クリニックで女性週刊誌を見ていたら、こんな感じの記事があったので、帰ってから似たような記事を検索してみました。
興味がある方は、探して読んでみてください。
以下、記事より私が考えさせられた言葉を紹介します。
赤は私の言葉。
ぼくが今の社会で息苦しく感じるのは、 過剰なまでに正義を求める人たちの存在だ。
正直にいおう、悪はごく少数だし、最初から悪だとわかっているので、かんたんに避けられる。実際にはさして怖くない。
うんうん、そう思う。
それほどのもん?って私は思ってる。
>かんたんに避けられる。実際にはさして怖くない。
↑
私個人は、こういう誇大にしない、ありのままの言葉が大好きですね(笑)
怖いのはいつの時代も正義で、とくになんらかの刺激でプライドを傷つけられた正しさだ。
自分が正義のサイドにあると信じる人たちの、執拗さと復讐ほど恐ろしいものはない。
恐ろしいというより、めんどくさいというか。
個人の性格によっては、確かに大袈裟と思います。
デリカシーがないと言われるので(ないけど)、毎度言いにくんですが。
考えてみると、次男が窃盗で起訴猶予になった司会者とか、暴力団関係者とのつきあいにより引退したコメディアンとか、夫がいない留守に別な男を自宅に連れこんだ女性タレントとか、「傷つけられた正義」によって裁かれた人たちが無数にいる。マスコミは集団リンチのように仕事を辞めるまでつつきまわす。
はじめは興味があった論争も、内輪ノリが強まって、なんだかどっちもどっちだな、と思って離れてしまう……。
うんうん…
正しさや正義感は陶酔をもたらし、一体感を生む。
この一体感こそが曲者です。
ほんとうはみんな個人で思っていることが違うのに、集団の論理や言葉が優先されていく。
これを僕は『正義という病』と呼んでいます。
いまの社会のいろんなところに転がっているじゃないですか。
>ほんとうはみんな個人で思っていることが違うのに
これはすごく思います。
本気で信じている『正しい歴史』があるのでしょう。
本気でやっているから、まったくぶれない。
正しさを主張する集団に、自分のアイデンティティーを重ねて、自己肯定感を得る。
一体感の快楽に酔いしれるために暴力をふるうのです。
「正しさ」を求心力につながる一体感。
そこから生まれるのは高揚と自分たちは絶対に間違っていない、という感覚だ。
自分たちは本当に正しいのか。
少しでも疑問を挟むと、一体感はなくなる。
ならば、間違っていないと信じたほうがいい。
そうそう、嘘は言ってないし、本当の気持ちなんですよね。
でもそれは「自分たち」とか一体感は抜きで、一人で言った方がいい気がする。
この「一体感」っていうのが、経験上厄介と思う。
人を傷つけるものを、なんとか止めたい。あるいは、差別に傷ついた人同士が、苦しみを共有し、立ち向かう。
その姿に共感するのは当然でしょう。
けれど、批判する相手の間違いが明白なあまり、自分たちの行動に一切の誤りはないと信じ込み始めたら……
そこで、すでに正義の落とし穴にはまっている。
一体感が優先されていって、自分たちを批判する者はすべて許せなくなる。
差別批判以外についてもあたかも声が一つであるかのようになる。
本当はそれぞれの考えがあるはずだろうに。
そう。ロクでもないと思ってるくらいでちょうどいい。
実際、許せないなんてロクでもないですよ。
一切の誤りはないなんて、よほど危険と思います…
「自分たちの正しさを認めさせようとすると、100か0かしか選択肢がなくなる。
正しさを証明することが自己目的化していく。
例えば9割の達成でも、0になる。でも、本当にそれがいいんですか?
100と0の間に、切り捨てられる1から99がある。
それがあたかも、はじめから選択肢にすらないかのようになる。
より先鋭化すると、100もしくは0以外は敵だという選別が働く。
一度掲げた「正しい言葉」に自分たちも気づかないうちにがんじがらめになっていく。
正しさに規定されなければ、もっと自由に考えられるはずで、選択肢はたくさんあるってことなんです。
がんじがらめになると、なにかを話しているのに、個人の言葉じゃないように聞こえてくる。
運動の言葉、集団の言葉が優先されて、その人が本当に自分の言葉で語っているようには聞こえてこなくなるんです。
がんじがらめって本当に息苦しい。
私はこんなに上手には書けないけど、「がんじがらめ」と「個人の言葉に聞こえない」という違和感には、常に敏感でいたいなあと思いました。
興味がある方は、探して読んでみてください。
以下、記事より私が考えさせられた言葉を紹介します。
赤は私の言葉。
ぼくが今の社会で息苦しく感じるのは、 過剰なまでに正義を求める人たちの存在だ。
正直にいおう、悪はごく少数だし、最初から悪だとわかっているので、かんたんに避けられる。実際にはさして怖くない。
うんうん、そう思う。
それほどのもん?って私は思ってる。
>かんたんに避けられる。実際にはさして怖くない。
↑
私個人は、こういう誇大にしない、ありのままの言葉が大好きですね(笑)
怖いのはいつの時代も正義で、とくになんらかの刺激でプライドを傷つけられた正しさだ。
自分が正義のサイドにあると信じる人たちの、執拗さと復讐ほど恐ろしいものはない。
恐ろしいというより、めんどくさいというか。
個人の性格によっては、確かに大袈裟と思います。
デリカシーがないと言われるので(ないけど)、毎度言いにくんですが。
考えてみると、次男が窃盗で起訴猶予になった司会者とか、暴力団関係者とのつきあいにより引退したコメディアンとか、夫がいない留守に別な男を自宅に連れこんだ女性タレントとか、「傷つけられた正義」によって裁かれた人たちが無数にいる。マスコミは集団リンチのように仕事を辞めるまでつつきまわす。
はじめは興味があった論争も、内輪ノリが強まって、なんだかどっちもどっちだな、と思って離れてしまう……。
うんうん…
正しさや正義感は陶酔をもたらし、一体感を生む。
この一体感こそが曲者です。
ほんとうはみんな個人で思っていることが違うのに、集団の論理や言葉が優先されていく。
これを僕は『正義という病』と呼んでいます。
いまの社会のいろんなところに転がっているじゃないですか。
>ほんとうはみんな個人で思っていることが違うのに
これはすごく思います。
本気で信じている『正しい歴史』があるのでしょう。
本気でやっているから、まったくぶれない。
正しさを主張する集団に、自分のアイデンティティーを重ねて、自己肯定感を得る。
一体感の快楽に酔いしれるために暴力をふるうのです。
「正しさ」を求心力につながる一体感。
そこから生まれるのは高揚と自分たちは絶対に間違っていない、という感覚だ。
自分たちは本当に正しいのか。
少しでも疑問を挟むと、一体感はなくなる。
ならば、間違っていないと信じたほうがいい。
そうそう、嘘は言ってないし、本当の気持ちなんですよね。
でもそれは「自分たち」とか一体感は抜きで、一人で言った方がいい気がする。
この「一体感」っていうのが、経験上厄介と思う。
人を傷つけるものを、なんとか止めたい。あるいは、差別に傷ついた人同士が、苦しみを共有し、立ち向かう。
その姿に共感するのは当然でしょう。
けれど、批判する相手の間違いが明白なあまり、自分たちの行動に一切の誤りはないと信じ込み始めたら……
そこで、すでに正義の落とし穴にはまっている。
一体感が優先されていって、自分たちを批判する者はすべて許せなくなる。
差別批判以外についてもあたかも声が一つであるかのようになる。
本当はそれぞれの考えがあるはずだろうに。
そう。ロクでもないと思ってるくらいでちょうどいい。
実際、許せないなんてロクでもないですよ。
一切の誤りはないなんて、よほど危険と思います…
「自分たちの正しさを認めさせようとすると、100か0かしか選択肢がなくなる。
正しさを証明することが自己目的化していく。
例えば9割の達成でも、0になる。でも、本当にそれがいいんですか?
100と0の間に、切り捨てられる1から99がある。
それがあたかも、はじめから選択肢にすらないかのようになる。
より先鋭化すると、100もしくは0以外は敵だという選別が働く。
一度掲げた「正しい言葉」に自分たちも気づかないうちにがんじがらめになっていく。
正しさに規定されなければ、もっと自由に考えられるはずで、選択肢はたくさんあるってことなんです。
がんじがらめになると、なにかを話しているのに、個人の言葉じゃないように聞こえてくる。
運動の言葉、集団の言葉が優先されて、その人が本当に自分の言葉で語っているようには聞こえてこなくなるんです。
がんじがらめって本当に息苦しい。
私はこんなに上手には書けないけど、「がんじがらめ」と「個人の言葉に聞こえない」という違和感には、常に敏感でいたいなあと思いました。