信じれば「何だって」信者には心の支えになるということは、私は何度も書いている。
伝統ある仏教やキリスト教なら救いにもなるけど、そこらのすっとぼけた新興宗教にそれは無理。
なんてことはない。
絶対にない。
信者にとっては(何かを強く信じる者には)「何であれ」救いになる。
某巨大Sアンチブログの管理人さんは、
「Sは宗教ではなく、ただの詐欺組織とそれに騙されている可哀想な人たち」
と言って譲らない。
が、もちろんそれは、単なる個人の自論である。
(それが事実なら警察はとっくに動いている( ;∀;))
ただこの管理人さんの場合は、その独特の主張を
シャレの範疇を超えて、それこそ、さながら宗教を信じる如くに強信している。
例え、傍から見れば理解できなくても、当人にはそう思い、それを発信することが救いになっている。
まるで生き甲斐のように。
「インチキ宗教など信じたところで幸せになった人など一人もいない」と豪語する、同じような人がいたら問いたい。
「自分の信じられない教えは詐欺」という、その宗教でもない独特の思想でさえ、強く信じれば、当人には満足をを与えているのではないのか?
伝統があるとか、正式とか、インチキとか、宗教に見えるとか見えないとか、世間がどう見てるなんて関係ないのでは?
他人からどう見えるではなくて、信じる者にとっては、それはかけがえのないもの。
あなたの「信じるもの」のように。
伝統ある仏教やキリスト教なら救いにもなるけど、そこらのすっとぼけた新興宗教にそれは無理。
なんてことはない。
絶対にない。
信者にとっては(何かを強く信じる者には)「何であれ」救いになる。
某巨大Sアンチブログの管理人さんは、
「Sは宗教ではなく、ただの詐欺組織とそれに騙されている可哀想な人たち」
と言って譲らない。
が、もちろんそれは、単なる個人の自論である。
(それが事実なら警察はとっくに動いている( ;∀;))
ただこの管理人さんの場合は、その独特の主張を
シャレの範疇を超えて、それこそ、さながら宗教を信じる如くに強信している。
例え、傍から見れば理解できなくても、当人にはそう思い、それを発信することが救いになっている。
まるで生き甲斐のように。
「インチキ宗教など信じたところで幸せになった人など一人もいない」と豪語する、同じような人がいたら問いたい。
「自分の信じられない教えは詐欺」という、その宗教でもない独特の思想でさえ、強く信じれば、当人には満足をを与えているのではないのか?
伝統があるとか、正式とか、インチキとか、宗教に見えるとか見えないとか、世間がどう見てるなんて関係ないのでは?
他人からどう見えるではなくて、信じる者にとっては、それはかけがえのないもの。
あなたの「信じるもの」のように。