の死傷者が出た硫黄島でしたが、将校や兵士だけでなく、硫黄島に戦前在住していて強制疎開で本土に戻ることができずに、硫黄島に残らされて軍属として、犠牲になった島民が80余名います。(Wikipedia等では82人となっていますが、数え方が複雑であることから、80余名とあえて示されている場合があります。)
その中の多数は、どこで最後を迎えたが分かっていませんが、島の中央部に近い、釜場という場所で軍属として作業をしていたことが分かっています。一方で、こちらの貨物廠の方は、10数人がここにいたことが分かっていて、その方たちのお名前が確認できていて、おそらくこの貨物廠が最後の地であっただろうと考えられています。
一つの壕を長い時間をかけて見学できる行程にはないっていません。
この貨物廠は、ここにいて犠牲になった方のご遺族が、私たちの一行にいて、ペットボトルからお水を捧げてお祈りをして、声をかけたりする人たちがいるので、(もちろん、ここで犠牲者を出していない私たちも一緒にお祈りをします)なかなか、壕の前の場所が空かなくて、写真を撮るのが難しいです。
激戦で日米両軍に多数の死傷者が出た硫黄島でしたが、将校や兵士だけでなく、硫黄島に戦前在住していて強制疎開で本土に戻ることができずに、硫黄島に残らされて軍属として、犠牲になった島民が80余名います。(Wikipedia等では82人となっていますが、数え方が複雑であることから、80余名とあえて示されている場合があります。)
その中の多数は、どこで最後を迎えたが分かっていませんが、島の中央部に近い、釜場という場所で軍属として作業をしていたことが分かっています。一方で、こちらの貨物廠の方は、10数人がここにいたことが分かっていて、その方たちのお名前が確認できていて、おそらくこの貨物廠が最後の地であっただろうと考えられています。
一つの壕を長い時間をかけて見学できる行程にはないっていません。
この貨物廠は、ここにいて犠牲になった方のご遺族が、私たちの一行にいて、ペットボトルからお水を捧げてお祈りをして、声をかけたりする人たちがいるので、(もちろん、ここで犠牲者を出していない私たちも一緒にお祈りをします)なかなか、壕の前の場所が空かなくて、写真を撮るのが難しいです。
硫黄島では、いろいろな場所に大きな葉を茂らせたオオタニワタリがあります。これは兵団司令部壕の近くの森にあったものです。
戦前に住んでいた人によると、このオオタニワタリの葉を牛の餌としてたべさせていたそうです。
調べてみると、人が食べることもできるようですので、小さいのをいくつか持ち帰って、自宅でも栽培を始めています。
戦前に住んでいた人によると、このオオタニワタリの葉を牛の餌としてたべさせていたそうです。
調べてみると、人が食べることもできるようですので、小さいのをいくつか持ち帰って、自宅でも栽培を始めています。
司令官の栗林中将が指揮をとった部屋もあるこの兵団司令部壕は、別名「栗林壕」と呼ばれます。中には広い執務室もあって、そこにはウィスキーの瓶などがあります。
数年前までは我々もこの壕に入って見学をしていましたが、このところ入口までで中には入れません。途中で壕の天井が低くなってしゃがんだぐらいでは背中が天井につかえてしまって手と膝をついて進まないと通れない箇所があります。その箇所ではすれ違うことができないので、大勢での壕内見学は困難ということで、入らないようにしたと聞いています。
数年前までは我々もこの壕に入って見学をしていましたが、このところ入口までで中には入れません。途中で壕の天井が低くなってしゃがんだぐらいでは背中が天井につかえてしまって手と膝をついて進まないと通れない箇所があります。その箇所ではすれ違うことができないので、大勢での壕内見学は困難ということで、入らないようにしたと聞いています。