珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

信じること4

2018-11-26 | S教団関係
信じれば「何だって」信者には心の支えになるということは、私は何度も書いている。
伝統ある仏教やキリスト教なら救いにもなるけど、そこらのすっとぼけた新興宗教にそれは無理。
なんてことはない。

絶対にない。

信者にとっては(何かを強く信じる者には)「何であれ」救いになる。

某巨大Sアンチブログの管理人さんは、
「Sは宗教ではなく、ただの詐欺組織とそれに騙されている可哀想な人たち」
と言って譲らない。
が、もちろんそれは、単なる個人の自論である。
(それが事実なら警察はとっくに動いている( ;∀;)
ただこの管理人さんの場合は、その独特の主張を
シャレの範疇を超えて、それこそ、さながら宗教を信じる如くに強信している。

例え、傍から見れば理解できなくても、当人にはそう思い、それを発信することが救いになっている。
まるで生き甲斐のように。

「インチキ宗教など信じたところで幸せになった人など一人もいない」と豪語する、同じような人がいたら問いたい。
「自分の信じられない教えは詐欺」という、その宗教でもない独特の思想でさえ、強く信じれば、当人には満足をを与えているのではないのか?

伝統があるとか、正式とか、インチキとか、宗教に見えるとか見えないとか、世間がどう見てるなんて関係ないのでは?

他人からどう見えるではなくて、信じる者にとっては、それはかけがえのないもの。
あなたの「信じるもの」のように。
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詐欺のハガキ

2018-11-26 | 日記
実家に届いたという私宛ての郵便物が送られてきたと思ったら、なんとまあ詐欺のハガキであった。

私の旧姓の宛名で、法務省管轄支局と名乗るところから「契約不履行の訴訟で、連絡に応じなければ強制的に不動産差し押さえを執行致す」と書いてあった。

ため息が出た。
私は実家には高校までしかおらず、住民票もすぐ移しているので、私宛てに郵便が送られてくるなんてまずあり得ない。
母もそんなことはわかっている。
私が契約不履行で裁判所から呼ばれるような人間か否かも、よく知っている。
全くボケていないし、詐欺も騙しの知識も観念も、一般常識くらいはあるはずである。

それなのに、こんな何十年も前から存在もしない宛名の、架空のハガキ一枚を見るとパニックになって、丁寧に送ってよこすようなことをする。

そして本人は忘れていると思うが、これは二回目。
10年ほど前も電話で同じことを言われた。
「旧姓宛なのが不思議だったけど、『裁判所』とか『差し抑え』とか『強制執行』という言葉を見ただけで、縮み上がって頭が真っ白になったわ」と。

なぜこうなるのか、私にはわからない。
が、母親の場合、わるいことや不吉なことほど信じる傾向があるので、迂闊に何も話せない。
ちょっとでも家庭の愚痴を言えば、夫婦仲も、夫仕事も、子どもの発育も、あることないこと勘ぐっては深刻に悩みだすのでネガティブなことは、私はいまず言わないようにしている。

そうするとこんなハガキ一枚見つけて、わざわざ送りつけたりするのである。

私はネガティブな話を聞くと、ろこつにウンザリしてしまう性分である上に、こういうことになかなか寛容にもなれない。

以前、身に覚えもない過去世の宿業だの、業が深い人は祈っても祈っても願いが叶わないといったネガティブな言葉を言いたがる人を前に、私はそれが苦痛でしょうがなかった。
こんな話を得意げにする人って、いったい何が楽しいんだろうと?
逆に母親などは、そんな話こそしみじみと響いたようで、大きく頷いていたのが不思議だったが。

世の中にはネガティブで心配性で、好きでそうしてる(ように見える)人と、それが嫌いな人がいることをよくよく知るべしと思う次第である。
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