珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

信じること3

2018-11-12 | ちゃんねる攻防
私はよく、5chから身に覚えのない「これは海が書いている」ということを言われる。
それは5chなんてものを知らなかった時から、浴びるほど書かれていたことである。(後に知った(笑))

 今日も海の内容は特徴があるからわかるというので、
「へえ?それってどれ?どのコメントを私が書いたの?」
と訊いたところ返事はなかった。
自信満々に言うわりに、質問するといつも返事はこない。
いつちゃんと返事をくれるようになるのか?好奇心が続くまでウォッチングしようかと思っている。

ところで私が面白いと思ったことは、「これは海が書いた」と言う人たちは、
それが間違いでも、事実無根でも、思い込みでも
そう思うことによって満足し、納得していることである。

そして仮に、「私が本当に書いていたとしても」結果は同じである。
 
この意味がわかるだろうか。

S教団で会員がバイブルとしていた書物やメッセージは、尊敬する先生が書いていたのであれ、ゴーストライターが書いていたのであれ「先生が書いた」と信じさせれば会員は喜んだ。
実際には誰が書いていてもいい。
信じれば同じことである。

教えや本尊なんて、デタラメでもインチキでも創作でもいい。
傍から見ると「デタラメを真に受けておめでたい」と見えるけど、デタラメをバカにしてはいけない。
信者にとっては何を渡されても、それが「真実」で「正しく」見えるからである。
信じることを前にしたら、正しいもハチャメチャも効果は同じではないか。

二度とデタラメなんて信用しない、騙されない自信があるchの人。
海が書いていようと書いてなかろうと、海だと思えば感じるものは全く同じ。

 ならば「こう信じたい」と思う信者に対して、正しいとデタラメの存在意味なんてあるのだろうか?と私は思うよ。
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