鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

梅雨末期の豪雨?

2024-06-20 13:41:45 | 日記
今朝は明け方近くになって北寄りの風が吹き、雨がぱらついた。

ところが10時頃からはかなり強い雨に変わって来た。風も強い。

菜園のオクラの苗が先日の強い西風で倒れ掛かっていたので、強い雨の中、合羽を着て支柱を立てに行った。

雨で横倒しになり、泥の跳ね上げが葉や茎にこびりついたら元に戻らない可能性があるからだ。

支柱を立て終わり、やれやれと昼食を摂りながらテレビを観ていると、「大隅・薩摩・種子島・屋久島に線状降水帯の掛かる危険性がある」と画面の上にテロップが流された。

――そうか、早目にやっておいてよかった。

と安堵しつつ、食後からさらに1時間も続く強雨に心配になり、庭の菜園を確かめに行ってみた。

すると、さっき立てた支柱の周りの通路がすでに冠水していた。

庭中が濡れそぼち、冠水していたのは菜園の通路だけではなかった。

心の字池も溢れていた。左手の機関車のテラコッタの近くの池囲いから少しずつ外に流れ出している。

このくらいの漏れ出しでは金魚に影響はない。メダカなら逃げだしているかもしれないが――。

それにしても強い雨だ。梅雨末期ならいざ知らず、まだ梅雨半ばの当地でこれほどの雨が降るのは記憶にない。

梅雨明け間際の末期に大雨が降るのは恒例で、鹿児島弁でいうことわざ、

<人がけ死まんと、ナゲシは上がらん>

「け死まんと」は「死なないと」で、「ナゲシ」は「梅雨」のことで、「土砂崩れなどで人が死ぬような大雨になって、ようやく梅雨が明ける」という意味である。

「ナゲシ」はおそらく「長雨(ながあめ)」から来た方言だが、鹿児島弁にはオリジナルの単語と標準語からの転訛に加えて独特のイントネーションがあるので、このことわざを地元の人が早口で言うと「はあ?・・・」ということになる。

それはそれとして、緊急予報で出た「線状降水帯」が薩摩・大隅に掛かったら大変だ。

<人がけ死まんと、線状降水帯は過ぎん>

とならないことを祈る。




梅雨入り(2024.06.08)

2024-06-09 21:05:35 | 日記
鹿児島は昨日(6月8日)、梅雨入りとなった。平年より9日遅かったという。

昨日も今朝もどんよりとした曇り空から時おり小雨が降った。

日中は一時晴れ間ものぞいたが、ほぼ梅雨らしい空模様だった。

梅雨に似合うのが紫陽花だ。我が家には庭の西側にガクアジサイが10株くらいあるのだが、残念ながら地植えの物はすべて青系統の花である。


ガクアジサイが覆いかぶさろうとしているのは、飼い犬ウメの小屋だが、彼女はどうしても入ろうとしないので、この小屋は購入してからもう12年くらいは無人(無犬)のままだ。

今年13歳のウメは市内のとある食堂で飼っていた雌犬が4匹ばかりの子犬を生み、ネット上で「もらってください」という情報を得て、貰いに行った犬である。

ウメと名付けたのはうちの娘だが、私はもっとしゃれた名前を考えていたのが、押し切られてしまった。

ウメを貰って来て2週間くらいは家の中で飼っていたのだが、番犬にするつもりだったので犬小屋を購入し、庭に下ろして犬小屋の脇にパイプ支柱を立て、それに鎖を固定したのだが、キャンキャン吼えるだけで一向に入る気配はなかった。

小屋の中にエサ入れを置けばそのうちに慣れて入るだろうと思いそうしたのだが、何度やっても入ろうとしない。

こっちがしびれを切らしているうちに、雨が降ったり暑かったりして床下にもぐることを覚えたのが運の尽きだった。

以来、ウメはテラスの下のコンクリートの部分を居場所と決めたようである。床下のコンクリートとは建築用語でいう「犬走り」なので、まさにどんぴしゃりではないか。

正確に言うと「犬走り」ではなく、「犬ベッド」だが、この居場所はよほど気に入ったらしく、もう12年半はそうしている勘定になる。

よく飽きもせず、と笑う他ないのだが、真夏でも床下は案外涼しいらしく、ウメが熱中症になったことはこれまでに一度もない。


最近頭の毛に白いものが混じり始めたウメの寿命もあと3年くらいだと思うが、アジサイに埋もれそうな無犬小屋はまだそのまま残るだろう。

よく見ると、まつ毛が真っ白だ。また、人間だと年を取るほどに目の周りに小じわができ、ともすると隈取りが現れるものだが、ウメはむしろ目の周りが白くなっている。

何にしてもウメの後釜は、ちゃんと犬小屋に入るように厳しくしつけようと思っている。

鹿児島の老舗「山形屋」の再建

2024-05-28 20:35:03 | 日記
県都鹿児島市にある老舗デパート「山形屋」に経営危機が迫ったというニュースが半月前に流れたが、昨日、再建のための負債整理と再建計画に、債権を持つ17の銀行群が賛成したという。

これによりどうやら会社更生法の適用は無くなり、営業を継続しながら負債を減らしていくことになったらしい。

多くの鹿児島市民は喜んでいたようだ。

何しろ山形屋と言えば、そのネームバリューは半端なく、大方の県民には「在って当たり前」のデパートだったからだ。

創業は驚くほど古い。宝暦(ほうりゃく)元年というから江戸時代の中頃、西暦で言えば1751年。

時の薩摩藩主島津重豪が山形(庄内)出身の呉服商岩元氏に官許を与えて薩摩に呼んだのが始まりだというから、今年で創業273年になるという超老舗である。

庄内はのちの山形県だが、そっちの山形は「やまがた」と読み、デパートの山形屋の方は「やまかたや」と呼んで、「か」が濁らない。

東北の山形からやって来たのだから「やまがたや」でいいと思うのだが、「が」と濁るのを嫌うジンクス(縁起かつぎ)のような物があったのかもしれない。

もっとも鹿児島県人が「が」と言うと強勢の「がっ」に近く、鼻に抜ける「nが」ではないので、余計に「やまがたや」と濁って欲しくない心理が働いた可能性がある。これはあくまでもあて推量に過ぎないが・・・。

創業の宝暦年間と言えば、鹿児島では一大事件が起きている。

「宝暦の治水」と言う名の幕府への「お手伝い普請」が行われたのが、宝暦4年から5年にかけてのことである。

お手伝い普請」とは徳川幕府が諸大名に課した主として土木工事のことで、命ぜられたら断るすべはなかった。断ったら幕府への反逆と看做されたからだ。

幕府は戦国期の政敵であった外様大名が財(勢力)を蓄えることを嫌っており、特に琉球交易を通じて裕福と見た薩摩藩には大きな工事(難工事)を割り当て財力を削ごうとした。

薩摩藩に幕命が下ったのは宝暦3年、木曽川・長良川・揖斐川いわゆる木曽川三川の分流工事であった。

翌宝暦4年の2月から藩士たち総勢1000名と言われる大工事に取り掛かったのだが、慣れない土木工事に従事した藩士たちは、ただでさえ武士の自尊心が萎えている上に、幕府役人や地元の人間の横柄な態度にしびれを切らし自決する者が相次いだ。

自決者と病死者あわせて83名というのもさりながら、宝暦5年の5月に完成するまでに費やした薩摩藩自腹の費用は当初予算の約5倍に膨れ上がり、これらの責任を取って総奉行の平田靱負は5月25日に割腹自殺を遂げたのであった。

当時の土木技術として最善を尽くして完成した木曽川三川分流工事は明治になってさらに西洋の技術により補強された。

その結果今日まで有名な輪中集落への洪水は大幅に軽減され、土手に植えられた日向松の美しい並木とともに地元市民の感謝の念は尽きることがない。

つい先日、木曽川治水工事270年記念交流のために鹿児島を訪れた岐阜県の「薩摩義士顕彰会」のメンバーである海津市の団体が、鹿児島市内にある平田靱負の旧居「平田公園」で開催された平田靱負顕彰式典に参加した映像がニュースで流れた。

「義士」とは自分の困難を顧みず、また自己への利益を顧みない行為によって他者の困難を軽減させようとする崇高な働きをする者たちの総称である。

同じ江戸時代の宝暦年間の出来事だが、一方は今日につながる山形屋デパートの創業、一方は他国に出かけての義士としてのハタラキ。

山形屋の創業者岩元翁は庄内(山形)から鹿児島へ。義士たちは鹿児島から岐阜へ。両者が当時の鹿児島で相交わることがあったとしたら面白い。




大荒れの5月場所(2024.05.24)

2024-05-24 19:24:41 | 日記
先場所の大阪場所は「荒れる大阪場所」と昔から言われて来た。

事実、入幕1場所目の尊富士が優勝と3賞を総なめするという快挙を成し遂げた。

残念ながら尊富士、今場所は先場所の14日目に痛めた足首の治療のため全休になったが、この優勝直後の全休というのも極めて珍しいことだ。

その尊富士の全休を含めて、この5月場所も大波乱の展開である。何しろ12日が終わって2敗力士がいなくなり、3敗に4人、4敗に7人。

こうなるとどの力士が優勝するかが星取表からは全く分からなくなった。優勝成績が11勝4敗何てこともありである。面白いと言えば、とても面白い場所だ。

今日13日目の取組後には、3敗が二人(琴桜と大の里)、4敗力士が三人(豊昇龍、阿炎、大栄翔)の5人に絞られた。

千秋楽まで残すところ2日なら3人程度に絞られるのが普通だから、5人でも多いくらいだ。

モンゴル出身の横綱・照ノ富士と大関・霧島と貴景勝の上位陣3人が早い段階で休場してしまったのが混線に輪を掛けたに違いない。

このうち照ノ富士と霧島はモンゴル出身で、星取表を見るといつもモンゴル出身者が上位を占めているのが気になっていた、というよりも日本人力士の不甲斐なさが目に付いて仕方がなかった。

しかし先場所の尊富士にしろ今場所の大の里にしろ、日本人力士の新たな勢力が浮上して来た。大袈裟な言い方かもしれないが、ようやくモンゴル勢に一矢報いることができるかと期待感は大きい。

ところで星取表を見るといつも「まさよ」と読んでしまう日本人力士が元大関の「正代(しょうだい)」だ。

本名のようだが、珍しい姓である。

もっとも幕下には「生田目(なまため)」なる本名の力士がいるから、それには多分敵うまい。

普通、十両以上の関取になると「四股名」に変わるものだが、正代は大関になっても本名のままだった。

だが上には上がいる。横綱になった「輪島」である。けっして重量級ではなかったが、相撲巧者で、がっぷり組んで闘うタイプだった。あの時代はまだ大相撲は四つに組んで何ぼの時代だったのが懐かしい。

十両に陥落してしまったが、元関脇「遠藤」も関取らしい四股名に改名していない。遠藤という余りにもアマチュアっぽい名をいつかはそれなりの四股名に変えるのだろうと思っていたのだが、ついに変えることはなかった。

本名のままの力士はまだ思い出せる。出島、板井などが思い出される。板井は「痛い!」を連想させられるので、変えて欲しかったのだが、この人もそうしなかった 。

上の星取表で正代の4枚上に元関脇「明生(めいせい)」がいる。この人は鹿児島県の奄美大島の出身だが、この四股名、実は本名は本名でも名前である。

姓は「川畑」で、奄美には一文字姓が多いのだが、二文字姓では川畑はポピュラーな方である。

大相撲で本名の名の方を四股名にしたケースが他にあるのかどうかは知らないが、稀だろう。野球の「イチロー」に倣ったのだろうか(😎 )。



急性記憶障害その後

2024-05-13 20:49:56 | 日記

家内がトイレの便器を洗浄剤と紙やすりでこすり落とした際に陥った「急性記憶障害」の顛末。

心配なので念のために脳神経外科を受診し、脳のCTスキャンをしてもらったが、脳自体に異常は認められなかった。

受診後に下された家内の突然の記憶障害についての病名は「一過性全健忘症」(いっかせい・ぜん・けんぼうしょう)ということだった。

「一過性」と「健忘症」は分かるが「全」が付いている。

その意味は数時間の間の記憶がすっぽり、つまり全部が抜け落ちているということだそうだ。

たしかに家内がトイレ掃除をしている間はおろかトイレ掃除に着手したことさえ忘れていたのだから、トイレ掃除に関わる全行動がすっかり記憶から抜け落ちていたのだ。

おぼろげに、例えば「紙やすり」を何枚使ったかとか、洗浄剤の量はどのくらいだったかなどを覚えていればまだしも、それらのことは全く覚えていないのだから不思議である。

まして私が「休憩したらどうだ」と言ったことも覚えていない。こちらの呼びかけに「何時になったの」という頓珍漢な返事をしているのだが、そのことも記憶から抜けている。

まるで夢遊病者だが、ちゃんとトイレ掃除を継続しているのだから単なる夢遊病ではないだろう。

いわゆる漂白系と塩素系の混合使用による塩素ガス中毒ではないので、原因は不明とされたそうだが、やはり揮発性は高くないにしても何らかのガスを吸い込み、それが血中に溶け込んで意識障害を起こしたのではないかと思う。

本人は当日の午前中、庭掃除をしていて「熱中症」に罹っていたのではというようなことを言っているが、そこまで気温が高かったわけではないし、もしそうだとしたらトイレ掃除に取り掛かることはできなかったはずだ。

いずれにしても現在は何ら不審を感じさせない元通りの意識と行動に戻っているので一安心である。