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日本100名城番外編紀行、伊予川之江城散策

2014年07月05日 | 伊予松山歴史散策
徳川家康は、伊予国を慶長5年9月15日関ヶ原の戦いに於いて武勲を挙げた加藤嘉明に20万石、藤堂高虎にも20万石を与え2藩で江戸時代を迎えた。その後9藩に分かれ幕末には8藩で維新を迎えた。伊予9藩の一つが川之江藩である。
川之江藩は、寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩2万6千石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没。領地は没収されて天領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。
川之江城が築城されたのは、南北朝時代、延元2年(1337)、伊予守護河野氏の砦として、土肥義昌が鷲尾山に川之江城を築いきこれが川之江城の始まりである。川之江は、地理的にも重要な位置にあり(土佐・阿波・讃岐と隣接)数々の攻防があり悲劇の地であった。

川之江城管理事務所から貰った資料によると、興国3年(1342)北朝方、細川
頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。
義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落のびて各地を転
戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死をしている。
細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年1572)
阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時、最終的に廃城になった。
その後年月を経て城跡は、本丸附近の石垣に僅かに名残を留めるに過ぎなかったが、川之江市制施行30周年記念事業として、市民の浄財を基に城の再建が計画され、昭和59年度より城山公園整備事業として着手した。
建築にあたっては、日本城郭の権威者である東京工業大学名誉教授藤岡通夫博士の指導を受けた。昭和61年6月30日本丸跡に天守が完成した。涼櫓・櫓門・隅櫓・控塀も順次完成し、園路広場の面整備の完成をもって昭和63年3月31日城山公園整備事業は全て完了した。・・・とある。
画像は、昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建築した天守で、創建当時の資料、設計図などなく、模擬天守として完成した。伺ったのは4年前の4月5日である。

時間を作り伊予8藩特に、吉田藩跡、新谷藩跡、小松藩跡、西条藩跡の散策を計画してみたい。伊予8藩の内、松山、今治、宇和島、大洲の4藩は天守があり城持ち大名で、松山城天守、宇和島城天守は現存12天守の一つで、吉田、新谷、小松、西条の各藩は当時から天守は無く、陣屋で城無し大名であった。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された記念石碑。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された模擬天守。


JR四国予讃線川之江駅からも天守が見える。


天守最上階内部。


天守最上階から見た大王製紙の一部。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された模擬「櫓門」


石垣を見ての新しい「打込はぎ」。


先の大戦で川之江から出征され戦死された霊を祀る平和の像が建立してあった。深い意味では、戦国時代攻め込まれ攻防の末亡くなった人たちの霊も合わせての像だと勝手に思う。


平成元年当時の市長が平和の像建立に当たり碑文を」書いている。

コメント
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