今日は本棚(といっても扉のあるキャビネット)にギュウギュウに詰め込んでいた、何十冊もの本や雑誌を思い切って9割方処分した。
どれも一時期は何度も何度もページをめくったものばかりだけど、もう何年も読んでないものが殆ど。
どうでもいいけど、昔「anan」に連載されていたキョンキョンの「パンダのアンアン」という本が出てきた( ̄∇ ̄)
(知ってる方おられるだろうか?)
空いたスペースに何を入れて、それが入っていたところはじゃあこうして…と、こういうことを考えていると脳内に、何というのか知らないけど、間違いなく幸せなホルモンのようなものが湧現してくる。
それから「香峯子抄」と「折伏経典」があった。
こんな本もアンチ記事を買いていた時、ネタ用に残していたんだっけ。
あ、でも「香峯子抄」は、私はいい奥さんだなあと随所に(例えばお米を一粒も無駄にしなかったとか、子供を毎朝、見えなくなるまで見送ったとか)感心したので悪口は言わなかったよ。
でもそんなこんなも、もうどうでもよくなってしまった。
だって昔「Sのお陰で生きているだけで幸せ」と連呼していた人たちが、やめたら「やめたお陰で踊りだしたくなるくらい幸せ」と譲らないんだもんね。
つまり幸せの正体は、自分が断固こうだと思う強い確信だった、中味じゃなくて。
どんなおかしなことを信じる信者も、どんな果てしないボヤキを言うアンチも、自分の主張に揺るぎない確信があるなら、それが幸せなんだろうなあ。
私は今、そこまで自分の支柱となるくらいの強い確信は、特にナシ( ̄∇ ̄)
家の片付けの答えの無さに迷いながら、でも「確信」のそれとは種類の違う幸せ、なら感じている気がする。