昨日夜のNHKでは「アタッチメント~生きづらさに悩むあなたへ~」という番組があり、興味を持って視聴した。
アタッチメント(attachmennt)学説とは、もともと行動心理学で提起された人間感情を対象にしたもので、恐怖や不安を感じた時に何かに縋(すが)り付きたくなる感情についての仮説で、いまアメリカの若者たちの間で流行しているそうだ。
(※アタッチメントというと、付属物・付加装置という意味の方が身近だったが、この項では心理学上のアタッチメントである。)
不安や恐怖を感じた時、何かに縋りつきたくなるのは誰しも経験済みだが、通常の人間であればまずその対象は生みの親だろう。
番組の中でちょっとした実験が行われていた。まだ歩き始めて間もない幼児と親との関係で、親が突然そこから姿を消したらどうなるかという実験だった。
幼児の心拍数を聞き取れる装置を装着した幼児の反応は、当然予期された反応で、親の姿が急に見えなくなると幼児にはそぞろ不安感が生まれて心拍数は急上昇し、ついには泣き叫んで親の姿を求めるというものだ。
ところが親が現れると幼児は親の許に駆け寄り、抱っこされるとしばらくして心拍数は落ち着いてきて心拍数ももとのように平常に戻るのだが、このあたりはとくに計測しなくてもおおむね予想の付く結果だ。
幼児は保護者の庇護に安心すると、どんどん行動半径を広げて行く。もし行く先で不安や恐怖を感じたら保護者のもとに帰り、心理的にリカバリーされる。このような経験を繰り返すことにより、青年期になっていわゆる「巣離れ」が始まり、社会に飛び出して行く。
問題はこの幼児の不安が解消(リカバリー)されない時である。つまり幼児が不安や恐怖を感じたりした時に駆け寄り抱っこしてくれる親など身近な者がいない(アタッチメントが無い)時だ。
そんな時不安感は長く続き、このような経験がしばしば起きると、幼児には「自分は保護されない存在だ」というような心理的な不安感情が醸成され、心の底に沈殿する。
そしてこの状況が解消されないままでいると子どもは社会に出て行くことに不安を感じてしまう。さらには人減関係にも支障をきたすようになり、ついには引きこもるようにもなる。
自分の経験だが、両親は共稼ぎで日中はお手伝いさんに任せて暮らしていたので「母親というアタッチメント」(よくPTA の研修などで耳にしたのが「心の基地はお母さん」だった)が身近に居なかった。
たしかに不安や恐怖を感じた時に母親という安心感を与えてくれる存在(アタッチメント)がいないと、不安感は解消されず、といって職場にまで行って母親に泣きつくわけにもいかず、結局、いわゆる「泣き寝入り」であった。子どもらしい感情を押し殺すほかなかった。
4人兄弟の末子である弟は良くできた子どもで、母親の期待を背負っていたのだが、やはり困った時に甘えられるアタッチメントがそばにいないので、子供らしい感情を押し殺すことが多かったに違いなく、中学2年生の初めに不登校になった。
両親が教員なのにおかしな話だが、職業が何であろうと、こんな事態が起きたらアタッチメントの出番だろう。弟に寄り添う存在が必要だったのだ。
ところが我が家の両親は仕事を、つまり収入の方を優先してしまった。愚かなことである。
神道でいう「中今(なかいま)」要するに「今に中る(あたる)」ことを全くしなかった。今一番大事な事は何か、最優先すべきは何かを考えなかったのだ。
結果、母は弟に寄り添うことはなく、弟は中学校をやっと卒業したあと、高校中退を2校繰り返し、挙句は定時制高校に通って何とか卒業したが、もうその頃は精神科のお世話になっていて、妄想的な言動を発するようになっていた。
母親が小学校の常勤から「足を洗い」、ようやく家庭に入ったのは弟が不登校になってから5年が経っていた。事態は取り返しのつかない局面に達していたのである。
16歳から精神科の常連となった弟の生きづらさを思うと実に悔やまれる。
兄の私も、もう一人の兄も、また姉も、似たような生きづらさを抱えて生きて来たようだ。こんな感情を死ぬまで抱え込んでいたくはないが、生い立ちの不備は心の奥底にこびりついて離れないものだ。