事の発端は観光目当てで福井・石川県境近辺へ遊びに行きたいと思い、様々な名所を調べるべく「吉崎御坊」をググった時に「浄土真宗親鸞会」がHITしたのである。
へ~w まだ続いてたんだぁ、よかったね。
などと思い、今度は「浄土真宗親鸞会」を直接ググったときにそのカルトとして成長した姿と被害者の家族の悲痛な声などがHITしたのである。
http://homepage2.nifty.com/nonsect/
そして、設立が2000年、私が卒業してからそれなりの年月を経てから設立されたらしい。
私が学生時分は入学前の手続きに来るところを狙って正体を隠すなどちょぼっと腹立たしいところはあったものの、案外簡単に抜け出ることが出来、さほど騒ぐような相手にも思えなかった。
が、年月を経て彼らも進化してより巧妙かつ悪質な団体と化したようだ。
また、完全にカルトとして牙をむく親鸞会に果敢に戦う元会員の存在も知ることになる。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/
そこでちょぼっと考え込んでしまったのである。
もし、あの頃にその予兆を見分けることが出来たなら、果たして何をすべきだったのだろうかと・・・
あの頃は私もまだ若かった。物事を見分ける分別など皆無であったと言ってもいい。
だが、映画「ヒトラー最後の12日間」で最後にトラウデル・ユンゲ女史が「若かったと言うことは言い訳にはならない」と述べていたようにカルトに関心を払うべきだったのではないだろうかと・・・
あのときの自分たちの学年からダミーサークルの部員をほぼ壊滅させたところで終わりだと思って以降この問題に無関心であったことと、被害者家族の悲痛な叫びをネット上で見ると若き日の自分の愚かさというものをなんと言えばいいのだろうか・・・
もちろん本人の確固たる意思で戸口を叩き入信し、他人に信仰やお布施の強要をすることなく、本人が満足できるのであるなら個人の内面の問題に嘴を差し挟むつもりは無い。
しかーし!!
正体を隠し、右も左も分からぬ新入生に強引な勧誘を行い入信させて、やがて教えに染まった被害者が今度は加害者になるという負の連鎖によって多くの人が苦しめられる以上は、カルトは「本人の問題」「信教の自由があるから」などと放置できる問題ではないのである。
へ~w まだ続いてたんだぁ、よかったね。
などと思い、今度は「浄土真宗親鸞会」を直接ググったときにそのカルトとして成長した姿と被害者の家族の悲痛な声などがHITしたのである。
http://homepage2.nifty.com/nonsect/
そして、設立が2000年、私が卒業してからそれなりの年月を経てから設立されたらしい。
私が学生時分は入学前の手続きに来るところを狙って正体を隠すなどちょぼっと腹立たしいところはあったものの、案外簡単に抜け出ることが出来、さほど騒ぐような相手にも思えなかった。
が、年月を経て彼らも進化してより巧妙かつ悪質な団体と化したようだ。
また、完全にカルトとして牙をむく親鸞会に果敢に戦う元会員の存在も知ることになる。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/
そこでちょぼっと考え込んでしまったのである。
もし、あの頃にその予兆を見分けることが出来たなら、果たして何をすべきだったのだろうかと・・・
あの頃は私もまだ若かった。物事を見分ける分別など皆無であったと言ってもいい。
だが、映画「ヒトラー最後の12日間」で最後にトラウデル・ユンゲ女史が「若かったと言うことは言い訳にはならない」と述べていたようにカルトに関心を払うべきだったのではないだろうかと・・・
あのときの自分たちの学年からダミーサークルの部員をほぼ壊滅させたところで終わりだと思って以降この問題に無関心であったことと、被害者家族の悲痛な叫びをネット上で見ると若き日の自分の愚かさというものをなんと言えばいいのだろうか・・・
もちろん本人の確固たる意思で戸口を叩き入信し、他人に信仰やお布施の強要をすることなく、本人が満足できるのであるなら個人の内面の問題に嘴を差し挟むつもりは無い。
しかーし!!
正体を隠し、右も左も分からぬ新入生に強引な勧誘を行い入信させて、やがて教えに染まった被害者が今度は加害者になるという負の連鎖によって多くの人が苦しめられる以上は、カルトは「本人の問題」「信教の自由があるから」などと放置できる問題ではないのである。