鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

とんでもない出土品

2023-01-27 21:10:30 | 古代史逍遥
奈良県奈良市の日本最大と言われる円墳(直径109m)「富雄丸山古墳」のわずかに付属している造り出しの部分から未だかってない出土品が現れた。

ひとつは「盾形銅鏡」であり、もう一つは「蛇行剣」である。

後者の蛇行剣はこれまでも日本各地で見つかっているが、今度の発掘品は長さがなんと2.3mもあるという代物であった。日本で見つかった最も長い物が83㎝というのだから、実に約3倍の長さである。


発掘調査をした橿原考古学研究所の所員もびっくりしたという。

しかしもっと驚くのは「盾形銅鏡」の方だ。


銅鏡と言えば円形なのが普通であり、これまで発掘された何万という数の銅鏡でその例外はない。

ところが、ところがである。角張っているのだ。それで「盾形銅鏡」。

長さは64㎝、幅は31㎝で、半分に割れば円形の銅鏡が2枚作れそうな大きさである。

専門家はこれらは国産で、共に「僻邪」(魔除け)のために埋納されたという。

さらに専門家は前方後円墳ではないことから、被葬者は大和王権の王族クラスではなく「秘書官クラス」だろうという。要するに大王の腹心の部下が被葬者ではないかという。

具体的には誰かという指摘はなかったが、この円墳のある富雄は、富雄川の流域にあることから推理すると、平群氏の一族だろうと思われる。

4世紀の後半という築造年代だとすれば、平群氏の始祖の可能性が考えられる。

平群氏は武内宿祢の後裔とされており、そうであるならば武人の系譜であり、武人であるならば鏡が「盾形」だったり、考えられもしない長大な蛇行剣を作っていてもおかしくはない。

私見では平群氏の始祖と言われる「平群木菟宿祢(へぐりのづくのすくね)」の墳墓ではないかと思う。

平群木菟宿祢は応神天皇の16年に新羅に行ったまま帰らない葛城襲津彦を迎えがてら、新羅を攻撃し、襲津彦とともに弓月君たちを連れて帰ったという。勲功極めて大きなものがあった人物である。

私見では平群氏の墳墓だが、奈良の考古学者や歴史家の意見はどうだろうか?

これまでの常識を覆す前例のない副葬品なので、どんな見解が示されるか固唾を吞んで待ちたいと思う。

出雲の神宝は金印か(古代史逍遥ー4)

2023-01-10 10:49:21 | 古代史逍遥
【大倭と厳奴と邪馬台国】

第10代崇神天皇は北部九州の糸島を本拠地とする五十(イソ)国王であった。

その来歴については、朝鮮半島南部の三韓のうち辰韓に最初の王権を築き、公孫氏を滅ぼした魏の司馬懿将軍が次には半島攻略を狙って来るのを避け、ついに王宮を糸島に移したので和風諡号「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」と表現された。

また息子の第11代天皇垂仁の和風諡号は「イクメイリヒコ・イソ(五十)サチ(狭茅)」であり、これは垂仁天皇が糸島という狭い地域の中で生まれ育ったことが表現され、さらに青年時代にイクメ(生目・活目)として邪馬台国の一等官として赴任したことがあることも表現している。

糸島の五十王国は崇神と垂仁の2代で北部九州の倭人国家群を糾合し「大倭」に成長したと考えられ、その大倭は魏志倭人伝の記す「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ」とあるように、邪馬台国国家群内の市場取引を監督していた。

邪馬台国は、当時、言わば「大倭」の監視下にある保護国のような立場にあったわけで、その監督者の官名こそが一等官であった「伊支馬(イキマ=イキメ=生目)」だったと考えられる。

では邪馬台国が大倭から監督されるというような危機的状況に陥った原因は何だったろうか?

私見の邪馬台国は筑後の八女だが、北部九州の筑前と福岡県南部の筑後の間には佐賀県小城市から朝倉市にいたる広大な平野部があり、もともとそこを支配領域としていた「厳奴(イツナ)」こと「伊都(イツ)国」勢力が威力を振るっていた。「厳(イツ)」とは武力に秀でていることを示し、大国主が別名「八千矛(やちほこ)神」と呼ばれ、干戈によって国々を治めていたことの表現に他ならない。

しかしこの厳奴(イツナ)と北部九州の海岸部から南へ勢力を伸ばして来た五十王国(大倭)とは、早晩、干戈を交える運命にあった。そして実際に戦闘になった。

これが後漢書も記す「倭国の大乱」で、ついに大倭が勝利し、厳奴の主たちは出雲に流され、一部の者たちだけが佐賀平野の西の山間部、現在の厳木(きうらぎ)盆地に留まることを許された。これが倭人伝に記載の「伊都(イツ)国」である。

この厳奴の残存勢力が伊都(イツ)国として存続を許されたのは、おそらく大陸の漢王朝時代に彼我の交流を通じて漢籍や外交に明るかったからだと思われる。だが、厳奴の大首長である大国主は現在の出雲に流されたと見る(イツナ→イヅマ→イヅモ)。先年、出雲地方で発掘された銅鐸の鋳型が佐賀平野東部の三津永田遺跡から見つかっているのは一つの考古学的証拠である。

(※八女の邪馬台国は、厳奴と大倭との間の戦乱に直接巻き込まれることなく無事であったが、北部九州の大倭によって保護国化され、監督(総督)の置かれている間は良かったが、「大倭」こと崇神・垂仁の五十王国が大和へ東征してしまうとたちまち南の狗奴国の侵攻を許すことになった。

その結果、2代目女王トヨの時に八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されてしまう。トヨは辛くも九州山地を越えて落ち延び、宇佐地方に至り小国を安堵された。宇佐神宮に祭られる正体不明の「比女之神」こそがトヨであり、このトヨに因んで現在の大分県域が「豊の国」と呼称されたと考えている。)

【出雲と崇神・垂仁王権】

北部九州から出雲に流された厳奴の首長は八千矛神ことオオクニヌシであった。この神は出雲大社に祭られているが、出雲大社の本殿の向きが西なのは、元の本拠地である北部九州を忘れてはならぬという決意の反映だろう。

出雲大社の宮司は千家氏(中世の一時期から北島氏も神職を得ていた)だが、現在の宮司は千家尊祐氏で84代続いており、2世紀後半の倭国大乱の結果厳奴が出雲に流されて祭祀が始まったとすると現在まで84代約1800年の系譜ということになり、1代が22年ほどとなり、代数と年数に整合性が得られよう。

千家氏の始祖は天照大神の五男子の二番目「アメノホヒ」であるのは、北部九州の厳奴と大倭との戦いこそが「国譲り」だったことを端的に示している。高天原系の天つ神が、敗れた側の国つ神である大国主を祭り、二度と干戈を交えないようにするための方途として第一級のやり方である。

さてこの出雲には神宝(シンポウ=かむたから)があるという。

日本書紀によると、崇神天皇の60年7月に崇神天皇は次のように臣下に告げた。

<武日照命(タケヒナテルノミコト)が天から持参した神宝は出雲大社にあるというが、ぜひ見たいものだ。>

そこで矢田部氏の遠祖である武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。

しかし、この時に神宝を管理していた出雲振根は筑紫国(九州)に出かけていて留守だった。ところが振根の弟の飯入根(イヒイリネ)は兄に相談もなく神宝を崇神王権に上納してしまった。

筑紫から帰って来た兄の振根は怒り心頭で、ついに弟を殺害した。

その事情を下の弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子のウカヅクヌは崇神王権に訴えたところ、王権側から吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)が派遣され、振根は殺されてしまう。

崇神王権はついに出雲を徹底的に叩く政策に出たようである。

厳奴(イツナ)は北部九州において宿敵として戦った相手だが、首長の大国主は生存を許されて葦原中国を天孫に譲り、自分は「百足らず八十隈手に隠れて侍らわん」と出雲の地を隠居の地として鎮まったわけだが、その出雲には「神宝」があるとして、それを差し出させることが最終の目的だったかのようである。

【出雲の神宝とは】

その神宝が崇神王権側に奪われ、当時の首長で神宝を管理していた出雲フルネが殺害されたことで、出雲では神祭が行われなくなってしまった。その時に丹波の氷上の人が「子どもが神がかって不思議な歌を唄いました」と朝廷に奏上したのだが、其の歌とは、

<玉藻の鎮め石 出雲の人祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主。 山河の水泳(くく)る御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主。> 

意訳してみると、「水の中で藻が付着した石を出雲人が祭っている。本当の立派な鏡を押しのけてしまうような素晴らしい神。これこそが水底にある宝の中の宝だ。山川の水によって洗われている御魂が静かに居付いているような素晴らしい神。これこそが宝の中の宝だ。」となる。

前半の「宝の中の宝」までと後半の「宝の中の宝だ」までの二つの文は、同じ「宝の中の宝」を少し表現を変えて形容しているのだが、共通しているのは「宝の中の宝」が水中にあるということである。

また、その宝の貴重なことは、前半の文中の「本当の立派な鏡」を押しのけてしまう、つまり鏡よりも数段上の宝というほどだというのだ。

当時の貴重品は何と言っても祭祀の必須アイテムである「鏡・玉・剣」だろう。この中でも「鏡」こそは天孫降臨の際に天照大神が孫のニニギノミコトに「鏡を私の形代にしなさい」と言ったのであるから、最高の御神だったはずである。

しかしながら、それを上回る貴重な宝だというのである。

その宝を求めて崇神天皇は武諸隅を出雲に派遣し、その結果、神宝の管理者出雲フルネが筑紫(九州)に出かけていた留守の間に上納させることに成功したようだが、宝がどんなものであるかは不明であった。

ところが時代の垂仁天皇になったその26年8月、垂仁天皇は突然、物部十千根(モノノベトヲチネ)の大連に対して次のように言い出したのだ。

<「たびたび出雲に使いを遣って出雲の神宝を調べさせるのだが、どうもはっきりしない。お前が出雲に行って調べて来なさい。」

そこで物部トヲチネが出雲に出張し、調べて「これこそが出雲の神宝だ」と断定し、そう復命した。物部トヲチネはその神宝を管理することになった。>

これで出雲の神宝探しは一件落着したというわけだが、この時もまた出雲の神宝が鏡なのか玉なのか剣なのか、明確に記されていないのである。

出雲ではオオクニヌシが主祭神だが、オオクニヌシは高天原から出雲に天下ったスサノヲノミコトの6世の子孫であり、ならばスサノヲがヤマタノオロチから得た「草薙剣」こそが出雲で祭るべき至高の神宝のはずである。

それならそうと記されて何の不思議もないだろう。

ところがそのような記載はないのである。

【「漢倭奴国王」の金印こそが出雲の神宝か・・・】

父の崇神天皇は出雲の神宝を求めたが、得られず、子の垂仁天皇の時に改めて出雲の神宝を求めたが、これもどうやらはっきりしない。

そこで神宝探索の最初に戻ってみよう。

崇神天皇の派遣した武諸隅の時、神宝を管理していた出雲フルネは筑紫(九州)に行って留守だった――というのだが、朝廷から使者が派遣されるにあたっては突然やってくるのではなく、あらかじめ何らかの予約があってしかるべきだろう。

その予約がありながら、神宝を管理している肝心の出雲フルネが筑紫に行ってしまって留守をしていたということも通常なら有り得ない行動である。

私はそこに出雲の策略を見るのだ。つまりフルネは神宝が危ういとみて神宝を筑紫に持ち出し、そこに隠したと考えるのである。

九州北部には元来の土着倭人がおり、それを支配していたのがオオナムチことオオクニヌシの厳奴(イツナ)であった。その一国である博多奴(ナ)国は西暦57年に漢王朝に朝貢した。その結果得られたのが「漢倭(委)奴国王」の金印であった。

この金印は漢王朝の藩屏であることを物語るしるしだが、倭国として初めての「大国のお墨付き」であり、当時の倭人の国々のどこも持ち得ない最高の勲章なのであった。博多奴国を傘下におさめるのちの出雲こと厳奴(イツナ)にとっても同様であった。

ところがその後、約100年にして、糸島を本拠地とする五十(イソ)王国の崇神王権が次々に北部九州の倭国を傘下に「大倭」を形成すると、大国主の厳奴(イツナ)と「大倭」の両雄は戦端を開いた。

これが「倭国大乱」であり、後漢書に依れば「桓霊の間」すなわち後漢の「桓帝」と「霊帝」の統治期間(148年~187年)に起きた筑紫最大の戦乱であった。大国主の厳奴(イツナ)は敗れ、出雲に流されたことは上で述べたとおりである。

この時、厳奴(イツナ)は「漢倭奴国王」の金印を大倭に差し出さず、「神宝」として出雲に持参し、深く隠匿したのだろう。

それが崇神王権が大和に開かれ、しばらく経つと「あの漢王朝から貰ったという金印はどうなったのか」と過去を振り返るようになり、それは出雲にあるという疑いに発展し、ついに「神宝を探し出せ」という崇神の要求になったに違いない。

その一報を聞いた出雲フルネは金印を持って筑紫に下り、ゆかりの地である博多沿岸の志賀島の海岸の浅瀬に石の板囲いを設え、その中に金印を隠したのだろうと考えるのである。

まさに「水泳(かか)る」場所であり、もしかしたら出雲から元の本拠地である筑紫北部を奪還しようとして金印に魂を込め、海岸の浅瀬に置いたのではなかろうか。

時は移り天明4年(1784年)、当地は陸地となっており、そこを田んぼとして耕作していた百姓甚兵衛が排水路を改修していた折に金印を見つけたのであった。金印は実に1500年ほどの眠りから覚めたのである。これこそが「出雲の神宝」であろう。






北部九州の「大倭」から畿内の「大和」へ(古代史逍遥-3)

2022-12-22 16:32:01 | 古代史逍遥
奈良県の「大和地方」と言えば、古代王権の揺籃の地であり、また絶対王権を巡る争乱の地でもあった。

【大和(やまと)の語源】

この「大和」だが、この名称の謂れについては分かっているようでよく分かっていない。

そもそも「やまと」が先か、漢字の「大和」が先なのか。

日本語(倭語)の地名なら、まず倭語で「やまと」という呼称があり、その後に漢字が取り入れられて地名を漢字で表記するようになってから「大和」を当てるという時系列になり、「やまと」が先ということになりそうである。

しかしそうなるとなぜ「やまと」を表記する漢字に「大和」があてられたのか、が問われなくてはならない。

そこで地名学者などが唱える説を見ると、おおむね「山の麓」説もしくは「山の入り口」説が大勢を占める。

ところがこの説は陳腐過ぎる。なぜなら「山の麓」にしろ「山の入り口」にしろ、このようなものは奈良県の中央部のみならず、全国到る所にあるからだ。そんなどこにでもあるような地名を王権発祥の地でありのちに日本史上並びなき権力の中枢であった地方に名付けるとは思われない。

まして「山の麓」「山の入り口」という「やまと」からは決して「大和」という漢字表記は生まれない。

「やまと」は実は邪馬台国畿内説を唱える人たちは「やまたい」から「やまと」に転訛したと考えている。行程論的に畿内説は絶対あり得ないのだが、「邪馬台国は大和にもともとあった。その証拠に<やまたい>から<やまと>へと連続しているではないか」と考えるのは一理ある。

私も「やまと」という呼称の淵源は邪馬台国の「やまたい」にあったと考えるのである。

ただし、私は「やまたい」を「あまつひ」から来たと考えている。

邪馬台国女王ヒミコの属性を私は「アマツヒツギのヒメミコ」と捉え、「天津日継ぎの姫御子」という漢字を当てている。天なる日(アマテラス大神)を「継ぐ」ほどの霊力をも身に供えた姫なのがヒミコであったろう。

これをローマ字で表すと「amatuihi-tugi-no-himemiko」となり、この倭人の発音を聞いた中国人使者が、「yamatuhi-tugi」と頭音に「Y」を付けて「やまつい」と転訛したものと考えるのである。

そして「やまつい」が彼らの「漢音」によって表した時、「邪馬台(国)」となったのであろう。

つまり「天津日継のヒメミコのおわす国が我らの国である」という倭人の自国の呼称に対して中国の使者及び史官が示した反応が「邪馬台国」という表記だったのである。

【二つの「大倭国」】

「大倭」(タイワ)は魏志倭人伝に登場する名称である。その部分を抜き出すと、

<国々に市有りて、有る無しを交易す。大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国之を畏れ憚る。>

以上の4つの短文のうち、2番目にあるのが「大倭」(タイワ)である。

前の2文を解釈すると、「女王国に属する国々には市場があり、有るものと無いものとを交換している。(その市場を)大倭に監督させている」となる。

この大倭を「倭の大人」と解釈する向きがほとんどだが、それなら「倭之大人」と書けばよく、著作者の陳寿がたった2文字を惜しんで「倭の大人」とすべきところを「大倭」にしたとは思えない。私は女王国とは別の「大倭」という国を連想した。

3文目と4文目は、その「大倭」が女王国以北の国々に「大率」なる「武力装置」を置いて威嚇していた――と解釈する。

要するに、女王国は当時、「大倭」という国家(群)の支配下にあったと考えるのである。その内容が、女王国にあった官名は第一位が「伊支馬(いきま)」、第二位が「彌馬升(みましを)」、第三位が「彌馬獲支(みまわき)」、第四位が「奴佳てい=革ヘンに是(なかて)」であったが、このうち第一位の1等官は「生目」と読み替え、江戸幕府でいう「大目付」、つまり監督者と思われる。

ということは、女王国は当時、大倭なる組織によって監督されていたことを意味する。その大倭こそが北部九州においての一大勢力で、具体的に言えば現在の福岡県糸島市に本拠地を構えた「五十(いそ)王国」であった。この五十王国の盟主が第10代とされる崇神天皇である。

そして皇子の第11代垂仁天皇は和風諡号「イクメイリヒコ・イソサチ」で、「イクメ」は「イキメ(生目)」であるから、垂仁天皇はまだ父の崇神が糸島の五十王国に王宮を構えていた頃に、「生目」(伊支馬)として女王国に赴任していた可能性があると考えている。

糸島にあった「五十(いそ)王国」が発展して九州北岸の国々を傘下に入れて作った連合が「大倭」であり、これを私は「九州北部倭人連合」と捉えたのである。

この九州北部の「大倭」が登場するのが、『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」で、その序文には次のように九州北部に「大倭国」があったことを記している。その箇所を抜粋すると、

<(神武)東征の時、「大倭国」において漁夫に見(まみ)ゆ。>

神武東征を既定の事実としており、その東征の節に「大倭国において潮路をよく知っているという漁夫(シイネツヒコ)に出くわした」というのだが、この「大倭国」を「大和国」と解釈することはできない。なぜなら「大和国」には海がないからである。

二つ目の「大倭国」については序文の後の方で、

<シイネツヒコを以て「大倭国造」となす。>

ともう一度登場する。この「大和国造」がのちの「大和国」を表しているのは明らかであるが、では「大倭国において漁夫シイネツヒコに出くわした」とある「大倭国」とはどこの国だろうか。記紀の神武東征説話にはサオネツヒコという別名で登場するが、大分県(豊後・豊前)と愛媛県(伊予)の間に所在する「豊予海峡」が該当する。

この豊予海峡に近い国と言えば、それこそが北部九州倭人連合の「大倭」である。

この大倭(タイワ)と伊都都比古(いつつひこ)が率いる厳奴(いつな)とが佐賀平野から筑後川流域の肥沃な地帯を巡って戦い、結局、厳奴の方が敗れて主だったものは「出雲(いつな→いつま→いづも)」に流さた。そして一部のものは厳木町という佐賀平野の西の隅に押し込められたのだが、私の考える魏志倭人伝に記載された「伊都国(いつこく)」なのである。

【「大倭」から「大和」へ】

「海路を案内しましょう」と言って神武東征の船団の前に現れたシイネツヒコ(サオネツヒコ)は豊予海峡から北上した先の大倭国(北部九州倭人連合)の国人ではなく、古事記によればヒコホホデミの孫だという。

それだとヒコホホデミの孫である神武とは世代がピタリと合致する。そのシイネツヒコの案内で瀬戸内海を東に向かい、ついに畿内の前哨に位置する難波に到達した。その後はナガスネヒコの攻撃にあって南へ大きく迂回し、熊野から陸路を奈良南部の宇陀から飛鳥地方までを攻略しつつ、橿原に都を樹立する。

そして道案内の功により、シイネツヒコは「大倭国造」に任命されたという。

この「大倭国造」は「大和国造」と同義だが、九州北部にあった「大倭」が「倭」を「和」に換えられて、そのまま奈良県大和地方の地名に横滑りしたことになる。

いわゆる「地名遷移」の一形態だが、「倭」と「和」の違いがあり、この違いは単に「倭」は縁起の良くない卑字だから吉祥字の「和」に代えたというだけではなく、実は上記のような歴史的な意味を持っている換字なのである。

要するに、(1)北部九州の大倭(北部九州倭人連合=盟主は糸島を本拠地とした五十王国の崇神王権)が畿内に東征を果たしたがゆえに大和地方が「大倭国」となり、その大倭という漢字はのちに「大和」に換えられたこと。

(2)その読みについては、九州の女王国(盟主はヒミコ)の倭人呼称「アマツヒツギのヒメミコの国」が、中国の使者および史官(陳寿)が「ヤマツイ国→ヤマタイ国」と表記したのをそのまま取り入れて「やまと」にしたこと。

以上の二つの歴史的な事象から「大和」が生まれ、かつ「やまと」というこの漢字にしては不可解な読みが付けられたのだろうと考えるのである。

※(1)については私見の「二つあった神武東征」に詳しい。
※(2)について中国人が名付けた「ヤマタイ」が「やまと」になるはずがない、と思う人も多くいるようだ。だが今日では日本をジャパンと呼ぶケースが増えているが、このジャパンの語源は宋の時代に中国を訪れたマルコ・ポーロが日本のことを中国人が「リーベン」と発音したのを「ジパン(グ)」と書き記したのが西洋で一般化し、今現在はジャパンとして国際的に定着したもので、そのことを思えば、「アマツヒツギの国」から中国音で「ヤマツイ→ヤマタイ」が倭語に取り入れられ「やまと」になって定着したとして何の不思議もない。















amatuhi

女性天皇の時代(古代史逍遥‐2)

2022-03-12 21:51:01 | 古代史逍遥
現在の皇室をめぐっては、男系男子天皇が先細りになるということで、いろいろな論議がなされている。

もう女性天皇の擁立を視野に入れないと危うい――とまで言われている。

明治に制定された皇室典範の規定では、今しがた触れた「男系男子の天皇」でなければならないとされたので、後嗣の門戸が狭くなった。

現に、昭和天皇の皇子がなかなか生まれず、なかばあきらめかけた時に出生されたのが、現在の上皇(平成天皇・明仁陛下)であった(昭和8年12月23日)。

その後常陸宮もお生まれになり、男系男子危うしの危機は避けられた。

それが今、現天皇に男の子が生まれないことで、また昭和時代の危機感が再現されることになった。

それでも天皇の弟の秋篠宮が控えており、なおかつ秋篠宮悠仁さまもいらっしゃるので、当面の30年は「安泰」と見てよい。

そもそも皇室の後嗣をめぐっては、現天皇・皇后に皇子(男子)が生まれなかったことで取り沙汰されるようになったのだが、皇女の愛子さまが天皇になる可能性は無いことはないのだ。

女性天皇は歴代皇室には10代にわたって現実にあったのである。それを以下に示すと、

1.推古天皇(第33代 在位592~628年)
2.皇極天皇(第35代 在位642~645年)
3.斉明天皇(第37代 在位655~661年)
4.持統天皇(第41代 在位690~697年)
5.元明天皇(第43代 在位707~715年)
6.元正天皇(第44代 在位715~724年)
7.孝謙天皇(第46代 在位749~758年)
8.称徳天皇(第48代 在位764~770年)
9.明正天皇(第109代 在位1629~1643年)
10.後桜町天皇(第117代 在位1762~1770年)

となるが、2、3の皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、また7、8の孝謙天皇と称徳天皇も同一人物である(重祚)。

したがって10代と言っても現実には8人であり、現天皇まで126代を数えるうちのわずか8人に過ぎない。

1の推古天皇から8の称徳天皇までと、9と10の天皇では時代が全くかけ離れており、前者は飛鳥時代から奈良時代まで約180年間に現れた女性天皇、後者は江戸時代に入ってからの女性天皇である。

そこでまず9と10の天皇を先に見て行こう。

9の明正天皇は父が第108代の後水尾天皇(在位1643~1654年)で、男系男子の後嗣である。

10の後桜町天皇も父が第116代桃園天皇(在位1747~1762年)で、こちらも男系男子の後嗣である。

両天皇共に先代の父天皇が譲位または崩御の後、後嗣となるべき直系男子がまだ幼少だったため、代わりに(ピンチヒッター)として皇位を継いでいる。

さてでは前者のグループを見てみよう。これは次のように一覧で示す。(※Aは父、Bは母である。)

1、推古天皇 A欽明天皇(第9代 在位540~571年) B蘇我キタシヒメ(父は稲目)
2、皇極天皇 A茅渟王(父は押坂彦人大兄。祖父は敏達天皇 Bキビツヒメ(父は桜井皇子)
3、斉明天皇(重祚)・・・2と同じ
4、持統天皇 A天智天皇 B蘇我オチノイラツメ(蘇我馬子の妹)
5、元明天皇 A天智天皇 B蘇我メイノイラツメ(父は石川倉山田麻呂)
6、元正天皇 A草壁皇子 B元明天皇
7、孝謙天皇 A聖武天皇 B光明皇后(父は藤原不比等)
8、称徳天皇(重祚)・・・7と同じ

以上であるが、父方はすべて天皇または皇族である。したがって女性天皇とはいえ、男系男子からの血筋であることは満たされている。

簡単に即位の事情についてそれぞれ個別に見てみよう。

1の推古天皇擁立の背景には、前代の崇峻天皇の暗殺が影を落としている。欽明天皇の皇后キタシヒメ(蘇我氏)の父稲目の専横が、正当な後嗣の就任を妨げたのである。

2の即位前には蘇我馬子の孫の山背大兄(父は聖徳太子)と古人大兄(父は舒明天皇)の二人がいたが、山背大兄の自害という混乱の中、敏達天皇の孫の茅渟王の娘である宝皇女が後嗣となった。

3の皇極重祚だが、乙巳の変(大化の改新)で姉の皇極から皇位を継いだ孝徳天皇が難波宮で崩御し、その遺子である有間皇子が殺害されたので皇極が再び皇位に就いた。

4では夫の天武(第40代 在位672~686年)が崩御し、姉の大田皇女の所生の大津皇子が自害したので我が子草壁皇子を後嗣にしたのだが、即位前に死んだので、草壁の遺子軽皇子(文武天皇)がまだ幼少だったため、即位した。

5夫の草壁が即位前に亡くなり、後嗣となった軽皇子が文武天皇として即位したが、707年に崩御した時、その遺子である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼少だったため、母である元明天皇が即位した。

6の元正天皇は母である元明天皇の後嗣となった。弟の文武天皇の遺子である首(おびと)親王がまだ幼少であったためとされる。

7の孝謙天皇は父聖武天皇から生前譲位された。

8の孝謙天皇重祚だが、後嗣として譲位した淳仁天皇の配下の藤原仲麻呂が反乱を起こしたため、淡路島に流されたことを受けて再び即位した。

以上が格別に女性天皇の即位が続いた推古女帝(在位592~622年)から7代先の称徳女帝(在位764~770年)までおよそ180年であったが、この180年の間に数えられた天皇の代数は16代で、そのうちの半分の8代が女帝であった。

またこの8代の女帝の統治期間を合算すると92年になるが、この期間も180年のほぼ半分を占める。

偶然の一致かもしれないが、興味がもたれるところである。

また時代相としては、蘇我氏の専横(稲目から蝦夷までの110年)によって蘇我氏の后妃が輩出されていたのが、元明天皇時代を境に藤原氏に取って代わられたことが大きい。

藤原不比等の娘の宮子と光明子が相次いで后妃となり、その後、藤原氏は外戚として政権の中枢を担うようになった。

「建」(たけ)つながりの三か国(古代史逍遥‐1)

2022-03-07 18:48:22 | 古代史逍遥
【はじめに】

「記紀点描」シリーズも最終回となった。ちょうど節目の50回である。

記紀点描㊾まではおおむね記紀の記事に従い初代神武天皇から41代持統天皇までの事績をピックアップしつつ、日本古代史の正史からは若干外れた(外された)テーマを綴って来たのだが、これからはまた違った切り口で古代史にアプローチしてみたい。これを「古代史逍遥」と名付ける。

今回は古事記の神代にさかのぼり、イザナギ・イザナミの「修理固成」の段で、日本列島の国土を次々に生む俗にいう「国生み神話」をと取り上げる。

【「建」(たけ)つながりの三か国】

古事記の国生み神話は、日本の国土をイザナミが次々に生んでいくという神話だが、今日にも伝わる旧国名や島々の名が列挙されており、興味がそそられる部分である。

天津神の教えで、男のイザナギがイザナミより先に「なんていい女なんだ!」と賞賛してから「みとのまぐわい(美斗能麻具波比=夫婦の性交)をしたところ、「淡道の穂の狭別島」(淡路島)を皮切り8つの島(大八嶋)を生んだという。・・・①

そしてその後に列島周辺の小さな島々を生んでいる。・・・②

①で生まれた8つの島は、今日にもつながる名を持った島「淡道の穂の狭別島」(淡路島)、「伊予の二名島」(四国)、隠岐の三つ子島(隠岐の島)、筑紫の島(九州)、伊伎島(壱岐)、津島(対馬)、佐渡島(佐渡)そして「大倭豊秋津島」(本州)である。

この中で面白いのが、本州や九州、四国と並んで淡路島・隠岐の島・壱岐島・対馬・佐渡島という5つのさして大きな島でもない島々が、「大八島」の仲間に入っていることである。当時のよく知られた島で、多くの海人が往来していた島々であり、また国防上の役割を担っていた島々でもある。

<建日別(たけひわけ)>

さて筑紫(九州)には4つの国があるという。「筑紫国(別名・白日別)」「豊国(別名・豊日別)」「肥国(建日向日豊久士比泥別)」そして「熊曽国(建日別)」の4つである。

「建日別」は熊曽国のことであり、南九州を指していることは明白である。

そのほかの国について、まず筑紫国であるが、この国の別名は「白日別(しらひわけ)」という。「白日」とは何だろうか?

これはずばり「新羅(しらぎ)」のことである。

新羅は2~3世紀の邪馬台国時代は「辰韓」と呼ばれていた国家群で、辰韓とその西側の国家群「弁韓」とは「雑居」しており、住民の多くは「文身(いれずみ)を施していた」と書かれている。弁韓はのちの「任那」であるから、辰韓と弁韓は倭人でも主として海人系の倭人たちが居住していたと見ることができる。

筑紫国が白日別ということは、筑紫が半島南部の辰韓(のちの新羅)と同一国家であることを意味している。具体的に言うならば海人系倭人国家である辰韓に王朝を築いた箕子朝鮮の末裔「辰王」の支配する統治領域が、九州北部にも及んでいたということである。

辰王の典型が福岡県糸島地方に根を下ろした「ミマキイリヒコイソニヱ」こと崇神天皇であった。和風諡号の「御間城入彦五十瓊殖」とは「天孫の任那の王宮に入った王で、五十(いそ)の地に王権(瓊=玉)を殖やした王」と理解され、崇神天皇は魏王朝から派遣された司馬懿(シバイ)将軍の席捲をを避けるべく九州北部の五十(糸島)地方に移住して来たのである。

(※その崇神こと「五十瓊殖(イソニヱ)」と糸島で生まれた垂仁こと「五十狭茅(イソサチ)」の親子が糸島を根拠地として次第に九州北部に勢力を伸ばし、ついに倭人連合を形成したとも考えている。それが「大倭」であった。)

そのような歴史的経緯を踏まえて筑紫国を「白日別」と名付けたものであろう。

次に、豊国の別名が「豊日別」なのは、豊日の国だからである。では「豊日」とは何か。

私はこれを邪馬台国女王ヒミコの死後に女王として立てられた「台与(トヨ)」のことだと考えている。トヨは卑弥呼亡きあと20年ほどは王座にいたが、南からの狗奴国勢力に押され、ついに併呑されるという憂き目に遭い、九州山地を越えて豊前宇佐地方に逃れたと思われる。

宇佐において言わば「亡命政権」を樹立したのではないか。したがって宇佐神宮で応神天皇および神功皇后とともに祭られている「比売之神」とはトヨのことではないかと思うのである。

次に、肥国は別名を「建日向日豊久士比泥別」とするが、これの読み方については多くが「たけひむか、ひ・とよ・クシヒのねわけ」と読んで怪しまないが、そもそも「建日向」を「たけひむか」と読む根拠が不明である。

この「建日向」は「建日に向かい」と読むべきなのだ。「建日」とは熊曽国であり、その本拠地は熊本県域だったから、八女市にあった邪馬台国とはまさに向かい合っている。

「日豊」は、これも「ひ・とよ」とは読まずに、「ひのゆたかなる」と読み、次の「久士比の泥(ね)わけ」 への形容と把握すべきである。

「久士比(くしひ)」とは「霊妙な」という意味だが、ここの場合は「統治能力のある大王」と解釈し、「泥別(ねわけ)」は「根分け」であるから、本筋の大王とは血のつながりのある王と捉えたい。

以上から「建日向日豊久士比泥別(たけひにむかい、ひのゆたかなる、くしひのねわけ)」を別名に持つ「肥国」は、おおむね今日の肥前国を指していると考える。

筑紫すなわち九州島は南九州に「熊曽国」があり、北部には「筑紫国」があり、北東部に「豊国」があり、そして今日の築後から肥前(佐賀・長崎)にかけては「肥国」があったことになる。再述するが、このうちの熊曽国が「建日別」であった。

<建日方別(たけひかたわけ)>

この国は別名「吉備児島」である。吉備の児島と言えば今は陸とつながっているが、古代は島であった。

「建日方別」というのは「建日別」の「地方」もしくは「片割れ」という意味で、言わば「建日別」の分国である。

なぜ瀬戸内海の中央部にある「吉備児島」が南九州の熊曽国の分国なのか。

これについては南九州からの「神武東征」を信じれば、容易に分かることで、古事記によれば「神武東征軍」は瀬戸内海に入ったのち、安芸の多祁理(たけり)宮で7年間、そして吉備の高島宮では8年間を過ごしている。

(※日本書紀ではこの「神武東征」の所要年数が古事記のに比べ著しく短くなっている。私はその3年余りという短期で東征を果たしたのは、南九州由来の東征ではなく、北部九州の「大倭」(北部九州倭人連合)のそれだと考える。その東征の主体こそは筑紫(白日別)王となった辰王こと崇神天皇であろう。)

後者の高島宮こそが、まだ海中にあった吉備児島に所在した。したがって吉備児島は南九州熊曽国(建日別)の分国扱いを受けたのである。

「神武東征」などまったく有り得ないとする戦後史学では考えもしない説だが、吉備は南九州との結びつきが強い地域で、古くは縄文土器に見られる「胎土」(土器用の粘土)に共通性があったり、弥生土器の「矢羽透かし彫り」に共通点があったりしている。彼我の交流は絶対に無視できない。

<建依別(たけよりわけ)>

四国(伊予の二名島)の4つの国のうち黒潮洗う土佐国を「建依別」というが、この意味は「建日が寄る国」ということで、南九州の建日別(熊曽国)の海人が海に出て、黒潮ルートに乗って紀伊半島から畿内を目指した場合、途中で寄港するに最適の港を持っていたのが土佐である。

神功皇后摂政元年紀に、皇后が新羅を討ったのちに皇子を産み、「穴門の豊浦宮」に軍勢を整え、畿内を目指そうとしたところ、畿内勢力である忍熊王の抵抗に遭い、それではと武内宿祢が生まれたばかりの赤子の皇子を抱えて、「皇子を懐き、横しまに南海より出でて、紀伊水門に泊らしめ」とあるように、武内宿祢の畿内への航路は南海航路、すなわち黒潮ルートであった。

南九州から畿内を目指す場合、黒潮ルートを採って紀伊半島に上陸し、紀ノ川を遡って五条・阿陀から葛城へ抜けるコースが最も早く、その航路を採る時は、土佐が水・食料の補給には最適な場所であった。そのことが「建依別」という国名に現れているのである。