釜場にはいくつかの鉄製の大きな鍋が残されています。私が続けて慰霊墓参に参加するようになった13年ほど前の時からは、ゆっくりとではありますが、鍋の腐食が進んできていて、残されている状態が悪くなってきています。
米軍が上陸して戦闘が激化してからは、日本軍の将兵は地下の壕にこもって地上にはあまり出られなかったと聞いていますので、その時期には、もうこの釜場は使えなくなっていたのではないだろうかと思います。
18歳の従妹同士(私の母の従妹二人)や祖父のすぐ下の弟など、私の祖父や母の親戚の何人かも軍属として硫黄島に残って戦死しました。貨物廠の方に配属になっていたとは聞いていませんので、この釜場を使っていた204設営隊の方にいたのだと思います。どこが最期の場所であったのかは分かっていませんが、私たちは、この釜場を戦死した場所だと見立ててお参りをしています。
18歳の従妹同士(私の母の従妹二人)や祖父のすぐ下の弟など、私の祖父や母の親戚の何人かも軍属として硫黄島に残って戦死しました。貨物廠の方に配属になっていたとは聞いていませんので、この釜場を使っていた204設営隊の方にいたのだと思います。どこが最期の場所であったのかは分かっていませんが、私たちは、この釜場を戦死した場所だと見立ててお参りをしています。
硫黄島の釜場です。
戦前に硫黄島に在住していた島民のうち、壮年男子が軍属として硫黄島に残されたうちの80余名が犠牲になって戦没しました。十数名は前に紹介した硫黄島北部の兵団司令部豪にも近い貨物廠という壕のあたりに配属されてその辺りや壕内が最期の場所であったろうと言われています。残りの人たちは、204設営隊に配属されたと言われていて、その隊が将兵の食事の用意の煮炊きをしていた場所の跡がここです。鉄製の大きな窯が並んでいます。
戦前に硫黄島に在住していた島民のうち、壮年男子が軍属として硫黄島に残されたうちの80余名が犠牲になって戦没しました。十数名は前に紹介した硫黄島北部の兵団司令部豪にも近い貨物廠という壕のあたりに配属されてその辺りや壕内が最期の場所であったろうと言われています。残りの人たちは、204設営隊に配属されたと言われていて、その隊が将兵の食事の用意の煮炊きをしていた場所の跡がここです。鉄製の大きな窯が並んでいます。