吾平山上陵は鹿屋市吾平町に所在する世にも珍しい「洞窟墓」で、天孫二ニギノミコトの孫に当たり、かつ「神武天皇」の父ウガヤフキアエズノミコトとその后タマヨリヒメが眠る御陵である。
先日、吾平の人との話の中で「タマヨリヒメは、ウガヤ皇子の母トヨタマヒメが王を渚に産み落としたまま海宮に帰ってしまったので、その代わりにウガヤ皇子を養育し、ウガヤ皇子が成人後に妻(后)になったというが、そんな年上の妻との結婚なんてあるのだろうか?」という疑問が出された。
たしかに言われてみれば、身近には見当たらない結婚ではある。
しかし、まず女が「年下の男を養育する」という点だが、我々団塊世代より上の世代では、兄弟が5人も6人もいると、一番上が女(長女)であった時など、下の子がまだ幼児だったりした場合、おんぶしたりだっこしたりして世話することはよく見られた。
特に農家などでは両親が田畑に出ている場合など、その間おんぶはもちろんお八つを与えたり、おしめを換えたりするのが普通だった。(※さすがに乳児だとお乳は与えられないから、その時は田畑に連れて行って母親のおっぱいを吸わせるのだろうが・・・)
ウガヤ皇子の養育に来た時、タマヨリヒメがいくつであったか、伝説は語らないのだが、仮に10歳なら、周囲の手助けがあれば育てるのは可能だったろう(お乳が出ないタマヨリヒメに、近隣のばあさんが「お乳飴」という米から造る半液体の発酵飲料を提供したという)。
次にこの二人がその後結婚するということだが、養育したウガヤ皇子が15歳の結婚年齢を迎えた時、タマヨリヒメは25歳であり、かなりの姉さん女房だが有り得ない話ではない。
現代でもプロスポーツ選手の「姉さん女房」はよく話題になる。田中投手しかり、イチロー選手しかり。そのほか枚挙にいとまないほどだ。
極め付けには、これはプロスポーツ選手ではないのだが、フランス大統領のマクロン氏がいる。この人の奥さんは何と25歳年上である。何でも学校の恩師だったそうで、奥さんの方は当時夫がいたのだが、夫とは別れて熱愛されたマクロン氏の下に来たという。
「歳の差婚」というと高齢の男と妙齢の女の組み合わせの場合が多いのだが、その逆も今時は珍しくなくなりつつあるようだ。
ただ、先の疑問では触れられていなかったのだが、ウガヤ皇子はタマヨリヒメの甥っ子であり、タマヨリヒメは叔母に当たるという組み合わせである。甥っ子と叔母さんのカップルは非常に珍しいのだ。
それに比べると伯父(叔父)と姪の組み合わせは古代の天皇家ではかなり多い。奈良時代に入る前の7世紀後半に第40代天皇になった「天武天皇」(在位673~686年)などは、兄の天智天皇(第38代。在位662~672年。ただし662年から667年の6年は「称制」であり、即位していなかった)の娘4人を皇后(のちの持統天皇)や妃にしているくらいである。
道徳的にどうかと思わせるのだが、同母、同祖母は避けても、異母、異祖母なら結婚可能というのが、古来の結婚事情であり、風習であった。
この叔父と姪のカップルよりはるかに珍しいのが、甥と叔母のカップルであるが、天皇家では第41代持統天皇の時代(在位690~697年)と第44代元正天皇の時代(在位715~724年)にそれぞれ一例が知られている。
初めの例は、草壁皇子と元明天皇(43代。在位707~715年)のカップルである。草壁皇子は持統天皇の子であり、元明天皇は持統天皇の妹であった。草壁皇子の父は天武天皇であり、当然皇位を継ぐはずであったが、689年に若死にしたため母の持統が皇位に就いている。草壁皇子と元明天皇との間の子42代文武天皇がまだ幼少だったため、祖母の持統が中継ぎのピンチヒッターに立ったのである。
(※しかしその文武天皇もまた若死したため今度は母の元明天皇が、姉の持統と同じようにピンチヒッターに立つことになった。男系天皇最大の危機であった。余りにも血が濃くなったための男子の夭折だろうという見解も出されている。)
ただ調べてみると、草壁皇子の生年は662年であり、元明天皇(即位前は阿閇皇女)の生年は660年であり、さほどの姉さん女房ではない。
次に2番目の例は、聖武天皇(45代。在位724~749年)と皇后光明子のカップルである。聖武天皇(幼名・首親王)は光明子の姉・宮子の子である。
宮子も光明子もどちらも藤原不比等の娘であった。宮子は聖武を産んでからすぐに赤子と引き離されたといい、そのためか気鬱を病み、留学僧玄昉の施術によって立ち直ったという記録がある。(※ウガヤ皇子を産み落としてすぐに海宮に帰ってしまったトヨタマヒメは、その後どうなっただろうかと心配になる。)
この二人の生年を調べると同じ701年であったから、いわば同級生であったわけで、甥と叔母という血縁上の違いは感じなかったのではないか。むしろ今日的ですらある。この頃は「同い年婚」が主流になっていると聞いている。我が家の息子も娘もどちらもこの「同い年婚」である。
ただ、統計によると九州ではこれまでの「男が3歳ほど上婚」がまだ主流であるという。男は一家を支えなければならぬという気構えからだろうが、ウガヤ王とタマヨリヒメの「逆歳の差婚」のことを聞いたらみなどう思うだろうか。神話伝説の類と一笑に付すだろうか。
先日、吾平の人との話の中で「タマヨリヒメは、ウガヤ皇子の母トヨタマヒメが王を渚に産み落としたまま海宮に帰ってしまったので、その代わりにウガヤ皇子を養育し、ウガヤ皇子が成人後に妻(后)になったというが、そんな年上の妻との結婚なんてあるのだろうか?」という疑問が出された。
たしかに言われてみれば、身近には見当たらない結婚ではある。
しかし、まず女が「年下の男を養育する」という点だが、我々団塊世代より上の世代では、兄弟が5人も6人もいると、一番上が女(長女)であった時など、下の子がまだ幼児だったりした場合、おんぶしたりだっこしたりして世話することはよく見られた。
特に農家などでは両親が田畑に出ている場合など、その間おんぶはもちろんお八つを与えたり、おしめを換えたりするのが普通だった。(※さすがに乳児だとお乳は与えられないから、その時は田畑に連れて行って母親のおっぱいを吸わせるのだろうが・・・)
ウガヤ皇子の養育に来た時、タマヨリヒメがいくつであったか、伝説は語らないのだが、仮に10歳なら、周囲の手助けがあれば育てるのは可能だったろう(お乳が出ないタマヨリヒメに、近隣のばあさんが「お乳飴」という米から造る半液体の発酵飲料を提供したという)。
次にこの二人がその後結婚するということだが、養育したウガヤ皇子が15歳の結婚年齢を迎えた時、タマヨリヒメは25歳であり、かなりの姉さん女房だが有り得ない話ではない。
現代でもプロスポーツ選手の「姉さん女房」はよく話題になる。田中投手しかり、イチロー選手しかり。そのほか枚挙にいとまないほどだ。
極め付けには、これはプロスポーツ選手ではないのだが、フランス大統領のマクロン氏がいる。この人の奥さんは何と25歳年上である。何でも学校の恩師だったそうで、奥さんの方は当時夫がいたのだが、夫とは別れて熱愛されたマクロン氏の下に来たという。
「歳の差婚」というと高齢の男と妙齢の女の組み合わせの場合が多いのだが、その逆も今時は珍しくなくなりつつあるようだ。
ただ、先の疑問では触れられていなかったのだが、ウガヤ皇子はタマヨリヒメの甥っ子であり、タマヨリヒメは叔母に当たるという組み合わせである。甥っ子と叔母さんのカップルは非常に珍しいのだ。
それに比べると伯父(叔父)と姪の組み合わせは古代の天皇家ではかなり多い。奈良時代に入る前の7世紀後半に第40代天皇になった「天武天皇」(在位673~686年)などは、兄の天智天皇(第38代。在位662~672年。ただし662年から667年の6年は「称制」であり、即位していなかった)の娘4人を皇后(のちの持統天皇)や妃にしているくらいである。
道徳的にどうかと思わせるのだが、同母、同祖母は避けても、異母、異祖母なら結婚可能というのが、古来の結婚事情であり、風習であった。
この叔父と姪のカップルよりはるかに珍しいのが、甥と叔母のカップルであるが、天皇家では第41代持統天皇の時代(在位690~697年)と第44代元正天皇の時代(在位715~724年)にそれぞれ一例が知られている。
初めの例は、草壁皇子と元明天皇(43代。在位707~715年)のカップルである。草壁皇子は持統天皇の子であり、元明天皇は持統天皇の妹であった。草壁皇子の父は天武天皇であり、当然皇位を継ぐはずであったが、689年に若死にしたため母の持統が皇位に就いている。草壁皇子と元明天皇との間の子42代文武天皇がまだ幼少だったため、祖母の持統が中継ぎのピンチヒッターに立ったのである。
(※しかしその文武天皇もまた若死したため今度は母の元明天皇が、姉の持統と同じようにピンチヒッターに立つことになった。男系天皇最大の危機であった。余りにも血が濃くなったための男子の夭折だろうという見解も出されている。)
ただ調べてみると、草壁皇子の生年は662年であり、元明天皇(即位前は阿閇皇女)の生年は660年であり、さほどの姉さん女房ではない。
次に2番目の例は、聖武天皇(45代。在位724~749年)と皇后光明子のカップルである。聖武天皇(幼名・首親王)は光明子の姉・宮子の子である。
宮子も光明子もどちらも藤原不比等の娘であった。宮子は聖武を産んでからすぐに赤子と引き離されたといい、そのためか気鬱を病み、留学僧玄昉の施術によって立ち直ったという記録がある。(※ウガヤ皇子を産み落としてすぐに海宮に帰ってしまったトヨタマヒメは、その後どうなっただろうかと心配になる。)
この二人の生年を調べると同じ701年であったから、いわば同級生であったわけで、甥と叔母という血縁上の違いは感じなかったのではないか。むしろ今日的ですらある。この頃は「同い年婚」が主流になっていると聞いている。我が家の息子も娘もどちらもこの「同い年婚」である。
ただ、統計によると九州ではこれまでの「男が3歳ほど上婚」がまだ主流であるという。男は一家を支えなければならぬという気構えからだろうが、ウガヤ王とタマヨリヒメの「逆歳の差婚」のことを聞いたらみなどう思うだろうか。神話伝説の類と一笑に付すだろうか。