藤村の心の一端が、「故郷を思ふ心─談話」の中に、「私は仕事に疲れて身体でも養ひたいと思ふ時には、よく上州の磯部に行き行きしましたので、あんな平凡な土地のどこがよくって、さう度々行くのかと、よく人に聞かれたこともあるが、別に何も求めにいくのではない。唯あの碓氷川の水の音を聞きたくて出かけたのです。」という感想によく現れている。
この川の瀬音を、藤村は聞いた。
藤村が磯部温泉で定宿にしていたのが、旅館「三景楼」、いまは、名を変えて「磯部館」になっている。
中山道に設けられた宿駅として松井田町内には松井田、坂本の二宿が置かれ、箱根の関所と並ぶ「碓氷の関所」が置かれた。
松井田宿と横川の碓氷関所のほぼ中間に立つ大きな二軒の家が「五料の茶屋本陣」で、各宿場ごとにある本陣のような宿泊用のものではなく、休憩や昼食あるいは他の大通行が関所にかかっている時に、待ち時間などに利用された。
中に入ると、広い土間に、馬具や民具などが展示されている。
囲炉裏も、そのまま、残っている。
この鉄瓶の湯が旅人の喉を潤したかもしれない。
二階に上がると、資料館になっていて、収集物が展示してある。
古代人の食べ物のコーナー。
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明治32年5月初め、北海道函館の秦ふゆと結婚した藤村が、ふゆを伴い義塾の教師として信州・小諸へ赴任する時、上野駅から乗った信越本線の汽車を途中下車して磯部温泉に立ち寄っています。
以来、昭和4年6月に後妻静子とともに、その2年前に建立された小諸・懐古園の「詩碑」を見るため、ついでに磯部を訪ねた時を最後にするまで、再々一人で、また時には兄・広助と一緒に磯部へ足を運んでいます。
「破壊」執筆の過程で愛児三人を失った哀しみの心を、また「新生事件」で傷ついた身を癒すため、身を隠すように訪ねたのが磯部でした。
磯部では、この他、友人田山花袋を伴い、また小諸時代の旧友神津猛や小諸義塾の同僚鮫島晋らと一緒に川の瀬音を聞く湯宿でのひとときを楽しんでいます。
「家」「旧主人」「芽生」「新生」などの作品にでてきます。