醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 二号

2014-11-15 15:28:28 | 日記
 
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟 芭蕉

 何回もこの句を口ずさむでいると泪があふれてくるような哀しみが湧いてきた。なぜなのだろう。
芭蕉が生きた社会は身分制社会だった。農民階層出身の芭蕉にとって男の子の端午の節句に修験者が背負った笈や武士にのみ着用が許された太刀を飾ることなどかなわなかった。芭蕉は上層の農民階層出身ではあったが、次男であった。当時農民階層出身の次男以下の男子は部屋住み、嫁をもらうこともできず、長男の支配下に属する下人であった。長男の下人に甘んじるか、養子に出るほかなかった。次男である芭蕉が選んだ道は籐堂藩伊賀付き士(さむらい)大将の息子藤堂良忠に仕える武家奉公人であった。生涯家族を持つことが難しかった。息子をもつことができない。そんな立場にあった芭蕉が五月、端午の節句に「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」と詠んだ。芭蕉は叶わぬ夢を青空に描いた。生きる哀しみがこの句には表現されている。
 端午の節句は男の子の成長を祈るお祭りである。芭蕉が生きた時代には年中行事としての端午の節句が定着したようだ。武士として健やかな成長を祈り、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽(ちまき)や柏餅を食べた。菖蒲は尚武に通ずる。尚武の気風をもった男に育てという願いが家の軒に菖蒲を挿した。
 私には高等小学校を卒業し、小学校の代用教員を振り出しに最後は栃木県立栃木女子高等学校の先生になった義理の伯父がいる。学校の代用教員の制度は戦後まで存続していた。代用教員と師範学校を卒業した正規の教員との間には厳しい差別があった。まず俸給の差があった。待遇の差があった。厳しい差別を感じるのは朝礼で並ぶ順である。生徒の前で師範学校出身者の下に立つ。毎年四月には職員の歓送迎会がある。栄転していく校長は師範学校出の職員に対しては杯に酒を注ぐが代用教員に対しては素通りした。校長にとって代用教員は自分とは同じ教員仲間としてはみなしていなかった。きっと伯父は哀しい想いをしたに違いない。この差別から抜け出したい。
 当時、文部省は教員資格検定試験を実施していた。この試験に合格すれば対等になる。俸給も上がる。伯父は何回も挑戦した。五月、息子よ、立派な男の子になってくれ。自分のような哀しい想いをすることのない人間になってくれと祈りをささげて、教員住宅の軒下に梯子をかけて菖蒲を挿していたとき、赤い自転車に乗った郵便配達夫が「文検」合格の電報を持ってきた。伯父はその電報を見ると足がガクガクと震え、梯子から下りられなくなってしまった。この時の伯父の気持ちを思うと私は感極まる。
 「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」。芭蕉がどんなに優秀な人間であっても、努力家であっても所詮、農民はどこまでいっても農民にすぎない。私の義理の伯父は菖蒲を挿して祈りを現実のものにすることができたが、芭蕉は青空に夢を描く俳句を詠み、自分の気持ちを歌たった。この句の裏にはきっと身分制社会に生きた芭蕉の哀しみがこもっている。俳句は読者のものである。私は芭蕉の俳句をこう読んだ。