鹿児島でイモと言えばカライモ(サツマイモ)である。当地では琉球から伝来して来たので「カライモ」という。
漢字で書けば「唐芋」だが、唐の時代に大陸から伝来したというわけではない。伝来したのは、徳川政権が生まれてから島津氏が琉球に侵攻して支配下に置いた1609(慶長14)年以降のことで、琉球ですでに栽培されていたサツマイモの苗をひそかに鹿児島に持ち帰り、栽培を始めたのであった。
ただサツマイモの伝来と普及には諸説があり、一般には琉球侵攻(琉球征伐とも言う)後に、指宿市山川の漁師(船子)であった前田利右エ門が琉球からひそかに苗を持ち帰り、近隣に普及させていたのを藩庁が取り上げた――というものである。
これに対して6年前だったか、鹿屋市高須の郷士・右田利右エ門こそがサツマイモ普及の貢献者であったという説を大隅史談会会誌に投稿した人があった。右田利右エ門の子孫だという人である。
この人によれば、家系図の江戸時代の慶長の頃にいた先祖の「右田利右エ門」が藩庁の命令で琉球に渡っており、彼こそがひそかに琉球から苗を持ち帰り、大隅の地に植えたのが始まりだろうという。
たしかに一介の漁師(船子)だったという前田利右エ門に「前田」という姓があるのはおかしいうえ、利右エ門という名も漁師にはふさわしくない名である。そう考えると高須の郷士であった右田利右エ門なら説明が付く。
しかし郷士(武士)の立場で苗を持ち帰ったのなら、藩の古文書などに記載されていてもいいのだが、それは見当たらないという。そこはちと首を傾げる所だが、「ひそかに持ち帰った」というのが真実であれば、サツマイモの苗は琉球王からは、実は門外不出とされおり、そのため苗の持ち帰りについては公表しなかったのだろう。
琉球王から「苗を持ち帰ってよし」という許可を得ていたのであれば、わざわざ「ひそかに持ち帰った」などと書く必要はなく、藩の文書に堂々と「琉球王からイモの苗を授けられた」などと書かれているはずである。
そのあたりも是とし、私は山川(徳光)の前田利右エ門ではなく、高須の郷士・右田利右エ門だという説を推したい。
さて、島津氏の下でこのイモが藩内で普及し出し、さらに江戸に屋敷を構えた島津氏が参勤交代で江戸に上った際にイモと苗を持参し、幕閣に紹介したのだろうか、幕吏・青木昆陽は享保20年(1735年)に『甘藷考』を著してサツマイモの貢献を記すまでになった。サツマイモが琉球から鹿児島にもたらされてからちょうど100年後のことである。
以後、救荒作物として、またもちろん常用の食物としてサツマイモは関東以西に普及していく。薩摩藩ではカライモと呼ばれていたのだが、全国に普及すると薩摩藩由来ということでサツマイモという名称になった。
近隣の畑では天高き秋晴れの下、イモの収穫が急ピッチで進んでいる。
2台の軽トラックの間に、丸々と肥えたイモを詰め込んだ大きな袋がいくつもあり、人々がその袋の前で何か作業をしていた。(後ろに聳えているのは高隈連山=最高峰1270m)
収穫の喜びで作業者たちの顔も晴れ晴れ、と言いたいところだが、2年前から急速に入り込んで来た「基腐れ病」が農家を悩ませている。
この病気は「基ぐされ病菌」(学名は何とか言ったが忘失)により、主にイモツルの側からイモが腐っていく病気なのだが、沖縄由来だそうである。
もともとサツマイモの由来地は沖縄なので、なんだか因縁めいている。ただ、沖縄はもちろん日本だから厳しい「検疫体制」はないのだが、しかしこう大事になってくると、イモの移動が制限されるようになるかもしれない、新型コロナ対策のように・・・。
毎朝、ウメの散歩に出て畑地帯を回ってくるのだが、基腐れ病の出た畑では今年は植え付けを見合わせたところが多く、雑草の生えるに任せた畑もちらほら見える。雑草の中ではセイタカアワダチソウがやけに目に付くようになった。(※最近、鼻炎症状とのどの痛みが出ているが、そのせいだろうか?)