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石手川散策 4 「石手川・鎌投げ」

2011年11月22日 | 伊予松山歴史散策
石手川散策その4

今回の石手川散策は、唯一現存している「鎌投げ」である。
所在地は、松山市湯渡町12番8号の東側。

加藤嘉明が慶長5年(1600)に普請奉行足立重信に湯山川の改修を命じた。
足立重信は、伊予松前城(現在の松前町)を城山(現松山城)に移すにあたり、城山近くを流れ伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。

 改修は城山近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた石手川を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。

 また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に岩石を組み突出させ、流れを受け止める鎌投げ(水制工)という工法を用いた。
足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。

延宝元年(松平定長・第3第伊予松山城主)は度々氾濫を起こす石手川を西条の大川文蔵を抜擢し改修した。文蔵は川幅が広すぎる、川底が浅いので氾濫が起こる。それを解消する為に、川幅を狭め、川底を深くして川の流れを高め、重信が考案した「鎌投げ」を廃し。
完成したのが現在の石手川である。・・この鎌なげ現在一ヶ所現存している。

いま、現存している「鎌投げ」の清掃を奉仕活動でしている「岸さん」にお話を聞く事が出来た。戦後も3ヶ所残っていたそうだ。

江戸時代に考案した特殊土木施行技術を是非とも県か市が文化財として保存管理してもらいたい。

鎌投げから下流150mに中の川の取水樋がある。加藤嘉明は伊予松山城の外堀計画を立案し建設に取り掛かったが会津40万石として転封し中止になった。その名残が県立松山東高校運動場西にある土塁が外堀の土塁になるものであった。中の川は外堀に水を引く施設であったが、現在は竹原地区の農業灌漑用水路として土地改良区が水量管理をしている。
中の川は、別枠で紹介します。


画像は、平成18年3月4日撮影の「鎌投げ」で岸さんが何時も除草作業を奉仕活動でされていて草一つ無いいい状態であった。




上から見た鎌投げで、今日(平成23年11月22日)岸さんにお願いして大きさを計測した。
結果は、横幅4m66cm 長さ7m70cm 高さ約4mであった。但し横幅は、地上に出ている部分で基礎部はもう少し広いと思う。


この画像は、本日11月22日撮影した画像で、岸さんも最近体調を崩され除草作業が出来てないが、体調が復調次第綺麗にされるそうです。
がこれは行政が行うのが当たり前だと感じる。このような遺跡は文化財的な要素が高いのだから保存すべきだ。








石垣は、草木の根っこが石を浮かせ崩壊の原因となるので、岸さんが除草作業をする時は私もお手伝いに行こう。その時は川面からも撮ってみたい。
コメント
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