何日前だったか、大隅半島の志布志湾沿岸に位置する東串良町の唐仁古墳群の一角に観光客用の施設(東屋の休憩所とトイレ、駐車場)が新設されたと報道されていたので、出かけてみた。
そこは唐仁古墳群の中で最大の前方後円墳である「唐仁大塚」の西側で、柵越しに周溝を隔てて後円部がまともに見える位置だった。
周溝の幅は20m弱だろう、その向こうに数十本の大木をまとった後円部の端正な丘が見える。
古墳の入り口の方に回ると「大塚神社」の扁額を掲げた結構大きな鳥居が立っている。
この鳥居をくぐると、7、80mはあろうかという参道が一直線に伸び、苔むした階段に到る。
80段くらいの小幅な石段の上には木造の素朴な社がある。これが大塚神社で、この神社はさっき新設の駐車場から見た唐仁大塚古墳の後円部の頂上に立っている。
後円部の高さは現状で11mだそうである。頂上まで上がって参拝し、それから社殿の横に回ってみると不思議なものに出くわす。
板に覆われているのは拝殿と本殿とを結ぶ渡り廊下で、その真下に大きな平たい石が4枚並んでいる。
何とこの下に石槨があり、中に石棺があるのだ。
(※石槨とは石棺を入れておく箱状の石組で、その中にお棺が置いてある。昭和9年に国指定の史跡になったが、その前後に蓋石を開けてみた学者がおり、中に副葬品として短甲を確認したが、石棺の方は上蓋が重すぎて開けられなかったという。)
この4枚の他にもう一枚あったのだが、それは鳥居の横に飾ってある。長さは1mから1.5mくらいで幅は5、60㎝ほどだ。
本来これは石槨を覆う「蓋石」であり、その上には土がかぶさっているのが当たり前だが、このようにむき出しになっているのは珍しい。しかもその上に渡り廊下の足がのっているが、これはさらに珍しい。
かぶせてあった土の厚みが2mはあったろうと推定すると、後円部の本来の高さ(墳丘高)は13mとなる。
後円部の直径は65m、前方部の長さは80mほどで、長径は140~150mを測り、大隅半島部では最も大きな前方後円墳である。
東串良町教育委員会主催の「唐仁古墳群シンポジウム」という冊子には著名な学者の説が載っているが、おおむねそのような計測値であった。
築造年代は学者により幅はあるが、今日では4世紀末から5世紀初頭、西暦では400年前後の築造と推定している。
被葬者は誰なのか――は誰しも思う疑問だ。
学者は「特定の個人だとは解りようがないが、この地方のその時代最高の首長だ」という点では一致している。
また前方後円墳はもとより「畿内型古墳」であるから、この地方と畿内つまり大和王権との強い繋がりがあったことも推定している。
私が興味を持って取り組んでいる「古日向」(鹿児島県と宮崎県を併せた令制国以前の領域。また倭人伝上の投馬国)には大規模古墳として他に「男狭穂塚」「女狭穂塚」「横瀬古墳」「生目古墳」があるが、これらの築造年代順は「生目」→「唐仁大塚」→「男・女狭穂塚」→「横瀬」と考えられるという。
規模は100m以下だが、肝付町の「塚崎古墳群」にも5つの前方後円墳がある。この古墳群は唐仁古墳群よりかなり古いとも考えられているらしい。
このことは当地での伝承で「塚崎の大塚古墳(1号墳=円墳で頂上に樹齢1300年のクスが立つ)は唐仁大塚古墳の主の母である」というのがあると聞いたが、時系列的には整合している。
興味深い伝承だ。
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