鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古文書はAIで解読可能

2024-09-11 19:54:09 | 日記
熊本大学では保管する古文書の解読にAIを使って目覚ましい効果を上げているという。
  (今日のNHKニュースから)
熊本大学には「永青文庫」という膨大な古文書群があり、その中に保管されている古文書を解読するのに、AIを使うことに成功したという。

その使い方は古文書を撮影したものをAIアプリによってパソコンに学ばせ、        くずし字(草書体)の多い古文書の一字一句を楷書に変換するというものである。

楷書に変換できればあとは歴史学の出番で、当時の時代的な背景に基づいて解釈を加えていくことが可能になる。

江戸期までの歴史を学ぶには当時書かれた文書の解読が必須で、「古文書学」という分野が設けられていた。

今度応用されたこのシステムを使えばくずし字に悩まされることなく、広範な歴史研究が可能になるだろう。

今のところ永青文庫に保管されている280万枚という膨大な文書のうち5万枚(950万字)が解読されたという。まだ全体の2パーセント程度だが、楷書に置き換えられたのであるならば、今後は解読者の数も増員されて研究は一段と進むに違いない。

実は私も一時期古文書の解読に取り組んだことがあるのだが、その時に「パソコンを使って英語の文章ををなぞるだけで日本語に転換できるのなら、古文書も同じようになぞれば現代語になるのではないのか」とふと思ったことがあった

今回のはそれとは若干仕組みが違う、というよりAIの能力が飛躍的に伸びたので、文書全体の写真を撮るだけでほぼ一瞬にして楷書化されている。

一行一行なぞるというアナログから、写真によって全体を掴み一瞬にして転換するというデジタル化が行われたのだ。

まさに古文書へのDX(デジタルインフォメーション)に違いない。



孫を遊園地へ(2024.08.20)

2024-08-20 19:54:24 | 日記
8月に入って連日の猛暑日が続き、それだけでも外に出たくはないのだが、娘一家では娘と孫二人がコロナに罹り、ひっそりとした旧盆だった。

お盆明けの頃、ようやく完治したので、孫3人を連れて遊園地に出掛けた。

出かけたと言っても、鹿屋市には遊園地がないので、去年は志布志市の「ダグリ遊園地」だったが、今年の行先は霧島市の「城山公園遊園地」だ。東九州道を使って約1時間半、遊園地に行く前にバイキングの昼食を摂り、着いたのが午後1時半。

猛暑の中―を覚悟していたのだが、意外にも曇り始め、観覧車に乗ってもそう暑くはなかった。
城山公園の観覧車は係員の高齢者に聞くと、直径は30mということだったが、頂上まで行くとなかなか高いのには驚く。

桜島や旧国分市街地が一望のもとに見える。鹿屋市にもぜひ欲しいアイテムだ。

公園内にある一般の遊具で遊んだ後はゴーカートに乗り込む。
係のおじさんに操作を教えてもらう3人兄弟の長女(小学3年生)。

身長が130センチ以上ないと単独では乗れないのだが、この子はちょうど130㎝だったので、自分一人で運転することになった。

足元のアクセルとブレーキには何とか届く程度だったが、何とか一人で帰って来た。

ここのゴーカートのすごいところは標高差だ。何と35mもある。しかも長さも1400mあるから乗り甲斐は満点だ。

乗り場に行った時は他の乗客はいなかったのだが、運転を始めた頃には次第に増えて行き、一周して帰った頃には3組くらいが順番を待っていた。

2時半頃になって急に大粒の雨に見舞われた。夕立だ。遠くで雷鳴も聞こえる。

30分ほど雨宿りして帰路に就いたが、降ったのは国分市街地でも城山のような山間だけで、下場ではさほど雨の形跡はなかった。

明日の出校日を前に、長女と長男がまだ宿題を済ませていないということで、夕飯後は取り組ませている😈





膝の痛みからの解放

2024-07-14 20:17:59 | 日記
去年の年の暮れに「坐骨神経痛」を発症したが、約一か月、銭湯で低周波風呂、いわゆる「電気風呂」に浸かったところほぼ坐骨神経痛は解消したのだが、それの後遺症だろうか、右膝の痛みが始まった。

この痛みは坐骨神経痛に比べればずっと楽なのだが、朝起きてからしばらくすると歩くたびに痛みが始まり、正座は無論のこと胡坐すらかけなくなった。

椅子に腰かけていれば問題ないのだが、立ち上がる時や段差を越える時にはチクチクと痛みが走る。

階段では上りは何とかなるが、下る時に膝の裏が痛んで困ったものだった。

2月の半ばまでの約1か月は整形外科の医院に通い、「変形性膝関節症」の診断のもと、電気治療と右膝のリハビリを受けたのだが、治療を受けた直後は寛解するものの、あくる日になると元の通りになった。

そこで新聞に膝の痛みに関してはよく広告が載っているA社やD社の「最初の1か月分は半額」とか「1か月分何と○○円」というのを試してみた。

このような膝の痛みに聞くというグルコサミンやコンドロイチンとかいう成分の入った錠剤を、2月末から一日に6錠から8錠飲み始めたのだが、2か月後の4月末になるとだいぶ楽になった。

朝起きてから30分もすると歩くたびにかなりの痛みが出ていたのが、ようやく痛みのレベルが違って来た。

そしてさらに2か月後の6月末になると、朝起きてからの痛みはほぼなくなり、そのまま一日中痛むことなく過ごせるようになった。

今日はとある温泉に入り、帰りに休憩所でテレビなどを見て1時間ほど過ごしたのだが、畳の部屋なので胡坐をかいていたのだが、膝の痛みは無かった。

また右足を左足に乗せて足を組む際には膝がちくりと痛んだのがそれもなくなった。(※だが、それでもまだ正座は無理である。)

何にしても日常の無理のない動きであれば、膝の痛みから解放されたというのは大きい。

犬の散歩でも、菜園の耕作や植え付けでも、長時間でなければ元の通りにできるようになった。

「変形性膝関節症」は膝の軟骨部分のすり減りによって痛みが出るらしい。軟骨が回復したのかどうかは分からないが、もう少しかの錠剤のお世話になることにしよう。





エンペラーウェザー

2024-07-01 09:56:18 | 日記
梅雨にどっぷりと漬かった6月が終わり7月に入ったが、相変わらず今日も雨が降っている。梅雨明けが待ち遠しい。

さて、タイトルのエンペラーウェザーは直訳すると「天皇の天気」、少し散文的に言うと「天皇日和」だろうか。

今回英国を国賓として訪れた天皇皇后ご夫妻だが、その日程(6月22日~29日)の中で、行く先々で雨にあったことのないのが話題になった。

これをエンペラーウェザーと一部で報道されている。

エリザベス女王は女性だからエンペラーとは呼ばないが、女王の崩御にともなって行われた国葬の式典では、始まる前に降っていた雨が途中で上がり、式場のウェストミンスター寺院の上に虹が現れた。

これをしもエンペラーウェザーと呼んでいるそうだ。たしかにいわゆる「奇瑞」だ。葬儀だから「吉祥」とは呼べないが、参列者にはエリザベス女王の何がしかのサインと感じられ、感激して涙を流す人も多かったと聞く。

天皇が30年前の皇太子時代の2年間をオクスフォード大学に留学されていた時はどうだったか、報道にはなかったが、おそらくそんな現象には遭遇されなかったのだろう。

やはりエンペラーになると、報道のボルテージが上がり、一挙手一投足というと大げさだが、国民の天皇への関心度は飛躍的に上がる。

天皇もその気を感じつつ、国民への思い入れがより一層強まる。双方の気と気が反応昇華して「天の気」に感応するのだろうか。

中世では「天気」と言えば、気象のことではなく「天皇のお気持ち」「天皇のご機嫌」だったから、都市伝説的に言えば、こちらの方が正しかったことになる。

巷では「昭和天皇は晴れ男だった」と言われているらしい。最も劇的だったのが、1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式だったという。

前日までの雨模様が当日はカラリと晴れ上がり、秋空の下、あの昭和天皇の高らかな宣言「第18回オリンピアードの開会をここに宣言します」というお声が今でもよみがえる。

この開会式ではもう一つ「奇瑞」があった。それはブルーインパルスによる「五輪マーク」が非の打ち所のない形で空に描かれたことである。

リハーサルでは一度もきれいな円形の五輪マークが描けなかったのだが、当日に限って目の覚めるような完形が描かれたのだそうだ。当事者でさえ驚いたという。

また似たようなことがオリンピック開会式の直前(10月1日)に行われた新幹線開業でも起きたようだ。

とある本(『昭和の鉄道4新幹線時代の幕開け』2007年小学館)を読んでいたら、その日の前日までとにかく故障続きだったそうである。

新幹線に使用された動力は「0系交流電源」であったが、東海道新幹線の開業を控えて車両を大量にメーカーに発注したのはいいが、電気系統の配線ミスが多く、試験走行をしたら途中で立ち往生が頻発した。

開業当日、大阪発東京行きの東海道新幹線「ひかり2号」を運転した運転士は上司から、

「発車したら、みんな(来賓や報道関係者)が見えなくなるところまでは何とか走ってくれよ」

と言い含められて出発したそうだが、それまでの不調がウソのように東京駅まで走り通し、しかも定刻通りに到着したのだった。

これだけではなく、その日に運行されたすべての車両が終着駅に定時に到着したのである。これはいまだに不思議がられているという。

このことまでエンペラーウェザーに結び付けるのは早合点かもしれないが、初のオリンピックを迎えた日本全体が成功への「大いなる気」に包まれていたことは事実だ。

たぶん――これは憶測だが、昭和天皇も国民のその大いなる気を受けて御自らの気を融合させた結果のように思われるのだが、如何。



梅雨末期の豪雨?

2024-06-20 13:41:45 | 日記
今朝は明け方近くになって北寄りの風が吹き、雨がぱらついた。

ところが10時頃からはかなり強い雨に変わって来た。風も強い。

菜園のオクラの苗が先日の強い西風で倒れ掛かっていたので、強い雨の中、合羽を着て支柱を立てに行った。

雨で横倒しになり、泥の跳ね上げが葉や茎にこびりついたら元に戻らない可能性があるからだ。

支柱を立て終わり、やれやれと昼食を摂りながらテレビを観ていると、「大隅・薩摩・種子島・屋久島に線状降水帯の掛かる危険性がある」と画面の上にテロップが流された。

――そうか、早目にやっておいてよかった。

と安堵しつつ、食後からさらに1時間も続く強雨に心配になり、庭の菜園を確かめに行ってみた。

すると、さっき立てた支柱の周りの通路がすでに冠水していた。

庭中が濡れそぼち、冠水していたのは菜園の通路だけではなかった。

心の字池も溢れていた。左手の機関車のテラコッタの近くの池囲いから少しずつ外に流れ出している。

このくらいの漏れ出しでは金魚に影響はない。メダカなら逃げだしているかもしれないが――。

それにしても強い雨だ。梅雨末期ならいざ知らず、まだ梅雨半ばの当地でこれほどの雨が降るのは記憶にない。

梅雨明け間際の末期に大雨が降るのは恒例で、鹿児島弁でいうことわざ、

<人がけ死まんと、ナゲシは上がらん>

「け死まんと」は「死なないと」で、「ナゲシ」は「梅雨」のことで、「土砂崩れなどで人が死ぬような大雨になって、ようやく梅雨が明ける」という意味である。

「ナゲシ」はおそらく「長雨(ながあめ)」から来た方言だが、鹿児島弁にはオリジナルの単語と標準語からの転訛に加えて独特のイントネーションがあるので、このことわざを地元の人が早口で言うと「はあ?・・・」ということになる。

それはそれとして、緊急予報で出た「線状降水帯」が薩摩・大隅に掛かったら大変だ。

<人がけ死まんと、線状降水帯は過ぎん>

とならないことを祈る。