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日本100名城番外編紀行、日本三大水城、黒田官兵衛の中津城散策

2014年07月03日 | 伊予松山歴史散策
6月23日、午後福沢諭吉旧邸を見学して最後の訪問地である、黒田官兵衛の城、中津城を散策した。6月21日(土)大分県由布市湯布院町川上でアマチュア無線の九州マイクロウエーブ大分大会に参加して、22日(日)南次郎の墓参、日出城址、杵築城、23日、宇佐八幡宮、福沢諭吉旧邸を見学、最後の訪問地が中津城であった。
さて、中津城は、福沢諭吉の出身地豊前国中津(現在の大分県中津市)にあった城で、黒田孝高(如水)通称を黒田 官兵衛が築城、そして細川忠興が完成させた城である。
天守の存在については不明で、江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水・官兵衛)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。・・と資料に記載されている。
天正15年(1587)九州征伐の軍功で豊臣秀吉から豊前国6郡を与えられ入国し、翌16年から築城を開始した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康に従って軍功を挙げた二代目黒田長政18万石が筑前一国を与えらら転封となり、代わって同じ軍功から豊前一国と豊後二郡を与えられ入国した細川忠興が未完成だった工事を引き継ぎ、忠興は新たに三ノ丸を増築し、大家川の本流を堤防を築き塞ぎ、更に山国川の水を城内に引き入れ海城とした。
その後二代目細川忠利39万9千石が城主となり、寛永9年(1632)肥後国熊本へ転封、その後に播磨龍野から小笠原長次が入国8万石、その後享保2年(1717)奥平昌(まさ)成(しげ)が10万石で城主となり明治維新を迎える。奥平昌成は、元禄8年(1695)宇都宮藩城主、元禄10年(1697)丹後宮津藩城主となり、中津藩城主となる。奥平9代で維新を迎えた。
中津城に残る黒田孝高(如水・官兵衛)が普請した石垣が現存していてこれは見るに値する。普請され現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものがある。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。
昭和39年(1964年)旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて鉄筋コンクリート造りの復興天守ブームに便乗して、本来なかった2層の小天守と共に模擬天守が築城された。天守の造りは、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった設計士が手がけ、 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして、外壁仕上げは下見板張りに変更、5層5階で高さは23メートルある。模擬天守は(奥平家歴史資料館)として一般公開されている。昭和39年以降から中津城はごたごた騒ぎでややこしい城になっている。

※宇佐八幡宮で書き忘れたが、昭和の大横綱双葉山定次の出身地が宇佐市である。時間(フエリー乗船)の関係で双葉山生家見学は出来なかった。


慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍に属した黒田官兵衛・長政父子は、その軍功により筑前52万石の大名となる。画像は模擬天守と模擬小天守で昭和39年鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りとして、5層5階構造で高さは23メートルある。


中津川堰堤から見た天守で中津城一番の良い姿で見える場所だそうです。


中津城天守と手前が小天守、その手前に黒田官兵衛資料館があった。資料館はNHK大河ドラマ黒田官兵衛放映決定により造られた様だ。


天守には小天守横の石段を登り続き塀に沿って入る。


この角度からも中津城のいい景観が望める。


NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」放映決定で記念に創られたのか?官兵衛さんの像。


中津市が掲示してある説明版。


黒田官兵衛時代の石垣で、ある資料によると近江国穴太衆が積んだ穴太積(野面積)であると言われている。この近くに櫓を配し舟入を置き中津川からの物質の搬入にした。現在はその場所は石垣で塞がれている。


中津城内部、一階には売店もあった。


中津城天守最上階。


中津城天守最上階から見た模擬小天守と薬研堀。


日本三代水城の一つ中津城で、天守最上階から見た二ノ丸跡と、山国川(中津川)河口とその奥は瀬戸内海周防灘である。
日本三代水城は、
中津城:築城者・黒田官兵衛孝高、築城年・天正16年(1588)瀬戸内海周防灘に臨む
高松城:築城者・生駒親正、築城年・天正18年(1590)瀬戸内海に臨む
今治城:築城者・藤堂高虎、築城年・慶長7年(1602)瀬戸内海来島海峡に臨む


「独立自尊」福沢の偉業を称え、明治37年7月8日、福沢家のご意思に沿って、中津城公園に記念碑を建立した。当初は公園地の中央(三ノ丸跡)にあったが、昭和7年10月18日、現在の位置に移設された。立派な記念碑である。
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