今週の月曜日(8日)の午後、都城の隣り町三股の従姉から連絡があった。
連れ合いが亡くなったというのである。
急な逝去であり、驚いたが、昭和2年生まれの96歳の高齢であったから動揺はしなかった。
死因は肺炎。生前はかなりのヘビースモーカーであったので、「さもありなん」と思うことだった。
実は2年前に訊ねた時に、やや覚束ない手でタバコに火をつけて例の如く吸っていたので、「火の出るタバコは火事を起こす危険性が高いから電子(加熱式)タバコに変えたら」と提案し、加熱式タバコのセットをプレゼントしたのだが、使い勝手に面倒があり、長続きせず元の紙巻きたばこに戻っていたようだ。
しかし亡くなる10日くらい前からその愛煙タバコも吸いたくなくなっていたと聞いたし、食欲も落ちていたというから、この世を去る準備に入っていたと思う。
9日の火曜日がお通夜で翌10日の水曜日が葬儀であった。
この人はカトリックの信者であったので、お通夜も葬儀も都城市内のカトリック教会で行われた。
教会の神父と信者(キリスト教では信徒)仲間による司会とオルガン演奏で、通夜のミサ、葬儀のミサが執り行われたが、祈りの言葉が常に唱えられ、オルガン演奏に合わせて唄われる讃美歌が他の宗教にはない「にぎやかな葬儀」を演出していた。故人にも聞こえていたかもしれない。
葬儀に引き続き告別のミサがあり、教会の祭壇の前にあった棺桶が仲間に支えられて霊柩車に移動し、そのまま市内の外れにある火葬場へ。
火葬場でも神父と信徒による祈りが捧げられ、荼毘に付された。
骨上げまで間があるということで、皆は教会に戻り、集会室で昼食の弁当を囲み、生前の個人の話などをして過ごした。
1時間後に再び火葬場に行き、いよいよ「骨上げ」である。骨壺には基督教らしく十字の文様が描かれていた。キリスト教では本来は土葬なので、火葬場での「骨上げ」は日本式になっており、その際のしきたりも日本式である。
骨上げの最大の特徴は使う箸の形状と材質だ。長さも太さも違う竹製の一本と木製の一本がセットになっているのだ。日常で「違い箸」を忌むのはこの習慣から来ているのだが、骨上げではわざわざ「違い箸」をするのは、逆に違った橋の使い方をすることと一回きりで捨て去ることで、日常から切り離す意味があるのだろう。
また違い箸で二人が同じ骨を挟むのも、日常とはかけ離れた世界を演出しているに違いない。
納棺の際にはどの葬儀でも花々と個人が愛用した物を入れるのだが、キリスト教ではタバコや書物は認められても「茶碗と箸」は入れないそうである。事実、個人の残したタバコの三箱ばかりと、文庫本が数冊入れられたが、茶碗と箸は除外された。
ところで箸は東アジア特有の文化製品だが、箸が東アジアで普及したのはどうも魚を食べる食生活からのように思われる。

魚を食べる際に面倒なのは小骨が多いことだ。しかし先のとがった箸を使えば、小骨でも分けて取りやすい。
これがステーキとなると箸では分けるのに難儀をする。フォーク・ナイフの出番だろう。
日本人を筆頭に東アジア人の手先が器用なのも、この箸を常用してきたことから生まれたのではないだろうか?
箸は主に木製で、スギ材などの間伐材や端材を使って作られる。かつて割り箸の功罪論で「使い捨てはままならぬ」とばかり、マイ箸が流行ったことがあったが、確かに一度使ったきりで捨ててしまうのはもったいない。
しかし日本では戦後の「拡大造林」後の手入れが後手に回って放置山林が増えており、建築用に向かない木材が箸にでもなればそれに越したことはない。
火葬後の骨上げに使う違い箸はもちろん一度きりの使用だが、割り箸はきれいに洗えば園芸用などの用途があり、リユースの優れものでもある。
連れ合いが亡くなったというのである。
急な逝去であり、驚いたが、昭和2年生まれの96歳の高齢であったから動揺はしなかった。
死因は肺炎。生前はかなりのヘビースモーカーであったので、「さもありなん」と思うことだった。
実は2年前に訊ねた時に、やや覚束ない手でタバコに火をつけて例の如く吸っていたので、「火の出るタバコは火事を起こす危険性が高いから電子(加熱式)タバコに変えたら」と提案し、加熱式タバコのセットをプレゼントしたのだが、使い勝手に面倒があり、長続きせず元の紙巻きたばこに戻っていたようだ。
しかし亡くなる10日くらい前からその愛煙タバコも吸いたくなくなっていたと聞いたし、食欲も落ちていたというから、この世を去る準備に入っていたと思う。
9日の火曜日がお通夜で翌10日の水曜日が葬儀であった。
この人はカトリックの信者であったので、お通夜も葬儀も都城市内のカトリック教会で行われた。
教会の神父と信者(キリスト教では信徒)仲間による司会とオルガン演奏で、通夜のミサ、葬儀のミサが執り行われたが、祈りの言葉が常に唱えられ、オルガン演奏に合わせて唄われる讃美歌が他の宗教にはない「にぎやかな葬儀」を演出していた。故人にも聞こえていたかもしれない。
葬儀に引き続き告別のミサがあり、教会の祭壇の前にあった棺桶が仲間に支えられて霊柩車に移動し、そのまま市内の外れにある火葬場へ。
火葬場でも神父と信徒による祈りが捧げられ、荼毘に付された。
骨上げまで間があるということで、皆は教会に戻り、集会室で昼食の弁当を囲み、生前の個人の話などをして過ごした。
1時間後に再び火葬場に行き、いよいよ「骨上げ」である。骨壺には基督教らしく十字の文様が描かれていた。キリスト教では本来は土葬なので、火葬場での「骨上げ」は日本式になっており、その際のしきたりも日本式である。
骨上げの最大の特徴は使う箸の形状と材質だ。長さも太さも違う竹製の一本と木製の一本がセットになっているのだ。日常で「違い箸」を忌むのはこの習慣から来ているのだが、骨上げではわざわざ「違い箸」をするのは、逆に違った橋の使い方をすることと一回きりで捨て去ることで、日常から切り離す意味があるのだろう。
また違い箸で二人が同じ骨を挟むのも、日常とはかけ離れた世界を演出しているに違いない。
納棺の際にはどの葬儀でも花々と個人が愛用した物を入れるのだが、キリスト教ではタバコや書物は認められても「茶碗と箸」は入れないそうである。事実、個人の残したタバコの三箱ばかりと、文庫本が数冊入れられたが、茶碗と箸は除外された。
ところで箸は東アジア特有の文化製品だが、箸が東アジアで普及したのはどうも魚を食べる食生活からのように思われる。

魚を食べる際に面倒なのは小骨が多いことだ。しかし先のとがった箸を使えば、小骨でも分けて取りやすい。
これがステーキとなると箸では分けるのに難儀をする。フォーク・ナイフの出番だろう。
日本人を筆頭に東アジア人の手先が器用なのも、この箸を常用してきたことから生まれたのではないだろうか?
箸は主に木製で、スギ材などの間伐材や端材を使って作られる。かつて割り箸の功罪論で「使い捨てはままならぬ」とばかり、マイ箸が流行ったことがあったが、確かに一度使ったきりで捨ててしまうのはもったいない。
しかし日本では戦後の「拡大造林」後の手入れが後手に回って放置山林が増えており、建築用に向かない木材が箸にでもなればそれに越したことはない。
火葬後の骨上げに使う違い箸はもちろん一度きりの使用だが、割り箸はきれいに洗えば園芸用などの用途があり、リユースの優れものでもある。
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