鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

北京冬季オリンピックが終わる

2022-02-21 13:58:34 | 日記
2月4日から昨日20日まで17日間の北京冬季オリンピックが幕を閉じた。

新型コロナ対策のため、観客は全く入れずに行われたが、地元はいざ知らず、遠く離れた他国からの観戦にとって全く問題はなかった。

ただ、会場内に響き渡るであろう観客の歓声がないのは異様と言えば異様だが、すでに去年8月の東京オリンピックでも経験済みだ。

また選手たちや役員たちも去年と同じように「バブル」の中で過ごさざるを得ず、その待遇には悲鳴が上がる場面もあったが、致し方あるまい。

それよりやはりというか、中国の感染対策の徹底には驚かされる。選手も関係者も報道陣もすべて毎日、PCR検査を受けなければならなかったのだ。

しかしそのレベルの「強制」は、感染者が出た中国の町では当たり前のようで、いわゆる「ロックダウン」だが、この2年間でいったいどのくらいのロックダウンが行われたのだろうか。共産党一党独裁の国家主義国の「面目躍如」に違いない。

欧米でこんな厳しい措置が行われたら、たちまちブーイングの嵐となり、デモさえ行われ、時に暴動と化すだろう。ヨーロッパの某国ではマスクさえ嫌われている。心身を束縛されるのを極度に嫌う風潮があるのだ。

国家による強制・規制は最小限に、というのが欧米流の自由主義であり民主主義なのは承知だが、それは歴史の教訓から得たものなのか、それとも国民性(民族性)なのか。

歴史好きの自分から見れば、やはり長い歴史の反映であろうと思うのだが、しかし自由に多数の人々と交流する際に、感染が全く収まらない中、エチケットとしてのマスク着用は必要だろう。

それを厭うとすれば、その理由は何だろうか?

欧米の人たちは見知らぬ人とでもハグをしたり、時にはほっぺにキスしたりするが、そういった身体接触を何とも思わない(というか好んでする)伝統がある。その際にマスクをしたままでは都合が悪いのは当然と言えば当然である。

それにマスクはその人の顔の全貌を半分以上隠してしまうから、それも嫌われる要因だろう。どこの国でも銀行強盗は必ずマスクかそれよりもっと顔を隠せる目出し帽をかぶっている。

その一方で日本ではもうマスクのない「素顔」の生活は考えられないという人も出ているくらい、マスク大国だ。2月半ばからスギ花粉が飛び始めているからマスクへの執着は一層強まっている。(※私もだ。花粉症歴、もう30年になる。)

花粉症に罹っている時期に、自分の周りの人たちのほとんどがマスクをしていない中、自分だけがマスクをして銀行やコンビニに入った際、何となく長居しづらいことが多かったが、このコロナ禍の2年は皆がマスクをしているので気が楽である。

今度の北京オリンピックでは会場に一般市民の姿が見られないので判断しづらいが、少なくとも会場で同じ国の選手を応援している選手・関係者でマスクをしていない人は見当たらなかった。

報道の画面でフィギュアスケートの羽生弓弦選手の追っかけの若い女性たちが映ることもあったが、彼女たちもちゃんとマスクをしていたから、おおむね中国人もマスクへの違和感がないと見えた。

それにしても羽生選手の人気は絶大だという。容姿もだが、真摯に競技に向き合う姿が好ましく映るのだろう。それは日本でも同じことだ。惜しくもクワッドアクセル(4回転半)は転倒してしまい、メダルには届かなかったが、そのことは人気に全く影響しないようだ。

男子フィギュアでは銀が鍵山優真選手、銅が宇野昌磨選手だったが、鍵山選手はまだ高校3年生、宇野選手は24歳。特に鍵山選手はまだまだ伸びしろが大きく、クワッドアクセルを難なく飛びこなせるようになるのではと期待している。

金メダル3,銀メダル6,銅メダル9、合計18個のメダルは平昌オリンピックを上回り最多だそうだが、金メダルを獲得したのが女子スケートの高木美帆選手、スキージャンプの小林陵侑選手、スノーボードの平野歩夢選手、と競技種目が三人三様であり、日本選手団の層の広さが際立つ。

どの競技も金メダルを取ったからといって収入が激増するというわけではなく、それぞれ自分の納得がいくまで競技に取り組む姿勢は清々しい。

どこかの国ではオリンピックを興行化して金まみれにしたが、その国の選手はオリンピックには出たがらないそうだ。稼ぎにならないからだという。

その点、中国のような国家主義の一党独裁国家は、「国威発揚」こそがオリンピックの狙いになるから、金メダルを取れば英雄視される。北朝鮮ほどの「将軍様のためによくやってくれた、よしよし、褒美を取らそう」とはならないだろうが、オリンピックでの好成績には国家によるかなりの褒賞が与えられるはずだ。

日本はそのどちらでもなく、成績は成績、人気は人気、そして選手個人は選手個人で、べらぼーな賞金や賞品は出ない。それこそがアマチュアスポーツの祭典にふさわしいやり方だ。世界もそれを見習うべきだろう。


容認・黙認・諦認

2022-02-20 20:42:35 | 日本の時事風景
鹿児島県の離島である種子島の西之表市に属するさらなる離島「馬毛島」に、米軍のFCLP(艦載機離着陸訓練)のための飛行場建設を巡って、当の西之表市と中種子町および南種子町との間がぎくしゃくした関係に陥った。

そのわけは、飛行場建設を巡り反対の市長を持つ西之表市と、賛成の首長を持つ中種子、南種子の3市町のあいだに関連する自衛隊施設の構築のための予算配分を巡って大きな齟齬があり、政府が基地建設に反対する西之表市には少なめに交付し、自衛隊施設を中種子と南種子に優先的に交付すると言って来たからだ。

具体的に言うならば「補助金」、要するに現ナマの配分に相当な差のできたプランを防衛庁から示されたのである。

環境アセスメントの報告が出てもいないのに、政府は米軍の言い成りになり、馬毛島にFCLP対応の米軍基地が生まれるように仕向けているのだ。「強固な日米同盟(日米安全保障条約)」がある限り、このような「上から目線」的取り決めをやめさせることはできないのが実情だ。

西之表市長は「馬毛島の基地化には反対だ」という初期の信念から「環境アセスメントが済んでから基地建設の是非を考えるべきだ」と若干留保するような主張に変わり、それが政府防衛省予算に整備費(約3500億円)が盛り込まれてしまったことで、そうなった以上は反対してもしょうがないという気持ちになったのだろう。

先に防衛省を訪れ、西之表・中種子・南種子の3市町の自衛隊施設建設にあたっては、差別的な待遇をしないでほしいという要望書を提出したが、もう声高に反対するようなことはなかったと聞く。

これを取り上げて、市長は「容認」したのか、いや「黙認」してしまったのかという見方が出て来ているが、私に言わせればこれは「諦認」だろう。つまり「諦めの境地」に入ったということである。

どれほど反対しても、日本の防衛に関しては「日米安全保障条約」が「最高法規」なのだ。別言すれば「防衛は民主主義を凌駕している」のである。

我々一般市民が防衛問題で意見を述べても決して通らないという状況は、沖縄の普天間移設問題で明確なように、これまでもこれからも民主的な解決は不可能だろう。

  

春は名のみの…

2022-02-18 10:16:01 | おおすみの風景
今朝のウメの散歩は寒かった。

まだ薄暗い7時前に出たのだが、風が強い。いつもは西寄りの風なのだが、今朝はほぼ真北からの風だった。

気温は2℃と氷点下ではないのだが、強い(といっても3m/秒かそこらだが)北風を受けて体感は零度以下だ。

今の季節は春分を過ぎて春は一段と近づき、日中はかなりポカポカするのだが、1月もだったが今月に入っても曇り空が多く、ポカポカ陽気はまだ一日もない。

まさに唱歌『早春賦』そのものだ。「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思へど 時にあらずと声もたてず」

<まだ鶯が庭先にはやって来ないで、谷や野の藪の中に居る。ホーホケキョと流露なさえずりを聞かせたいのだろうが、まだその時ではないと思っているのか>

唱歌はいつも季節感たっぷりの情趣を詞で表現している。永遠に歌い継ぎたいものだ。



我が家の庭では梅は盛りを過ぎ、この1週間で河津桜の花が日に日に蕾を開くようになった。



ソメイヨシノよりも一月半くらい早く咲くこの桜は、山桜と緋の寒桜の交配種らしいが、ほんのりと赤みを帯びているのは緋寒桜の赤い色が出ているのだろう。北風に耐えていじらしい姿を見せている。

寒風の中に咲くのは梅だけではない。優美なうす紫色の隼人ミツバツツジも、咲き出す準備を始めるているからもう間もなく咲くだろう。


”絶望”は希望へ!

2022-02-16 14:09:04 | 日記
北京冬季オリンピックも終盤に差し掛かり、今日16日は女子フィギュアスケートの個人種目が行われている。

1週間前に行われたフィギュアスケート国別団体では、ロシアオリンピック委員会(ROC)が優勝したのだが、その中に参加していたフィギュアスケーターのカミラ・ワリエラという15歳の女子選手が、検体(尿)の中に禁止されている成分が含まれていたということが分かり、物議をかもし、IOCがスポーツ仲裁裁判所に訴えたが、16歳以下であり保護の対象であるという理由で彼女の「出場資格はく奪」という訴えは却下された。

不可解なのが、この検体自体は去年のロシア選手権に提出されたものであり、何を今さら今度のオリンピックで陽性云々が持ち出されなければならなかったのかということである。

その当時、ロシアオリンピック委員会はいったんはカミラ・ワリエワ選手の出場を取り消したそうだが、結局は出場できることになったらしい。つまり12月の選手権での陽性反応は無いことになり、それを隠して出場したわけである。

誰かの後押しがなければ・・・、ということだが、それが誰かはおおむね察しが付く。カミラ・ワリエワを「国家的スケーター」として国威発揚のアイテムにしたいのだ。

旧ソ連を含む共産圏はおおむね「国家主義」でもあるから、日本なら「国民的女優」「国民的スケーター」などというのはすべて「国家的女優」「国家的スケーター」と言われ、国威発揚の手段として称揚されるのが常で、日本の戦前・戦中を思わせる扱いである。

カミラ・ワリエワはまさにそれを地で行く存在で、かの国の期待の大きさは想像以上だろう。彼女はニックネーム”絶望”を進呈されているという。その意味は「ワリエワと同じ競技で競う選手は、彼女のハイレベルさにはどうしても歯が立たないので、”絶望するしかない”」ことから付いた愛称(というには語呂が悪すぎるが)ということである。

そのワリエワは今日のフィギュア個人のショートプログラムで、予想通り首位に立った。明日行われるフリーでもおそらく問題なくトップに立つだろうから、金メダルを手にしよう。

ただ、団体戦後の表彰式(メダル授与式)は行われなかったから、この個人戦でも表彰式はカットされるだろう。何しろワリエワ自身が「祖父の飲んでいた薬が自分の口に入ってしまった」と弁解がましく、陽性を肯定してしまっているのだから・・・。

しかし金メダルを取れば、陽性云々などお構いなしに、まさしく「国家的女子フィギュアスケーター」(北朝鮮なら国家的スポーツ英雄)となり、国から様々な特権を付与される。一夜にしてシンデレラガールになるのだ。

(※アメリカの選手だと、もし金メダルを取ったら放送局の取材やスポーツ関連のメーカーなどの広告に引っ張りだこになり、一夜にしてというわけではないが、かなりの金銭的収入が入る。国家からではなく民間からだが、結果的にはそう変わらない。)

”絶望”というニックネームを奉られたロシアのカミラ・ワリエワ選手も、スポーツ仲裁裁判所の同情的な裁定のおかげで、「国家的スターになれるという希望」にいま胸を膨らませていることだろう。


カミラという名で連想するのが、イギリス皇太子チャールズの愛人から、あのダイアナ妃の死後に妻になったカミラ夫人のことだ。

「カミラ」という名が何に由来するのだろうか。二人のカミラの語源が同じだったら面白い。

向こうのカミラは、今年即位70周年を迎えるエリザベス女王から直々に「王妃になって欲しい」と言われたようなのだ。

カミラという女性の氏素性は知らないが、一般家庭の生まれだったとしたら、こっちもシンデレラガール、いやロシアのカミラ以上の本物のシンデレラガールではないか。

今さら遅すぎる気もしないではないが、エリザベス女王が今日という時代の流れを巧みに取り入れた結果であり、カミラ夫人も希望を胸にしていることだろう。


(追記)
番狂わせが発生!

フィギュア女子個人フリーが終わり、カミラ・ワリエワ選手は何と総合4位に沈んだ。

その結果4位だろうと思われた日本の坂本花織選手が3位のままに残り、銅メダルを獲得した。浅田真央選手のバンクーバー大会(2010年)の銀メダル以来12年ぶりの日本人メダリストとなった。

優勝はROC(ロシアオリンピック委員会)に属するアンナ・シェルバコワ、二位は同じくアレクサンドラ・トルソワ。もしカミラが回転で転倒を3回しなかったら、優勝していたかもしれない。そうだったらROCの独壇場だったのだが、ドーピング疑惑のカミラに関しては順位保留となり、表彰式がまた開かれないという異例の事態を2度迎えたことになる。

まぁ、女子フィギュアに関してはこれで一件落着か。

スピードスケート女子1000mでは日本の高木美帆選手が金メダルだったが、これも大した記録だ。日本人の女子初の金メダルという点もだが、最後の最後にオリンピック新記録をたたき出したのだから、こっちの方が一段上だろう。努力のたまものというしかない。

カミラ選手については気の毒というしかない。結果論だが、そもそもオリンピックに出場させたのが悪い。これで彼女の希望は打ち砕かれ、本当の”絶望”になってしまった。

天智天皇の死を巡って3⃣(記紀点描㊻)

2022-02-14 10:30:41 | 記紀点描
薩摩藩が幕末に編纂した『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には天智天皇の事績が多く見られる(以下文中では単に『図会』と書く。準拠したのは青潮社版である)。

鹿児島藩に属した「揖宿郡」「頴娃郡」「諸県郡志布志郷」に主に見られるのだが、すでに述べてきたように頴娃郡の開聞神社(その新宮である揖宿神社にも)では大宮姫と暮らしてそこで崩御し、墓もあるという(天智天皇の死を巡って1⃣、2⃣)。

今回述べる3⃣では志布志郷を取り上げるが、志布志郷の東北に聳える御在所岳(標高530m)には御廟があるといい、安楽村には天智天皇と皇子・皇后・妃・娘そして持統天皇を祭る「山口六社大明神社」が鎮座している。果たして御廟のあるというここ志布志で崩御したのだろうか。

【薩摩藩諸県郡志布志郷に見られる天智伝説】

志布志郷は大隅半島の要津だが、大隅国肝属郡ではなく日向国の諸県郡に属している。宮崎県都城市への海からの入り口という位置付けであった。

ここ志布志にも天智天皇が巡見に来たという伝承が残っている。

志布志郷の〈山水〉という章の「御在所岳」項は次のように記している。

<往古、天智天皇が薩摩国頴娃開聞の地に行幸した時(1)、志布志郷安楽の海岸に着船し、土地の古老に開聞岳の方向を尋ねたところ、御在所岳の山頂からはよく見えるということで登って眺めた。この年の5月5日に頴娃に到り、9月9日まで滞在(2)してタマヨリヒメ(大宮姫)を寵愛した。翌年5月18日(3)にタマヨリヒメ(大宮姫)は乙宮姫を産んだ。

天皇は頴娃から志布志に帰って来たが、頴娃のことが忘れられず、この地に行宮を建て、「私が死んだあと、ここに廟を営むべし」と言い残し、
冬に(4)志布志の港から都に帰った。

天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日(5)、御在所岳の絶頂に神廟を建て、山宮大明神と称した。>(『図会』第4巻P.1000)

この中でタマヨリヒメとあるのは大宮姫のことだが、これは「山口六所大明神社」の祭神が大宮姫ではなくタマヨリヒメとしてあることと整合させたものと思われる。このことは逆に志布志の伝承と頴娃開聞の伝承とは互いに独立していたことが分かる。

志布志のこの伝承の大きな特徴は、下線の部分(1)から(4)のように月日が明確に記されていることである。これを時系列で並べると、

(1)天智天皇の頴娃開聞への行幸の年
(2)(1)の年の5月5日から9月9日まで頴娃開聞に滞在
(4)(1)の年の冬、志布志の港を出航し帰京
(3)(1)の年の翌年、5月18日にタマヨリヒメが乙宮姫を産む

となる。結局(1)の年が判明すれば、(2)から(4)までの年が特定できる。(※ただし(5)については神社の由来記などに記された年月日であろう。これは正確かと思われる。)

(1)の頴娃行幸の年は憶測の域を出ないが、「天智天皇の死を巡って2⃣」で述べたように、開聞社の巫女である大宮姫は663年の白村江戦役の「戦勝祈願」に招聘されたが、結果として惨敗を喫してしまったため追い立てられるように頴娃に送還された。

しかし筑前にいる間に天智(当時は即位前の中大兄皇子)の寵愛を受けており、あまつさえ子を身籠っていた(2⃣の「久多島大明神」の伝承)ので、よほど気がかりだったのだろうか、大宮姫に会いに来た。

その時期を考えると、白村江の戦役で敗れた663年8月28日以降であることは間違いない。中大兄皇子は筑前朝倉宮で戦役の指揮を執っていたが敗れたため、本来なら即日に大和へ帰るべきところ、戦役からの帰還兵や百済からの亡命人などの上陸等で繁忙を極めていた。翌年の2月9日には「冠位26階制」を定めたとあり、また防人の制度を始めている(天智3年条)から、663年の秋以降は大和に帰っていた。

しかしその翌々年の665年、2月に百済の亡命人たちを近江に置き、8月には長門と筑紫に城(水城)を築いているから、この時点では天智(中大兄皇子)自身が筑紫に下って来た可能性が考えられる。

そして665年9月、唐からの使者「劉徳高」が筑紫に到着した。上の時系列の(2)のように5月に頴娃に行って大宮姫と再会し、開聞には月まで滞在したわけだが、その9月までと言うのは、9月に唐の使者が筑紫に到来したゆえに、頴娃を引き上げざるを得なかったのではないか。

そう考えると、(1)の行幸の年とは665年が浮上する。そして(2)の665年9月になって頴娃から引き揚げ、その冬に志布志港から帰京したことになる。その時の大和の宮は「岡本宮」だったようだ。〈社寺〉の章にある「正一位山口六所大明神社」の項に見える「旧記」によると、

<天皇は開聞に到り駐留すること5,6か月。しかれども天下の政事、措くべきにあらざれば、彼の地より舟磯に帰らる>

とあり、筑紫に下って亡命百済人の技術者による筑紫の水城など防衛施設の建設を巡見しながら志布志経由で開聞に大宮姫を訪ね、その年の9月には再び志布志に帰って来た。唐の使者との交渉など「天下の政事」が控えていたためではないだろうか。

さらに、
<「朕の亡きあとよろしくここに廟を建てるべし」と古老に言い残し、和州(大和)の岡本宮に還らる>
とある。

ここでも自らの意思で志布志に廟を営むよう言い残している。しかし志布志で崩御してはいないので亡骸は無いわけだから、実際の御廟ではなく「招霊」による墓、要するに「御霊神社」と言うべきだろう。それが「正一位山口六所大明神」として和銅元年(708年)6月18日に建立された神社である。

天皇が志布志から大和へ帰還した時の宮が「岡本宮」と書かれているが、岡本宮は舒明天皇の「前期岡本宮」と母の斉明天皇の「後期岡本宮」とがあり、どちらも同じ飛鳥の雷丘のふもとに営まれた宮である。そこに帰還したというからには、まだ天智自身が造営した近江宮はなかったわけで、したがってこの年は近江宮造営の667年3月19日より前ということになる(天智紀6年3月条)。

要するに、天智天皇が大隅半島の東海岸の志布志から指宿(山川)経由で頴娃開聞に行った(行幸した)のは、時期的には白村江戦役敗北(663年8月)後の663年の秋から近江宮造営の667年3月までの間であり、可能性が高いのは665年のことだろうという結論である。(※ただし、南九州で崩御した可能性は低い。)

【「南九州における天智伝承」考察の結論】

これまで「天智天皇の死を巡って」というタイトルで1⃣から3⃣まで書いてきたが、それは1⃣の前書きにあるように、天智天皇の死が「山科の山中に馬で入ったまま行方知れずとなった。履だけが残されていたので、そこを御陵とした」という『扶桑略記』の記述など、その死には不審を抱かざるを得なかったからである。

そこで薩摩藩の地歴書である『三国名勝図会』に記載の数々の天智天皇の「御廟」にまつわる伝承から見直してみようということで、ここまで考察して来たのだが、以下に若干は解明できたことどもを箇条書きにしておきたい。

(1)661年1月、天智天皇(中大兄皇子)は百済救援軍を組織しようと、母の斉明天皇とともに筑前の朝倉宮を拠点(大本営)とすべく下って来たが、同年7月に斉明天皇は崩御した。天智(中大兄皇子)は663年の8月に白村江の戦いで倭の水軍が完敗を喫するまで、朝倉宮もしくは長津宮(磐瀬行宮=いわせのかりみや=那の津)に滞在していた。

(2)大宮姫は開聞社という古来からの大社に属する巫女で、南九州からの軍士とともに筑前に行き、「戦勝祈願」の祭祀を担った。(※中大兄皇子自らが南九州まで軍士を徴発するために巡回して来た可能性は考えられる。)

(3)その筑前駐留期間中か戦役で敗れた後かの判断は難しいが、天智天皇(中大兄皇子)の寵愛を受けることがあった。

(4)戦役は完敗だったため大宮姫はお役御免となり、追われるようにして故郷の開聞に戻り、一方、天智(中大兄皇子)もその年(663年)のうちには大和へ帰った。

(5)664年には冠位26階制や防人の制度を作ったりしているので大和の王宮(岡本宮)で朝堂を見ていた。

(6)665年になると2月に亡命百済人を近江に置いたのち、彼らの中の技術者を採用して、長門と筑紫に城を築かせた。その年の何月から工事を開始したかは不明だが、8月には完成している。その工事期間中、自ら現地を視察巡見しに筑紫に下って来た。

(7)もし天智(中大兄皇子)が頴娃開聞に行くとしたら、665年のこの工事期間中であろう。(※いわゆる「出張に事寄せて」というやつかもしれない。)

(8)いずれにしても天智天皇が南九州を巡見したのは史実だと思われるが、南九州において崩御した可能性は極めて低く、頴娃開聞はもとより志布志の御廟伝承はあくまでも、御霊の招霊であろう。

(9)『扶桑略紀』の載せる「行方知れず伝説」はこの考察の結論からは否定も肯定もされないが、しかしなお天智天皇の死が自然死ではない可能性は捨てきれない。