鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

姉さん女房(ウガヤ皇子とタマヨリヒメ)

2022-02-13 12:24:15 | 古日向の謎
吾平山上陵は鹿屋市吾平町に所在する世にも珍しい「洞窟墓」で、天孫二ニギノミコトの孫に当たり、かつ「神武天皇」の父ウガヤフキアエズノミコトとその后タマヨリヒメが眠る御陵である。

先日、吾平の人との話の中で「タマヨリヒメは、ウガヤ皇子の母トヨタマヒメが王を渚に産み落としたまま海宮に帰ってしまったので、その代わりにウガヤ皇子を養育し、ウガヤ皇子が成人後に妻(后)になったというが、そんな年上の妻との結婚なんてあるのだろうか?」という疑問が出された。

たしかに言われてみれば、身近には見当たらない結婚ではある。

しかし、まず女が「年下の男を養育する」という点だが、我々団塊世代より上の世代では、兄弟が5人も6人もいると、一番上が女(長女)であった時など、下の子がまだ幼児だったりした場合、おんぶしたりだっこしたりして世話することはよく見られた。

特に農家などでは両親が田畑に出ている場合など、その間おんぶはもちろんお八つを与えたり、おしめを換えたりするのが普通だった。(※さすがに乳児だとお乳は与えられないから、その時は田畑に連れて行って母親のおっぱいを吸わせるのだろうが・・・)

ウガヤ皇子の養育に来た時、タマヨリヒメがいくつであったか、伝説は語らないのだが、仮に10歳なら、周囲の手助けがあれば育てるのは可能だったろう(お乳が出ないタマヨリヒメに、近隣のばあさんが「お乳飴」という米から造る半液体の発酵飲料を提供したという)。

次にこの二人がその後結婚するということだが、養育したウガヤ皇子が15歳の結婚年齢を迎えた時、タマヨリヒメは25歳であり、かなりの姉さん女房だが有り得ない話ではない。

現代でもプロスポーツ選手の「姉さん女房」はよく話題になる。田中投手しかり、イチロー選手しかり。そのほか枚挙にいとまないほどだ。

極め付けには、これはプロスポーツ選手ではないのだが、フランス大統領のマクロン氏がいる。この人の奥さんは何と25歳年上である。何でも学校の恩師だったそうで、奥さんの方は当時夫がいたのだが、夫とは別れて熱愛されたマクロン氏の下に来たという。

「歳の差婚」というと高齢の男と妙齢の女の組み合わせの場合が多いのだが、その逆も今時は珍しくなくなりつつあるようだ。

ただ、先の疑問では触れられていなかったのだが、ウガヤ皇子はタマヨリヒメの甥っ子であり、タマヨリヒメは叔母に当たるという組み合わせである。甥っ子と叔母さんのカップルは非常に珍しいのだ。

それに比べると伯父(叔父)と姪の組み合わせは古代の天皇家ではかなり多い。奈良時代に入る前の7世紀後半に第40代天皇になった「天武天皇」(在位673~686年)などは、兄の天智天皇(第38代。在位662~672年。ただし662年から667年の6年は「称制」であり、即位していなかった)の娘4人を皇后(のちの持統天皇)や妃にしているくらいである。

道徳的にどうかと思わせるのだが、同母、同祖母は避けても、異母、異祖母なら結婚可能というのが、古来の結婚事情であり、風習であった。

この叔父と姪のカップルよりはるかに珍しいのが、甥と叔母のカップルであるが、天皇家では第41代持統天皇の時代(在位690~697年)と第44代元正天皇の時代(在位715~724年)にそれぞれ一例が知られている。

初めの例は、草壁皇子と元明天皇(43代。在位707~715年)のカップルである。草壁皇子は持統天皇の子であり、元明天皇は持統天皇の妹であった。草壁皇子の父は天武天皇であり、当然皇位を継ぐはずであったが、689年に若死にしたため母の持統が皇位に就いている。草壁皇子と元明天皇との間の子42代文武天皇がまだ幼少だったため、祖母の持統が中継ぎのピンチヒッターに立ったのである。

(※しかしその文武天皇もまた若死したため今度は母の元明天皇が、姉の持統と同じようにピンチヒッターに立つことになった。男系天皇最大の危機であった。余りにも血が濃くなったための男子の夭折だろうという見解も出されている。)

ただ調べてみると、草壁皇子の生年は662年であり、元明天皇(即位前は阿閇皇女)の生年は660年であり、さほどの姉さん女房ではない。

次に2番目の例は、聖武天皇(45代。在位724~749年)と皇后光明子のカップルである。聖武天皇(幼名・首親王)は光明子の姉・宮子の子である。

宮子も光明子もどちらも藤原不比等の娘であった。宮子は聖武を産んでからすぐに赤子と引き離されたといい、そのためか気鬱を病み、留学僧玄昉の施術によって立ち直ったという記録がある。(※ウガヤ皇子を産み落としてすぐに海宮に帰ってしまったトヨタマヒメは、その後どうなっただろうかと心配になる。)

この二人の生年を調べると同じ701年であったから、いわば同級生であったわけで、甥と叔母という血縁上の違いは感じなかったのではないか。むしろ今日的ですらある。この頃は「同い年婚」が主流になっていると聞いている。我が家の息子も娘もどちらもこの「同い年婚」である。

ただ、統計によると九州ではこれまでの「男が3歳ほど上婚」がまだ主流であるという。男は一家を支えなければならぬという気構えからだろうが、ウガヤ王とタマヨリヒメの「逆歳の差婚」のことを聞いたらみなどう思うだろうか。神話伝説の類と一笑に付すだろうか。



天智天皇の死を巡って2⃣(記紀点描㊺)

2022-02-11 09:19:06 | 記紀点描
「天智天皇の死を巡って」の今回は『三国名勝図会』にその伝承のある地域のうち「頴娃郡」の伝説を取り上げる。(※『三国名勝図会』を引用する場合、『図会』と略記する。)

【薩摩藩頴娃郡に伝わる伝承】

頴娃郡は今日の南九州市(頴娃町と知覧町)と指宿市の開聞町域に広がり、その中でも開聞(ひらきき)神社(正式名「枚聞神社」)が古来の中心をなしていた。

この開聞神社の祭神について『図会』では諸書を勘案し、「祭神については諸説あるが、薩摩藩で権威のある『薩隅日神社考』(本田親盈著)ではサルタヒコ。『開聞縁起』では当地を竜宮界とみなし、ワタツミ。『開聞古説』ではトヨタマヒコ・ヒメ、シヲツチノオヂ。」などが参考になるとしている。

『図会』編集当時(1843年)の開聞神社の祭神は、ホホデミ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・シヲツチノオヂ・潮干玉・潮満玉・天智天皇であったが、編纂者は、古い伝承には天智天皇はなく、天智天皇が祭神になったのは「天智天皇が寵妃・大宮姫を当地に訪ねるべく巡見したことから付加された」と編集者は書いている。

<天智天皇はかつて筑前朝倉宮に長くありて、その時、薩摩開聞山に巡視ありしを、「潜幸崩御」とし、大宮姫は天皇の内侍・妃賓のたぐいにして、この土に(流)謫せられしを、皇后と付会しせしなるべし。>(『図会』第2巻563ページ)

とあるように、天智天皇(中大兄皇子)が百済救援隊を組織して筑紫に下り、筑前の朝倉宮に長く逗留していた時に、そこで得た「内侍か寵妃」の類の大宮姫が、生まれ故郷の開聞のちに流されたのちに、ヒメを慕って指宿経由で開聞に「潜幸」した(ひそかに開聞までやって来た)。そして長く大宮姫と暮らし、そこで「崩御」したという伝承を紹介している。

そして大宮姫を「皇后」としているのは、単に天皇の側仕えの内侍か寵妃のたぐいなのを、当地では皇后に擬しているに過ぎない、と書いている。

『図会』の編集者は、この天皇と大宮姫とが一緒に暮らし、さらに二人の墓まであるという地元の伝承については、以上の結論を導くのに8項目の反証を列挙して詳細に批判しており、大宮姫が天智天皇の皇后であったということと、二人が開聞の地で長く暮らし、墓まで存在するという伝承については完全否定している。

したがって天智天皇の死は南九州の開聞山麓においては有り得ないという結論である。

しかし『図会』では骨子として次の2点については否定はしていないことに留意しておかなければならない。

(1)天智天皇が百済救援のために筑前朝倉宮に滞在中、南九州まで巡見に来ていること。
(2)開聞神社の鎮座する地域には「大宮姫」の名にふさわしい女人が存在したこと。

【薩摩藩の西海岸に残る大宮姫伝承】

天智天皇が筑前(朝倉宮及び長津宮=磐瀬行宮)に長く逗留している間に、南九州まで巡見の足を伸ばしたらしいことは、霧島市の国分清水山中にある台明寺の「青葉の笛」(青葉竹)の伝承や、後述の「志布志郷」の伝承にも見られるのだが、実は大宮姫伝承が薩摩藩の薩摩半島の西側の海岸部に伝えられているのである。いずれも開聞からは遠く離れた地域である。

(1)吹上郷の「久多島大明神社」・・・天智天皇の皇女が海上で生まれ、捨てられた島だという。皇女を産んだのはおそらく大宮姫だろう。(『図会』第1巻545ページ)
(2)串木野郷の「羽島埼大明神」・・・天智妃の大宮姫が頴娃に行く途中、ここに鏡を残したので「鏡大明神」となるが、のちに廃された。(『図会』第1巻724ページ)
(3)阿久根郷の「開聞九所大明神社」・・・大宮姫が頴娃に下る途中、波留(はる=地名)に寄られた縁で建立された。(『図会』第2巻18ページ)

以上の3か所だが、開聞への距離から言うと、(1)から(3)ではなく、その逆になるが、いずれにしても大宮姫は筑前から生まれ故郷の頴娃に帰るのに、筑紫(九州)の西海岸を経由して帰郷していることになる。

このルートは天智天皇が開聞に来るのに、大隅半島東海岸の志布志から薩摩半島東岸の指宿を経由する東からのルートを取っているのに対し、大宮姫の開聞への帰郷では西回りルートを取っていることを表しており、筑前からの南九州への船路としてはきわめて合理的なルートである。

これは「大宮姫」に値する女人が筑前まで行き、百済救援軍の指揮所である朝倉宮(または斉明天皇の遺体を運んだという長津宮)に出向したことは事実としてあったのではないかという推測を可能にしよう。

今「大宮姫に値する女人」と書いたが、そもそも大宮姫とは固有名詞ではないのではないか。要するに開聞神社という大社(大宮)に奉仕する伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)のようなタイプの巫女的な存在の女性を「大宮姫」と言ったのではないか。(※埼玉県さいたま市は旧名大宮市だが、ここには武蔵国一之宮「氷川神社」という大社が鎮座する。それで大宮市と名付けられている。)

そのような存在の女人がなにゆえに筑前に行ったのだろうか?

この先例と言っていいのが「神功皇后」だろう。神功皇后は新羅を討つ前に武内宿祢とともに様々な神がかりを示していたことは「仲哀天皇紀」に詳しい。一言でいえば「戦勝祈願」だが、大宮姫も「百済救援及び唐・新羅降伏」というような神がかりの戦勝祈願を行ったのだろう。

しかし結果は百済救援軍の無残な敗北であった。当然ながら大宮姫と思しき巫女的女人は叱咤された挙句、傷心のまま故郷の開聞に送還されたのだろう。

しかし筑前にいる間に中大兄皇子の寵愛を受けることになった。もちろん妊娠するだろう。その結果が吹上郷「久多島大明神」の項に書かれた「産んだ子を捨てた」という伝承につながろう。また祈願の際に使用した「鏡」ももう不用とばかり、串木野の羽島埼に廃棄したのだろう。

このような巫女的な女人の存在を示唆する事例が、同じ開聞神社を巡ってあらわになった一件があったのである。それは『図会』第2巻「頴娃之ニ」に載る伝承だが、これは事実と思われる。

【巫女の存在の実例と大宮姫】

この巫女は開聞宮からやや東に離れた指宿市山川町利永にいたという。この巫女が神がかりになり、大略次のような託宣を下している。

<江戸時代以前から、開聞神社は神道の総本家と言われる京都の吉田家には従うことの無い独立した古社であったが、明暦3(1657)年に神官であった紀仁右衛門と弟の半助の両人が伊勢参拝の時に京都の吉田家に上り、任官(神階・官位)を受けたところ、弟の半助は京都で亡くなり、兄の仁右衛門は帰郷後に死亡してしまった。
 
それどころか、妻子や下僕まで併せて7名が死ぬ事態となったのであった。そうした時に利永の祝女(はふりめ=巫女)が神がかりし、「当社の神官の法式を犯し、吉田家より任官等を受けたゆえ、神罰その身に及ぶ」という託宣を述べたという。そこで神社の別当寺であった瑞応院の住持・快周法印と祠官のすべてが開聞神にその非を謝罪することになった。

そのため紀氏の男子一人は許されて生き残った。その子は後の紀権右衛門である。>’(『図会』第2巻・605~607ページ)

江戸時代に入ると、京都の吉田家が神社の格付け(神階)や神官の官位について取り仕切るようになり、全国に影響を及ぼすようになったが、古社である開聞大社は吉田家の傘下には入らず、独立した古式を温存していた存在であったことのわかる資料である。

この古式を守らなかったがゆえに、開聞社を代表する神官家である紀氏が大きな痛手を蒙った。紀氏に起きたこの大量死の原因が開聞神の「神罰」であったと託宣を下したのが、利永にいた祝女(はふりめ)であった。沖縄に見られるノロのような存在だろう。

この時代になるとすでに開聞社など大社に属する祝女(巫女)はもう存在せず、おそらく別当寺という神社の事務方がすべて男子(僧侶)であった関係だろうか、斎宮に当たる巫女を神社の内部に置くことは禁じられていたのかもしれない。

とにかく開聞神社からは東に数キロ離れた一般の村落内にいた祝女(はふりめ)に神がかりしたのであった。

時代をずっとさかのぼった古代以前、神社は寺院とは違い、斎宮に相当する若くて神がかりに向いている処女が仕えていたと思われる。開聞神社においては「大宮姫」と言うべき処女が仕え、「神懸かりによる託宣」が事あるごとに行われていたと考えられる。

その中でも優れた祝女が選ばれて、筑前に上り、朝倉宮及び長津宮で「戦勝祈願」に奉仕したのではないか。「イキナガタラシヒメ」とか「ヒミコ」「トヨ」といった具体名は分からないが、戦勝祈願を行った。しかし残念ながら唐・新羅連合軍との戦いは惨敗に終わってしまった。

祈願明けに彼女はお役御免になり、中大兄皇子の寵愛を受けた。しかし祈願の結願ならずということで、故郷の開聞に送還されることになったはずである。戦いが終わったのが663年の8月28日であったから、それからさほど時期を置かずに船上の人になったに違いない。

二人は結ばれず、彼女(大宮姫)は九州の海岸を西回りで開聞に帰り、中大兄皇子は筑紫滞在を切り上げて大和に帰った。

中大兄皇子は661年に母の斉明天皇が朝倉宮で崩御したのち、即位式を上げられずに天皇になった。これを「称制」と言うが、この時期に筑紫と対馬に防人と烽(とぶひ=のろし)を置き(664年)、長門と筑紫に城を築き(665年)、百済からの亡命者2000人を近江に移したり(666年)と、唐からの攻撃に備えることに集中していた。

そして667年3月には都を近江に移し、同年11月には守りの仕上げと言うべき「高安城」「屋島城」「金田城」を百済人を使って構築した。668年1月3日、ようやく近江宮において天皇として即位したのであった。

しかし669年に最大の腹心であった中臣鎌足を失い、その2年後には自身も崩御する。天皇位に就いてからはわずか4年後のことであった。

この死について様々な説が出されているが、「白馬で山科山中に入り、そのまま行方知らずになった」という『扶桑略記』説を検証するのがこの論考のの目的であった。次は『三国名勝図会』に載る「志布志郷」の「御廟伝承」を取り上げたい。








王子遺跡が示した先進性

2022-02-09 11:40:31 | 鹿児島古代史の謎
昭和48年頃に国道220号線鹿屋バイパス計画が策定され、54年度の発掘予備調査で弥生時代の遺跡が確認され、同56年から59年にかけて発掘調査が行われた「王子遺跡」は、大隅地方の弥生時代に大きな画期をもたらした。

発掘場所は現在はそのバイパスの道路(現在は国道220号に格上げされた)によって埋められてしまい、「王子遺跡址」という御影石の石碑と、のり面に遺跡の説明板があるだけだ。


約50mの道路幅に沿って長さ250m、面積12500㎡に及ぶ広さで発掘された。道路の向こうに行くと鹿屋大橋という肝属川に架かる長大橋があり、垂水市に到る。手前側は東九州自動車道の鹿屋市への入り口である笠之原地区に到る。

この辺りの標高は70m。肝属川が流れる市街地の標高が25mほどだから、比高差は45mほどあるシラス台地上で、眺望はよい。

遺跡は弥生時代の中期、約2000年前のもので、遺構として竪穴式住居27軒と掘立柱建物12棟が確認された。昭和56年の当時としては大隅地区で初めて建物の遺構が確認されたことで大きな話題になった。しかも掘立柱建物には「棟持ち柱」が付随しており、伊勢神宮等の神明造りの原型ではないかとこれも大きなニュースになった。


鹿屋市文化センターの裏にある「王子遺跡資料館」の内部に再現された建物遺構。手前が竪穴式住居、奥が棟持ち柱付建物。

棟持ち柱付建物の正式な利用形態は分かっていない。倉庫(穀物など)または宗教的な施設などと言われているが、12軒もあったことからすれば、倉庫説が優先されるだろう。

建物群の遺構が出たことよって「大隅でも弥生時代に人が住んでいたのだ。しかも他の出土品からしてかなり先進的だった」という見解が出されるようになった。

2000年も前に人が住んでいたということは、当然その後の古墳時代、古代前史にも人が住んでいたことを意味し、そうであれば例えば元鹿児島国際大学教授で隼人研究の第一人者である中村明蔵氏の「隼人という南九州人が中央政権に見出されたのは、百済救援に向かった大和王権(斉明天皇・中大兄皇子)が九州にやって来た時だった」という説は否定されなければならない。

中村明蔵氏の隼人解釈はこの王子遺跡の発掘(昭和56年=1981年)前の段階のものであり、まだ弥生時代(古墳時代も)の建物遺構が発遣されていない時の解釈であったわけで、「隼人以前」に南九州人がかなりの文明性を持って存在したことを考慮する必要に迫られている。

南九州人の2000年前の「文明性」とは、棟持ち柱付建物の出土に加えて鉄製品があったことである。ヤリガンナがその中心だが、鉄滓も見つかっていることから当地ではすでに鉄の溶融と加工まで行っていた可能性が高い。

標高70mというシラス台地上の高燥地に位置しているのは水田耕作には不向きだが、すぐ下を肝属川が流れ、その流域に展開する水田適地は狭いながらも存在するから、耕作時のみ河川流域に降りて行って農耕することは可能だったろう。

実は同じような「高燥地」は、平成20年頃から10年余りにわたって続けられた「東九州自動車道」の建設にかかわる発掘調査により、鹿屋市から志布志市市までの間の到るところの丘陵地帯で見つかっており、特に弥生時代に限れば、王子遺跡と同じような2000年前前後(前期~中期)の遺構・遺物が多量に見つかっている。

ただ、王子遺跡で見つかったような棟持ち柱付建物の遺構は極めて少ない。それだけ王子遺跡の先進性と統合性は大きく、一地方の政治的な中心であった可能性が考えられる。

ところが弥生時代の中期のこの一時期を過ぎると、後継するはずの後期遺跡(遺構・遺物)は見つからなくなる。この点も東九州自動車道建設前の発掘調査で明らかになった「前期は多量、中期は少量、後期は皆無」という弥生時代の遺構・遺物の発掘量が著しく偏っていることと軌を一にしている。

私はこの現象を「弥生時代後期のおおよそ2世紀前半に、南九州で何らかの大災害が発生し、140年から160年頃にかけて大挙して移住していった状況を表している」と考えている。

具体的に言うなら南九州に所在した「投馬国」(魏志倭人伝)による移住的東遷であり、「神武東征」の下敷きになった出来事であった。

この「神武東征」も景行天皇によるクマソ征伐も、とにかく記紀文献上の応神・仁徳王権まではすべて架空、雄略天皇からは実在した可能性が高いというのが日本古代史の定説であり、先に登場願った中村明蔵隼人学説もその域を出ないでいる。

とにかく、王子遺跡はじめ鹿屋から志布志までのシラス台地上に存在する驚くほど多くの遺跡群は、日本古代史を根底から覆す可能性を秘めているのである。


天智天皇の死を巡って1⃣(記紀点描㊹)

2022-02-08 09:20:46 | 記紀点描
天智天皇の死には不審な点があり、考慮すべき資料としてまず挙げられるのが『扶桑略記』の説で、「天智天皇は山科の山中に白馬で入ったまま帰らず、後には履(くつ)が残されているだけであった。そこを墓所(御廟)とした」というのであった。天皇が供もつれずに山中に行くことや、仮にそこで死んだとしても遺体がないというのも不審に輪をかけるほかない。

その不審を解く手がかりは、日本書紀等の古文書からはそれ以上は得られないのだが、面白いというべきか不可解なというべきか、薩摩藩の編纂した地暦書である『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には、藩内の3か所の郷で、天智天皇の崩御伝説が色濃く残っているのである。

その3か所とは、「揖宿郷」と「頴娃郷」と「志布志郷」である。

この他に「出水郡阿久根郷」と「国分の清水郷」があるが、阿久根郷のは当地に開門神社の分社があり、開門神社に残る天智天皇滞在説に付会したものであるに過ぎない。また後者の清水郷のは中大兄皇子として百済救援隊を率いて筑前朝倉宮に滞在中に南九州に巡見に来たという説とともに、当地の清水郷山中に所在した台明寺という寺の境内で「青葉の笛」を見出したという内容で、天智天皇の死とは直接の関係をもたないのでここでは割愛する。

【鹿児島藩揖宿郡指宿郷に残る伝承】

さてまずは揖宿郷の天智天皇崩御説であるが、揖宿郡(『三国名勝図会』第21巻)には指宿郷・今和泉郷・山川郷が属するが、そのうちの「指宿郷」に残る伝承である。

天智天皇伝承が残るの指宿郷内の「多羅大明神社」「風穴祠」及び「開門新宮九社大明神」(現在の揖宿神社)である。

多羅神社は魚見岳の直下の田良浜にあり、そこに天智天皇を乗せた船が着いたという伝承から神社が建立されたといい、「風穴祠(かざあなのほこら)」とは、天皇が着岸後に浜から上がってここに逗留し、神楽を奏でた洞穴だという。

確かに指宿市の魚見岳の下には田良浜があり、現在も田良浜漁港として利用されているから、船の着岸に何の問題も無いように思われるが、着岸後にわざわざ洞穴に入って神楽を演奏したというのが分からない。

天皇(当時は即位前だったので中大兄皇子)ともあろう人が、「洞窟に入って云々」ということ自体が奇妙である。地元民の大歓迎を受けて立派な屋敷に案内されたというのなら分かるのだが、この描写は一体どういうことだろうか。

ここから言えることは天皇は至極隠密に当地にやって来たのではないかということだろう。(※もちろん天智天皇の南九州到来など有り得ず、架空の伝承だと考えるのならば一笑に付してよい話であるが、私は一応はあった話と考えるので取り上げている。)

天皇が隠密にやって来たその目的は、後述の「頴娃郡」の開門神社の項で詳しく書くが、出身地の開門山麓に帰ってしまった寵妃「大宮姫」(玉依姫ともいう)に再会するためであった。

指宿の海岸でもかなり辺鄙というべき田良浜に上陸した天智天皇は、ここからは陸路なのか海路なのかは書かれていないのだが、とにかく開聞岳山麓まで行き、大宮姫と再会したという。

現在の揖宿市東方宮に所在する「揖宿神社」が当時「開門新宮九社大明神」といったのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし現在の開門神社の前身が埋もれてしまい、その代替神社として新しく建立されたため「新宮」と名づけられた。(※この大災害に、都から当時の右大臣藤原基経が勅使として派遣され、建て直しのために封戸2千戸が配されたという。)


揖宿神社に摂社西宮があり、そこに天智天皇と大宮姫が祭られていたり、天智天皇と大宮姫の墓として平石が並べて置かれている場所があるのは開門本社の代替社であることを示している。したがって天皇と大宮姫の再会と天皇崩御の説は開門神社の項に詳しいのでそちらに譲りたい。

揖宿神社そのものをまた「葛城宮」ということがあるが、葛城とは天智天皇の幼名「葛城皇子」に由来している。中大兄皇子よりも葛城皇子の方が古来人口に膾炙していたのかもしれず、興味あるところである。

ところで指宿郷の全体を調べていたら、アッと思わせる箇所に出会った。

それは寺々をまとめて記している箇所だが、その中の「正平山光明寺」の項である。この寺は何と「大織冠鎌足公の子、定慧和尚が開山である」といのだ。その光明寺の由来部分を次に示そう。

<正平山光明寺 拾町村にあり、本府福昌寺の末にして曹洞宗なり。開山定慧和尚。定慧は大織冠鎌足公の子なり。白雉4年5月12日入唐し、法相宗を伝へ、在唐27年にして白鳳7年に帰朝し、文武天皇の元年3月1日、当寺を建立し十一面観音を安置す。>(『三国名勝図会』青潮社版第二巻p426)

(※記事は分量としてこの2倍ほど続くが、あとは寺の幕末までの歴史の叙述であり、割愛した。)

これによると、何と指宿市の柳田に現在も所在する光明寺(現在の寺名は光明禅寺)を開いたのは藤原鎌足の子の定慧(一般的には定恵)だというのである。

定恵が鎌足の子であり、白雉4(653)年の5月12日に遣唐使船に乗って入唐し、白鳳7(665)年に例の終戦処理に到来した唐の使節(団長は劉徳高)と同船で帰って来たことは孝徳天皇紀に書かれているので、この由来記に間違いはない。(「孝徳紀」4年5月条及び5年2月条)

ただ同年(665年)の12月に死んだという記録もあり(出典不明)、文武天皇元年の697年まで生きていたという記録もない。もちろん『名勝図会』の編集者は何らかの記録文書を見て「文武天皇元年に、光明寺を建立し十一面観音を安置した」と書いたはずである。

そして最初は定恵が学んだ法相宗の寺だったのだが、戦国時代(福昌寺開山の石屋津梁の時代)以降は、福昌寺の傘下に入り禅寺となったこともちゃんと書かれており、「定恵が開いた光明寺」というのをまるで架空の話と一笑に付すのは決して簡単ではない。

【定恵(中臣真人)の出自と出家】

『藤氏家伝』という藤原氏の系譜を書いた文書によると、定恵は藤原鎌足の子で不比等の兄に当たり、若くして出家し、653年5月の遣唐使派遣に便乗して唐に渡ったという。そして本名を「中臣真人」と言った。中臣氏は天孫降臨に供奉して天下った「五伴緒(いつとものを)」の後継という古い家柄で、主たる任務は天皇家の祭祀に仕えることであった。

中臣鎌足が古代大和王権の重臣だったのは、天皇家の祭祀である神道を主宰する力のあった家系であったことによるわけだが、その神道系の揺るぎなき家系を有する由緒ある家の男子(長子でもある)が出家の道を選ぶとは、いったいどう解釈したらよいのか?

しかも定恵が出家した時代は、孝徳天皇が大化の改新後の新時代を蘇我氏が傾倒した仏教ではなく古来の神道(天皇親政)によって築こうという時代であった。

さらに天智天皇の死とともに、定恵の死についても帰朝後の同年(665年)死亡説から、上掲の光明寺由来記に見える文武天皇元年(697年)生存説まで、まったく相互に脈絡のない説で錯綜している。

そもそも神道を守るべき古い家柄の中臣氏の「御曹司」がなぜ唐に行き、仏教を身につけなければならなかったのだろうか?

【壬申の乱に登場しない藤原氏】

「記紀点描㊸」でも触れたが、壬申の乱に藤原氏の姿は見えない。天智天皇の死の2年前、死の床に居た藤原鎌足はついに臣下として最高の徴である「大織冠」を授けられたのだが、その息子である不比等は、当然ながら天智の皇子大友皇子の勢力である近江軍側の重鎮であってしかるべきであろう。

不比等は、654年に若くして出家し唐に留学した兄の定恵よりもちろん年は若いのだが、仮に10歳若いとして640年代後半から50年代前半の生まれであったはずで、壬申の乱当時(672年)は20歳は超えていたはずである。

ところが672年の5月から8月まで天下を争った壬申の乱にその姿はないのである。不比等は日本書紀の記す範囲には名を表さず、初めて記録に現れるのは文武天皇の2年(698年)8月である。

<(8月)19日、詔して曰く、藤原朝臣に賜ふ所の姓は、よろしくその子の不比等これを受けるべし。ただし意美麻呂等は神事に供する縁により、よろしく旧姓に復すべし。>(『続日本紀』文武天皇2年8月条)

藤原朝臣すなわち中臣鎌足に天智天皇が賜わった「藤原姓」はその子の不比等が受け継ぎ、同じ藤原でも意美麻呂(おみまろ)たちは旧姓の「中臣」に戻らなければならない――という詔勅が文武2年8月19日に出された。これによって藤原鎌足・不比等父子の血統のみが藤原姓を名乗ることが許されることになった。

これは極めて重要な詔勅で、以後の藤原氏が政権に途方もなく重きをなし、徳川政権に変わるまでの約900年、藤原氏は殿上人(貴族)の最高ランクに君臨し続けることになった。

天下分け目の「壬申の乱」(672年5月~8月)に、その3年前の669年に天智天皇から大織冠と「藤原姓」を与えられた鎌足の子である不比等の姿が近江方にも、もちろん大海人(天武)側にも見えないのは、天智天皇の死の不審とならぶ大きな不審である。

これをどう理解すべきだろうか?

(※鎌足の長男で不比等の兄の定恵が665年に唐の留学から帰って来た時、定恵は30歳ほどの年齢であったと見られるから、『名勝図会』に見える「指宿郷の光明寺を文武天皇元年(697年)に建立した」のは62歳ということになり、年齢的には何ら問題ないことになる。)













米軍の戦略と地方自治体

2022-02-06 19:11:16 | 日本の時事風景
米軍の艦載機離着陸訓練(FCLP)に伴う西之表市馬毛島への訓練場整備計画問題は、新しい局面を迎えた。

計画に反対の意向を示して再選された西之表市長の八板俊輔氏は、2月3日に防衛省に出向き、この件に関わる助成金「米軍再編交付金」を求める要望書を岸防衛大臣に手渡したという。

そのわずか2日前に種子島のほかの自治体である中種子町と南種子町の首長が九州防衛局を訪れて、整備計画への賛同と助成金を要望する文書を渡しており、外堀を埋められた形の八板市長は受け入れざるを得なかったのだろう。

交付金の額については防衛局から昨年末に各市町に知らせてあったという。その額は10年間で290億円だそうだ。当該施設を受け入れた自治体への協力金というわけだが、支払うのは米軍の要望を鵜吞みにせざるを得ない政府なので、結局のところ日本政府の米軍への協力金でもある。

馬毛島基地の正式名はまだ発表されていないが、建前上は自衛隊基地の一環として整備するわけだから、単純に名付ければ「陸上自衛隊○○方面馬毛島基地」というような名称になるはずだ。

いずれにしても「サイは投げられた」わけで、基地建設は粛々と進むだろう。

このように自衛隊基地が造られた(造られている)自治体には交付金という飴がばらまかれ、建設反対を表明する自治体には交付金は支給されない。「金の切れ目が縁の切れ目」の反対だ。

これの大掛かりなのが沖縄である。沖縄にも自衛隊の基地があるが、何と言っても存在感の大きいのが米軍基地だ。31の専用施設があり、その面積は沖縄本島の15%にも及ぶそうだ。犬も歩けば何とやらで、ただ存在するのではなく、訓練飛行の騒音と危険性で日常が冒されていると言ってよい。

沖縄が本土復帰したのが昭和47年(1972年)の5月15日で、あれから今年で丸50年となる。

復帰の当日だったと思うが、それまで車は右側通行だったのが一斉に左側通行になった様子をテレビが流していたのをうっすら覚えている。

沖縄の人たちの喜びはいかばかりであったか、想像するに余りある。

ところが米軍基地は縮小しなかった。それどころか「核の持ち込み」「原子力潜水艦の寄港」など物騒な「密約」があったことも明るみに出た。

1972年と言えば、米中の共同宣言により米国が中国共産党政府を正式に認めた年であり、またベトナム戦争も終結に向かい、東アジアは雪解けの時代を迎えていたのだが、やはり沖縄はアメリカ軍事戦略のキーストーン(要石)であり続けた。

1989年の米ソ冷戦終結を迎えてもなお沖縄から米軍基地は去らなかった。日米安保の定めによるものである。

それから30年余り、今度は米中の対立が表面化し、台湾問題が浮上してきている。台湾有事の際にはまた沖縄が米軍の戦略上の要衝としてクローズアップされるだろう。

「米中の狭間で日本の立ち位置をどうするか」という評論をよく見るが、日米安保を結んでいる以上、日本は軍事上米軍のコントロール下に入るほかない。

日米安保がある限り、軍事(戦略)上は米軍が上位機関であり、日本政府は下位機関に甘んずるほかないのだ。残念ながら・・・。

そして日米安保がある限り、アメリカの軍事的戦略に日本政府が従い、それを受けた日本政府は「交付金」政策により、地方自治体をコントロールする、いままさにそのことが南九州の離島で行われている。