両の手に桃と桜や草の餅 芭蕉
華女 この句を芭蕉はいつ詠んでいるのかしら。
句郎 元禄5年3月3日に詠んだと言われている。この句には次のような前詞が付いている。「富花月、草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」と。
華女 桃と桜は比喩なのね。桜が門人高弟の其角、桃が門人の嵐雪ということね。
句郎 『おくのほそ道』の旅を終え、近江近辺での滞在を止め、江戸に帰ってきた。江戸の門人たちの協力を得て、第三次芭蕉庵が江戸深川に出来上がった。その真新しい芭蕉庵で芭蕉は其角、嵐雪を招き、歌仙を巻いた。その歌仙の発句が「両の手に桃と桜や草の餅」だったようだ。
華女 芭蕉は孤高の詩人というイメージがあるように思うけれども、門人を労い、一緒に人生を楽しむ一面をもった人だったように思うわ。
句郎 清水哲男氏はこの句を評して次のようなことを書いている。「季語は「桃(の花)」と「さくら(桜)」と「草(の)餅」とで、春。彩り豊かな楽しい句だ。この句は芭蕉が『おくのほそ道』の旅で江戸を後にしてから、二年七ヶ月ぶりに関西から江戸に戻り、日本橋橘町の借家で暮らしていたときのものと思われる。元禄五年(1692年)。この家には、桃の木と桜の木があった。折しも花開いた桃と桜を眺めながら、芭蕉は「草の餅」を食べている。「両の手に」は「両側に」の意でもあるが、また本当に両手に桃と桜を持っているかのようでもあり、なんともゴージャスな気分だよと、センセイはご機嫌だ。句のみからの解釈ではこうなるけれど、この句には「富花月。草庵に桃櫻あり。門人にキ角嵐雪あり」という前書がある。「富花月」は「かげつにとむ」と読み、風流に満ち足りているということだ。「キ角嵐雪」は、古くからの弟子である宝井基角と服部嵐雪を指していて、つまり掲句はこの二人の門人を誉れと持ち上げ、称揚しているわけだ。当の二人にとってはなんともこそばゆいような一句であったろうが、ここからうかがえるのは、孤独の人というイメージとはまた別の芭蕉の顔だろう。最近出た『佐藤和夫俳論集』(角川書店)には、「『この道や行人なしに秋の暮』と詠んだように芭蕉はつねに孤独であったが、大勢の弟子をたばねる能力は抜群のものがあり、このような発句を詠んだと考えられる」とある。このことは現代の結社の主催者たちにも言えるわけで、ただ俳句が上手いだけでは主宰は勤まらない。高浜虚子などにも「たばねる能力」に非凡なものがあったが、さて、現役主宰のなかで掲句における芭蕉のような顔を持つ人は何処のどなたであろうか。」
華女 芭蕉は孤高の詩人であると同時に浮世に生きる生活力と同時に企業経営者のような人を束ねる能力を兼ね備えた人だったということなのね。
句郎 芭蕉には寿貞という女性がいたと言われているしね。だから芭蕉は女の人も好きだったから女遊びもしたし、食べることも好き、世俗の世界を楽しむ一方、孤高の詩的世界に生きる人でもあった。
華女 清廉潔白、禁欲的な生活からは浮世に生きる人間の喜びや悲しみのようなものを詠むことはできないのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は孤高の詩人であると同時に浮世を楽しみ生きる俗人でもあった。
華女 春日向、戸を開け、桃の花と桜を愛で、草餅を頬張っているのよね。ニコニコ顔の芭蕉が偲ばれるわ。
句郎 イタリアルネサンスの巨人たちは、清廉潔白な孤高の芸術家ではなかった。人間の食欲や性欲を肯定し、この世に生きる楽しみを求める人であった。享楽のドンちゃん騒ぎの中から偉大な芸術作品が生れてきた。
華女 芭蕉もまたそのような人だったのかもしれないわね。「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」という芭蕉の句は寿貞が亡くなった時に詠まれた句だと云われているのでしょ。芭蕉の女性に対する視線は優しさに満ちているように感じるわ。
句郎 芭蕉は女性にモテる男だったかもしれないな。若い男にも、友人の多い人だったように思う。だからこそ、芭蕉の句は芭蕉が亡くなっても師芭蕉の句を評価し、世に広めていった。
華女 芭蕉は生前当時の俳人たちから認められ、多くの門人に囲まれて生涯をおくった人だったのね。
句郎 亡くなった後に評価された俳人ではなかった。
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