鴨着く島

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専守防衛力を有する永世中立国へ(3)

2019-08-19 13:06:27 | 専守防衛力を有する永世中立国

ポツダム宣言受諾後の日本とアメリカ(建前は連合国だがほぼアメリカ)との関係が如実に分かるGHQ指令と、日本の国連復帰(1956年)、および現在に続く新「日米安全保障条約」までの流れをおさらいしておく。

 

1945年 8月15日ー昭和天皇による終戦の詔

   同年 9月 2日ー降伏文書に調印(米戦艦ミズーリ号上)。

   同年 9月11日ーGHQが戦犯容疑者逮捕を指令。

   同年 10月4日の治安維持法廃止指令を皮切りに、12月までに民主化5大改革・戦時協力教員の追放・財閥解体・農地改革・神道分離令・修身等の授業停止など矢継ぎ早に、戦時軍国色の強かった制度を廃止または大幅に改革。

 

1946年 2月13日ー新憲法の松本丞治案を拒否し、GHQ案を交付。

   同年 5月 3日ー極東軍事法廷を開廷。

        22日ー第1次吉田内閣成立。

      6月17日ーキーナン検事が「天皇は裁かない」と言明。

 

1947年 4月 1日ー学校教育に六・三制を導入。

     10月10日ーキーナン声明「天皇と実業界に戦争責任なし」

 

1948年 8月ー対日経済安定9原則を発表(エロア資金による物資供給を開始し、また集中排除を大幅に緩和した。)

     12月23日ー東条英機らA級戦犯の死刑を執行。

       同24日ー岸信介らA級戦犯容疑者を釈放。

 

1949年 2月16日ー第2次吉田内閣成立。

      7月19日ーGHQ顧問のイールズが共産主義大学教授の追放を訴える。

     10月 1日ー中国人民共和国の成立(ソ連が承認)。

1950年 1月 1日ーマッカーサー声明「日本国憲法は自己防衛の権利を否定しない」

       同 6日ーイギリスが中国共産党政府を承認。

       同31日ーブラッドレー来日し、沖縄の基地及び本土の基地の強化を声明。

      2月10日ーGHQが沖縄に恒久的基地建設を声明。

      3月 1日ー自由党の結成(党首・吉田茂)

      6月25日ー朝鮮動乱が始まる。

      7月 8日ーマッカーサーが警察予備隊の創設を指令。

     11月10日ーマッカーサー旧軍人追放を解除。 

 

1951年 2月 2日ー特使ダレスが米軍駐留のままの講和(平和条約締結)を表明。

      4月11日ーマッカーサーが罷免される。

       同18日ーダレス、リッジウェイ、吉田会談(駐兵問題)

      9月 8日ーサンフランシスコ対日平和条約締結。

            同時に旧「日米安全保障条約」に調印(全権は吉田茂)。

            ※改定された新「日米安全保障条約」は1960年6月19日に調印(日米地位協定が付属している)=岸信介内閣。

             

1952年 2月13日ー日米合同委員会を設置。

 

1954年12月10日ー民主党の鳩山内閣。

 

1955年11月15日ー自由党と民主党が統合して自由民主党が結成される(初代総裁・鳩山一郎)。自由民主党の党是の柱に「自主憲法制定」があるが、いまだ実現していない。

 

1956年10月19日ー日ソ共同宣言。

     12月18日ー国連総会で日本の加盟を可決。

 

1960年 6月19日ー改定・新「日米安全保障条約」に調印。10年の期限付き。

            その後も1年更新の「自動延長」のまま、今日まで続く。

            ~以上~

 

日本が降伏した1945年9月2日以降、連合軍総司令部(GHQ)は矢継ぎ早に日本の戦時体制を打破し、軍国主義から民主主義へと転換を図った。

翌年には民主主義に基づいた「新憲法」を策定するのだが、日本人の構想した「松本案」は受け付けられず、結局GHQサイドの憲法案が優先された。これが現在の日本国憲法であり、俗にマッカーサー憲法と言われるものである。

要するに日本から武力をもぎ取り二度と歯向かわせないようにすることが主眼の新憲法だが、そう決めたにもかかわらず、当時の労働者対使用者間の抗争状況や、「共産主義」を標榜する教育者などの横行で国内治安の乱れがあり、さらに中国で1949年10月に共産党政府が樹立されたことでにわかに東アジア情勢が緊迫してくると、マッカーサーは「憲法で日本の自衛権は否定されていない」として再軍備へと舵を切った。

1950年6月には朝鮮動乱が勃発し、在日米軍の大部隊が半島に投入されると、日本国内は米軍による監視活動が不如意になり、ついに警察予備隊から保安隊へと名目上は国内治安維持のための再軍備が進められたのだ。

(※この時にマッカーサーは吉田首相に「日本も軍隊を出してほしい」と依頼したのが、吉田は「国内が疲弊しきっているというのにとんでもない。復興が優先。」と振り切ったというエピソードがある。)

サンフランシスコ平和条約は安全保障理事会の常任理事国になっていた社会主義国ソ連との間での平和条約は結ばれず、そのため国連復帰はソ連の拒否権に遭ってできなかったのだが、旧民主党の鳩山一郎自由民主党総裁の尽力でなんとか共同宣言に漕ぎつけ、翌年(1956年)の国連総会で承認された。

国連に加盟したということは、もし日本の周辺で紛争が発生し日本が攻撃された場合、安全保障理事会に訴え、その採決による話し合いが不可能であれば「国連多国籍軍」が出動して紛争を収めるのが正当な手順である。

しかし日本はすでに国連加盟の5年前の1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約締結と同時に「日米安全保障条約」を結んでいるため、平和条約を結んだら「他国軍の駐留」は認められないにもかかわらず、米軍はそのまま居座ったのであった。

国連憲章上も「軍事的な二国間同盟(地域的取り決め)は暫定的なものでなくてはならない」としてあるのだが、旧安保の時効である1960年に新安保に調印し、さらに10年後の新安保の時効である1970年以降も「自動延長」(どちらかががもう廃止すると言わない限り永遠に続く)状態のままである。

日米安保があるから日本の安全は保障されているのだから、それでいいではないかという向きならそれでいいだろう。沖縄の基地問題も永遠に続くだろう。

しかしよく考えて欲しい。1989年でベルリンの壁崩壊、翌々年にはソ連邦崩壊。冷戦は過去のものとなったし、中国だけは共産党の一党独裁が続いているが、日本は1978年に平和友好条約を締結して、その前もその後も武力的な衝突はなく、ロシアも日本の経済発展に学ぼうとしこそすれ、武力を掲げて攻めるような理由は全くない。

今や「鉄のカーテン」も「竹のカーテン」もない。

いったい何をびくびくしているのだろう。北朝鮮にしろロシアにしろ中国にしろ、日本に対して攻撃を仕掛けて何の得になろう。むしろ国際社会から囂囂たる非難を浴びて窮地に陥るのはむこうである。

日本がもし「永世中立国(専守防衛力は有する)」を宣言したら、日米安保廃止通告と同じ効力を持ち、一両年後には駐留米軍は撤収するが、そこを狙って攻撃してくるだろうか? 何の理由で?

ソ連邦が崩壊して間もない1992年ごろに、アメリカの司令部の高級軍人が「日米安保は日本を他国から守る役目から、日本の軍事力を監視して抑止する役目へと変貌した」と喝破したが、これが有名な「瓶のふた」論で、アメリカの本音はそれである。

アメリカはもう中国もロシアも日本へ攻撃を仕掛けていく理由など全くないことを先刻ご承知なのである。むしろアメリカびいき(依存症)の日本人が「馬鹿言うな安保がなくなったら大変だ。すぐにやられるぞ」と禁断症状をきたし取り乱すだけの話である。

日本が永世中立を宣言し、それに伴って日米安保を廃棄すれば喜ぶのは中国とロシアだ。喜ぶといっても「さあ、アメリカがいなくなった。日本を攻めてやろうぜ」とほくそ笑むのではなく、これまでの頑なな「歴史認識」を言上げする必要がなくなり、双方との意思疎通が格段によくなるだろう。

一番期待したいのは北方領土問題で、これは日本とロシアとの間で平和友好条約を結べば解決するはずである。プーチンが言うように「日米同盟があるまま平和条約を結んで北方領土を返還したはいいが、そこに米軍基地が置かれたら元も子もない」だろう。しかし安保が廃棄され米軍の駐留がなくなれば北方領土返還は可能となる(シベリア抑留問題を不問に付してやることを条件とすれば案外解決は早いだろう)。