鴨着く島

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被団協ノーベル賞受賞後の演説

2024-12-12 10:31:18 | 日本の時事風景
ノルウェーのオスロで行われたノーベル平和賞授賞式の後、被団協の代表田中氏(92歳)による演説は多くの聴衆を感動させたようだ。

自身の被爆の状況をさらけ出し、当時13歳(数え年?)という若い目で見た原爆投下時の長崎の惨状は、聴く者を戦慄させたに違いない。

焼けただれた皮膚がぶら下がり、水を求めて呻いていた人々。もちろん焼け焦げた死体が累々と市街地に散らばっていたのだ。

田中さん自身の伯母を始め5人の親族を失った悲しみは、強烈な閃光を浴びただけで無傷だった自分の身を思うと、余計に増幅したらしい。

その後、自分の身に起きた原爆症の数々は絶えることなく続き、それらを乗り越えて今日まで核廃絶を訴えて来た。まさに生き証人である。

(これはNHKの番組から撮影)
日本で原水爆禁止を求める団体が結成されたのは、意外と新しく、と言っても68年前の1956年のことである。

後しばらくの被占領時代は米国による規制が効いていて難しかったらしいが、1954年に太平洋上でマグロ漁船「第5福竜丸」がアメリカの水爆実験に遭遇して死の灰を浴び、船長はじめ数人が命を落とした事件のあとに開始された。

それ以降、核保有国が実験をするたびに反対運動の中心となって来たが、日本政府に対しては被爆者の国家賠償を求め続けて来ている。

1981年に国連で被団協から山口仙二という人が「ノーモア広島、ノーモア長崎」と叫んでから被団協の活動が国際的に認知され、その流れを受けたNGO団体「you-can」が核兵器禁止国際条約を主導したとして2018年にノーベル平和賞を授賞している。

その根本的な被団協による運動が長崎・広島を中心に継続的に行われてきており、ようやく今度の平和賞に辿り着いた。

遅きに失した感があるが、ウクライナとガザの戦争状態を目の当りにしている今日、より大きな意義がある。

被団協の日本政府への賠償(被爆者への保障)要求は、本来一般民間人への無差別殺傷を禁じている戦時国際法に違反した米国に対して行われる筋のものだと思うのだが、そのことを抜きにしても田中熙巳氏のー

『核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう』

という演説最後の訴えは、92歳翁の人類への信頼と愛情に下支えされた警鐘と受け取ることができる。

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