徒然草63段 『車の五緒は、必ず人によらず、』
「車の五緒(いつつを)は、必ず人によらず、程(ほど)につけて、極むる官・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。
「五緒(いつつを)の牛車に乗れる資格は、必ずしも乗る人の身分によるものではなく、家格に応じた最高の官・位に達すれば乗るものである」と、ある人がおっしゃっておられた。
前近代社会は人間を差別することに合理性があった社会である。牛車に付ける飾りによって、乗る人の身分と位が明確に分かる社会であった。
その差別の仕組みは小さな地域でのみ支配的であった。京都という小さな都でのみ支配的な差別の仕組みであった。古代天皇制が支配的な地域でのみ通用する差別の仕組みであった。
身分制度は当時の日本全土で支配的ではあったが、差別の実態は地域によって大きく異なっていた。現代社会に生きる我々にとって、牛車の飾りなど、取るに足りないものであるが、当時の京都に生きる人々にとっては、大きな存在であったのであろう。
差別はいつの時代も差別する者が差別の必要性を主張する。上位にいる者が下位にいる者と同等に扱われることを嫌う。絶えず、上位にいる者が下位にいるものを差別する。下位にいる者はいつの時代もどの社会にあっても差別の解消を求めるが実現を阻むのが上位にいる少数者である。
14世紀の半ば頃の日本で、文字の読み書きができる人々はごく少数であった。文字の読み書きのできる者は文字の読み書きのできない者を差別した。教育のある者は教育のない者を差別する。ここに差別の合理性を主張する理由ができる。文字の読めない者は文字の読める者を敬う。教育を受けられる家に生まれた者と教育を受けられない状況の家に生まれた者とは差別される運命になる。しかし日本の歴史の中で、差別が問題にされない時代があった。それが戦国時代であった。動乱の時代である。社会秩序が壊された時代であった。だから人々が一面、生き生きした時代であった。だから魅力ある時代社会ではあったが、下々の人々の命の保証が一切ない時代が戦国時代でもあった。領主が戦いに負けるとその地に住む住民たちは奴隷として海外に売り飛ばされる運命にあった。戦国の動乱とは、一面、そこに住む住民の奪い合いでもあった。日本に古代国家が成立して以来、明治維新が成立するまでの歴史において、日本に生きた下々の住民のほとんどは奴隷に等しい存在であった。特に下々の住民が苦しみの限界に生きた時代が戦国時代であった。それまでの身分差別の制度は破壊されたが、新しい差別の制度が整えられていったのか江戸時代であった。