EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

四国は88ヶ所札所巡礼 松山市内霊場の旅 3 番外霊場 文殊院

2011年11月11日 | 伊予松山歴史散策
番外札所「文殊院」衛門三郎伝説「八ツ塚」

天長年間(824~833年)の頃の話である。伊予国浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢をつかんで地面にたたきつけた、鉢は八つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。

三郎には八人の子がいたが一大事が起こった。その翌日から1人ずつ子が亡くなり、皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は、沢山の財産を世の人の幸せのためにと寄進し、家族とも別れ、遍路姿となり大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫びた。

「お前の罪は許された、河野一族の子に生まれ変わるであろう・・・南無阿弥陀仏・・」三郎は『衛門三郎再来』と書いた小石と経文一巻を手に大師を伏し拝みつつ世を去った。
これが四国八十八ヵ所巡礼の始まりだと言い伝えられている。(四国88ヶ所巡礼の元祖である。)
衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」で、現在の文殊院が衛門三郎の邸跡であると言われている。
ご詠歌に「我れ人を救はんための先達に、みちびきたまふ衛門三郎」とある。
松山市恵原町にある衛門三郎の邸跡から西に200mの所に三郎の八人の子を祀る八ツ塚がある。塚の頂には小祠が置かれ石地像が安置してある。

最近は女性の歩き遍路が多く、一日30km歩いたとして約40日程度掛かる。距離は約1300kmある。
画像は、88ヶ所番外札所「文殊院」と衛門三郎の亡くなった子供を祀る八ツ塚である。


文殊院に立つ特大のお大師さん石像、右傍に衛門三郎夫妻の坐像がある。


文殊院の境内(衛門三郎の邸宅跡といわれている)第47番八坂寺から北方向、約800mに位置する。・・元祖88ヶ所巡礼者衛門三郎をお祀りしているので殆どの巡礼者がお参りに訪れる。


花崗岩で造られた巨大お大師様。


お大師様の右側で寄り添うように鎮座している衛門三郎夫妻坐像。


四国遍路の開祖発祥地・衛門三郎菩提所堂
ご本尊:文殊菩薩・地蔵菩薩・弘法大師




文殊院(衛門三郎の邸跡)から西に200mの所に三郎の八人の子を祀る八ツ塚がある。


塚の頂には小祠が置かれ石地像が安置してある。石段傍に石碑がある。


文殊院から北方向に秋山好古揮毫の石碑がある。
碑 名:  郷社 大宮八幡神社
所在地:  松山市上野町甲51番地     

大宮八幡神社参道口
大宮八幡神社は、往古は、神名宮と称えたという。
貞(しょう)観(かん)9年(867年)筑紫宇佐宮を合祀し大宮八幡宮と称し征南将軍宮満良親王奉納の御剣等の記録もあったとの記録あるが、慶長5年(1600年)9月兵火に罹り社殿宝物記録など焼失したが、同年9年神殿・楼門等再建した由緒ある神社である。
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