鴨着く島

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「どうすればよかったか?」を鑑賞

2025-02-15 14:08:50 | 日記
昨日は鹿児島市の天文館にあるマルヤガーデンズシネマという所で上映されている『どうすればよかったか?』というタイトルの映画を見に行った。

3週間前くらいだったか、新聞にこの映画の紹介欄があり、それを読んでぜひ見たいと思ったのだ。

映画の紹介によると、俗に言うドキュメンタリー映画で、27歳の頃に統合失調症になって30数年後、60代の前半で死ぬ姉の、言葉は悪いが「異常な言動と行動」を映画製作を学んだ8歳下の弟が間近に映したものである。
この映画を紹介するパンフレットの下半分に印刷された家族写真。

これは誰が写したのか分からないが、どうやら父親が還暦を迎えたお祝いの記念写真のようだ。

赤いちゃんちゃんこ姿の父親の隣りには母親が座り、母親の向かい側に制作者の姉が写っている。

映画の中のナレーションによれば、この時点で父親(昭和元年生まれ)が60歳、一つ下の母親(同2年生まれ)が59歳、向かいの姉(雅子)は昭和33年生まれで27歳、そして弟の知明は41年生まれの19歳であったと思われる。

ただし、弟のビデオカメラが映したのは姉が45歳くらいになってからの約20年間のもので、この写真が写されたあとの17,8年の姉はいわゆる引きこもり状態であったようだ。

父親も母親も医学者でそれぞれが研究職であったという。

そんな両親のもとで育った姉は、両親の期待に応えようと3年も浪人をして大学の医学部に入ったのだが、専門課程に入ってから急にわめき散らすようになり、いわゆる精神分裂(統合失調)の症状を見せるようになったという。

上の写真はちょうどその頃の写真で、姉が異常を見せる直前か直後の姿である。

一見しただけでは姉の異常は微塵も感じられないが、このあとにさらに異常な言動を見せ、母親が救急車を呼ぶような事態になったという。

このことがあってから両親は姉を精神科に連れて行ったのだが、父親の判断で精神科から家に連れ戻した。

結局その後は自宅で「療養」することになった。ところが数年後に姉は突飛な行動をとることになる。

それは誰にも言わずにアメリカに渡ったのだという。ところが向こうで挙動不審だったために、連れ戻されている。
 
このことがあって以来、両親は家の玄関を南京錠と鎖でロックし、姉がが外出できないようにした。

こんな状態を見ていた弟の知明は、専門学校で学んだ映画技法によって自分の一家の様子を撮影するようになった。

家族内だけの話なので誰にも知られたくないと誰しもが思うのに目をつぶり、赤裸々な家族の日常を映そうと決意したのである。

弟の知明が映像の専門学校に通い始めた昭和の末頃から徐々に撮影し始め、平成に入ると毎年のように実家を訪れて、両親と姉の日常をカメラに収めたのであった。

平成に入ってからの姉はほとんど語ることはなかったのだが、たまさか母親の妹が訪問した時など、口汚くののしることがあった。

そのあたりについて、弟の知明がコメントすることはなかったが、私はオヤこれは何かあるな――と感じていた。

2010年か11年に母親は83歳でこの世を去るのだが、この少し前から姉は精神科に罹り、処方された薬がとても効いて、かなり通常の姿に戻っていたのだが、母親の死の後は普通なら落ち込むのだが、姉はむしろ異常を完全に克服したのではないかと思えるほどの回復した姿を見せていたのである。

そこで私が思ったのは、姉は実は母親との確執があったのではないか――ということであった。

母親は戦後まもなく女子医専に入り、医者とはならずに医学研究者となり、同僚の父親と懇意になって結婚したのだが、1958(昭和33年)に娘を生んでからも研究者として共働きを続けていたようだ。

日中姉の面倒を見る人が誰かは映像にはないが、おそらく母方の誰かではないかと思われる。しかし姉としては実母がそばにいないことに危惧を感じていた幼少期だったのだろう。

小学校、中学校と姉は素晴らしい成績だったようだ。そして迎えた高等学校、この時も成績は良かったらしいが、多分、母親の希望だったのではないかと思われるのだが、大学の医学部への進学を所望された。

母親は女子医専という正式の医学部の卒業生ではなかったため、子供には新制大学の医学部を目指して欲しいと思ったのではないだろうか。

弟の知明氏は「自分は血を見るのが嫌いなので医学部には行かない」と決めていたらしいのだが、姉の雅子さんは両親の手前、「医学部に行かなければ」と思い定めていたようだ。

一方父親は昭和元年の生まれであるから戦後の新制大学の医学部に入学しと思われる。

私は最初に映画の中で父親の姿を見た時に、「この人は相当神経質だな」と感じたので、娘への容喙が多く、ために娘がおかしくなったのではないかと思ったのだが、あにはからんや娘への寛容性が強く、決してああせいこうせいと煽るようなタイプではないと確信した。

制作者である弟は姉の異常を抑えるためには「どうすればよかったか?」とこのドキュメンタリーで投げかけている。

鑑賞した私としては、

――母親が日常的にそばにいて娘(子ども)を自分の期待通りに行かせようとするのは、母子間の信頼関係があるので無理(子どもの負担)にはつながらないのかもしれない。

しかし常日頃はそばにいないで働きに出ている場合、母と子の基本的な信頼感に齟齬があり、そういう状態で期待通りに行かせようとするのは無理がある。

無理強いすれば子どもは従わざるを得ないが、心の中で母子間の信頼感は薄れ、子どもとしてはどうして良いか分からず、心理的に追い詰められる。そしてそれがもとで統合失調になり始める。

だから母親は子どもの異常や失調を感じたらすぐに寄り添わなければならない。

という結論になった。

実は我が家でも似た事例があった。

両親が教師でありながら弟が中学2年の時に登校拒否になったのである。

こんな時、母親が弟のそばに寄り添うことがあれば軽微のうちに立ち直り、再び学校に通えるようになったと思うのだが、何とか高校に入ったのも束の間再び登校できなくなった。

そして神経科に通い始めて「自律神経失調症」という診断が下されながらいくつかの高校に通いつつ、結局、最終的には定時制の高校を出たのだが、その後の弟は精神科にか出たり入ったりの人生を歩み、32歳でこの世を去ってしまった。

我が家の「どうすればよかったか?」の結論は、「弟が登校拒否をした時点で母が教師をやめて弟に寄り添えばよかった」ということになる。








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