醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1239号   白井一道

2019-11-07 11:02:18 | 随筆・小説



   徒然草67段 『賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。』



 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ粉へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、
月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はこゝにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
 上賀茂神社の摂社である岩本神社と橋本神社の祭神は在原業平と藤原実方である。参拝者が岩本社と橋本社との祭神をよく取り違えることがあるので、ある年参拝した折に、老いた宮司が通り過ぎるのを呼び止めてお尋ねしたところ、「実方の祭られた社は御手洗の池に影の映った所だとございますので橋本社の方がより池に近いのでそうであろうと思われます。吉永和尚こと慈円僧正が
 月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はここにありはら
 とお詠みになられたのは岩本社だと伺っておりますけれども、私どもより皆様方の方がよりいろいろご存じなのではないでしょうか」と、たいへん丁重に言われたことは、誠に立派なことだと思ったことだ。
 今出川院(いまでがわいん)近衛(このゑ)とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。
 今出川院(いまでがわいん)近衛(このゑ)といういろいろな歌集に数多く入集している人は若かった頃、常に百首の歌を詠み、かの二か所の社の御前の水で溶いた墨で歌を書き、奉納された。まとこに尊い誉れ高いことで、多くの人に口ずさまれている歌も多い。この人はまた漢詩や詩の序などを見事に書く方である。

 兼好法師のこの文章を読み、日本では昔からこの世の人は死ぬと神になるということが信じられていたということを知ることができる。ここで大事なことは誰でもが皆、神になるということだ。特に選ばれた人だけが神になると言うことではないということではないかと思う。仏教にあっても「成仏する」という言葉がある。仏教の世界にあってはこの世の人は亡くなると仏になるということが幅広く信じられていたということだ。
 この世とあの世は繋がっている。人は亡くなるとこの世とあの世を隔てる三途の川を渡って行くという。この川を渡るには六文銭がいるからと亡くなった方の手に六文銭を握らせ、手には手甲、足には脚絆を巻き付けて葬る。これが日本の死に装束である。
神・仏とこの世の人とは結びついている。ここに日本の宗教思想の特徴の一つがあるのではないかと私は考えている。キリスト教やイスラム教にあっては、神と人間とは、断絶している。ヨーロッパや二位アジア世界にあっては、人間は亡くなっても決して神になることはない。神の前に一人立つ最後の審判を受けなくてはならない。最後の審判への恐れ、地獄に落とされる恐怖がヨーロッパ世界や西アジア世界にはあるようだ。日本の宗教思想には最後の審判のような厳しい恐怖はない。誰でもが極楽への往生が可能なのだ。亡くなった人を鞭打つようなことはしない。これが日本に住む人々の気持ちなのだ。
このような日本人の心性はきっと日本の風土が培ったものではないかと私は感じている。一粒の麦を蒔くと50粒の実が実るのが日本だとするかな、ヨーロッパでは、一粒の実から一粒の実がなる。石アジアでは、一粒の麦を蒔くと何も実らないと昔、教わった。日本は豊かな風土なのだ。日本に住んでいると日本の豊かさのようなものを実感することはないが、海外に住むと日本の豊かさのようなものを感じるのではないかと思う。