鴨着く島

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大隅へ初めての行幸(行啓)

2023-10-09 10:25:22 | おおすみの風景

「行幸」とは古めかしい言葉だが、天皇が宮殿を離れて各地に赴くことをいう古語だ(皇后の場合は行啓)。

10月7日に始まった第75回国民体育大会はコロナ禍で延期になり、先送りして今年開かれたもので、「特別国体」と称されている。

この国体の名称は今年限りで、来年度からは「国民スポーツ大会」となる。鹿児島県に順番を譲ってくれた佐賀県での大会が新名称で開かれる初めての大会になる。

天皇皇后両陛下は鹿児島市の白波スタジアムであった開会式に臨まれたあと市内で宿泊され、昨日(8日)、特別フェリーで鴨池港から垂水港へ移動されたあと、垂水市体育館で行われていたフェンシング競技をご覧になった。

垂水市に来られた時点で大隅半島への初行幸となったわけだが、今回は両陛下御揃いなので「行幸・行啓」とがセットになる。しかしこの表現は余りに古めかしい。だから新聞などメディアは「ご訪問」としてある。それが今日的には正解だろう。

タイトルでは「大隅初めての行幸」としたが、これは「現(今上)天皇としては初めて」なのであって、実は祖父に当たる昭和天皇は昭和10年11月に大隅にお出でになっている(これはまさに行幸だ)。

その時、吾平山陵を親拝されたのだが、この時は宮崎・鹿児島陸軍特別大演習の指揮者(元帥)としてで、古江港から古江線の吾平駅まで列車で移動され、駅頭からは御料車で出来たばかりの山陵道路を通って吾平山陵まで行かれている(吾平町内の名士が付き添いに出たが、その中に当時下名小学校の校長だった私の家内の祖父もいた)。

さらに昭和天皇は戦後のいわゆる「全国巡幸」の旅に出られ、鹿屋市を訪れた際には鹿屋市の中心部に所在する「平田邸」を宿としたと聞く。

昭和天皇は以上のように大隅へは戦前と戦後の2回行幸をされている。

また、まだ皇太子だった上皇様は正田美智子さん(美智子上皇后)と結婚されて間もなくの昭和34年に吾平山陵を参拝されている。(※天皇としては昭和60年の夏だったか、「豊かな海づくり大会」なる行事に臨席されるため指宿に行幸されたことがあったと記憶する)。

今回は今上天皇・皇后両陛下が初めて大隅半島をご訪問されたことになる。

昨日の朝、鹿屋市野里町にあるサツマイモの生産加工の商事会社を視察に訪れるという市役所の放送があったので、午後、我が家から3キロほど先にある野里町の沿道に行った。

あいにくの小雨だったが、道路警戒に出動している栃木県や宮崎県警の機動隊員が「乗っておられるお車はセンチュリーという黒塗りの高級車で、ナンバープレートは無く、先端には菊の御紋章が付いています」などと解説してくれて愉快だった。

そして沿道で待つこと40分後の2時半過ぎ、白バイや危機管理車のようなタイプの屋根に4,5本のアンテナを立てた車の後ろから、両陛下の乗る御料車がやって来た。

私の隣りには10名くらいの高齢者施設の入所者と職員らしき人たちが手作りだという日の丸の小旗を振って並んでいたが、目の前を通り過ぎる直前に後部座席の沿道に近い席にお座りになっていた雅子様がそれに気付かれたのだろう、にっこりとして手を振り返していたのが印象的だった。

天皇陛下は沿道側の席ではなかったので見えづらく、自宅に帰ってから映したカメラのビデオ機能の画像を繰り返し再生したら、雅子様が手を振られたその奥に沿道を眺める陛下のお姿がチラッと・・・。

帰り道で、野里町に住む知人の家に立ち寄ったら、地元の高齢女性2人も来ていた。知人たち3人は別の沿道でのお迎えだったといい、そこを担当する山口県警の職員と話が弾み、結局スマホの写真は撮れず仕舞いだったそうだ。よほどのイケメンだったのだろう。

今朝の南日本新聞の一面にサツマイモ加工所(南橋商事)の視察のお姿が載った。サツマイモの畑にも行かれる予定だったが、雨のため加工施設内だけになったようだ。

 


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