【白村江の敗戦と「隼人」】
西暦663年の8月27日と28日に行われた倭・百済軍と唐・新羅連合軍との戦いでは、出陣した1000艘(『三国史記』による)のうち400艘が焼失させられ倭の水軍は敗れた。
その時に推測で倭の水軍30000名のうち約10000名は命を落としたようである。出陣した兵士の3割が死に、それに倍する負傷者が出たであろうから、無事であったのは残り3割となり、これはまさに完敗の図式であった。
「記紀点描㊷」で触れたように、この水軍を担ったのは主として九州(筑紫)の海民であり、その損失は尋常ではなく、ついに名立たる九州島の安曇族・宗像族・鴨族の勢力は大きく後退した。
特に南九州の鴨族水軍の損害は大きく、縄文時代中期から黒曜石の採取で九州島の各地に船足を伸ばし、また弥生時代には朝鮮半島の鉄資源を求めて海峡を頻繁に往来し、半島に拠点を設けていた伝統的な交易力は極度に衰退してしまったと思われる。
この衰退によって南九州鴨族(投馬国航海民)は半島における権益を完全に失い、大和中央政権からは次第に疎んじられるようになり、ついには王化つまり大和王権の中央集権化政策から取りこぼされ、蛮族視されるようになっていった。
その結果が「隼人」名称の始まりである。隼人は履中天皇時代に住吉仲津彦の側近として「隼人サシヒレ(古事記ではソバカリ)」として登場するのが最初だが、もちろんその時に「隼人」呼称はなく、「南九州人(古日向人)サシヒレ」だったのが、古日向人に対して隼人呼称が定着してから文献上で書き換えられたのである。
(※隼人呼称の始まりは以上のように蔑称であったのだが、明治維新で薩摩藩士が大活躍したことで蔑称から大躍進し、逆に「武力に秀でた男らしい男」というニュアンスで好感の持たれる名称となった。素直に喜ぶべきだろうが、その由来を知ると苦笑せざるを得ない。)
さて白村江の海戦で完敗したことよって九州島の海民は逼塞せざるを得ない状況に追い込まれたのだが、では大和王権そのものはどうなったのであろうか?
【唐使の頻繁な到来と倭国の対応】
白村江の敗戦後には唐から頻繁に使者が到来している。
新羅は唐と組んで660年にまず百済を陥落させたのだが、百済の遺臣たちは百済国内の城塞に籠って新羅・唐の連合軍と散発的に戦っていた。
大和王府はその中の一人である鬼室福信の求めに応じ、ついに救援隊を派遣した(総数千艘及び約3万名)。この時点で本来新羅が敵とした百済のみならず、倭国(大和王権)までが敵国になった上に、白村江の河口に海上戦で大敗を喫してしまった。
そうなると当然戦勝国から敗戦国へ使節が派遣され、戦勝国による賠償請求、俗にいう「おとしまえ」が要求される。
事実、唐からは次々に使節がやって来ることになった。日本書紀の664年(天智称制3年)から672年(天智崩御の翌年=弘文天皇元年)まで4回、使節が渡来している。
書紀に記されているのを時系列で抜き出すと次のようである。
(1)664年5月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)と郭務悰(朝散大夫=文官)が渡来し、表函(ふみばこ)と献物を持参した。
同年12月・・・郭務悰ら帰国する。
(この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と熢(とぶひ)を置き、水城を築く)
(2)665年9月・・・劉徳高(朝散大夫)、郭務悰ら254人が到来する。表函(ふみばこ)を持参した。
同年12月・・・劉徳高らが帰国する。
(この年の8月、長門・大野・基に百済式城を築く。また守君大石らを唐に派遣する)
(3)667年11月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)が熊津都督の司馬法聡らを派遣し、境部連石積らを筑紫都督府に送り届ける。帰りは伊吉連博徳らが送る。
(この年、高安城・屋島城・金田城を築く。また3月に都を近江に移す)
(4)671年1月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)が李守真らを派遣、上表する。
同年7月・・・李守真ら帰国する。
同年11月・・・対馬国司が「郭務悰らが47艘の船で、百済人・倭人1400名と合わせて2000名を率いてやって来る」と報告する。
(この年の12月3日、天智天皇が近江宮で崩御する)
(5)672年3月・・・阿曇連稲敷を筑紫に派遣し、郭務悰に天智天皇の死を告げる。郭務悰は喪服を着て天皇の死を悼み、書函と進物を贈呈する。
同年5月・・・郭務悰に甲冑と弓矢を与える(ほかに絹糸・布・綿など)。
同年5月30日・・・郭務悰ら帰国する。
(この年の5月から8月まで壬申の乱が勃発し、近江方勢力の大友皇子が大海人皇子勢力に敗れ、天武時代が始まる)
以上が白村江戦役後に唐から到来した使節である。
これら使節は唐の皇帝の使いであるが、使節の発遣元は朝鮮半島の旧百済王都であった「熊津(クマナリ)」だった。百済を完全に占領下に置いた唐の将軍「劉仁願」がその指揮を執っていたようである。
この到来で注目すべきは664年5月、665年7月、671年1月、そして672年3月に見える(それぞれ下線部)「表函」「上表」「書函」である。
書紀ではサラッと触れるだけで、内容については一切書かれていないのだが、これら「表」は「書」と同じで、要するに唐側からの「下し文」すなわち降伏文書であると思われる。
これらのうち最も重いのは2番目の665年の渡来時に劉徳高が寄越した「表函」だろう。前年の劉仁願の到来では、唐が新羅と連合して倭の水軍を破ったが、さらに戦いを続けるかどうかの意思、別言すれば「休戦協定」に関する文書を持参した過ぎないが、665年の「表函」にあったのは「降伏文書」そのものであったと思われる。
この時の内容も全くの不明だが、推測すれば「戦争責任者の捕獲と処罰」について書かれており、結局のところ戦役の最高責任者であった中大兄皇子(称制天智天皇)の処遇に関する文書であったに違いない。
大和王権側ではもちろんその要求を突っぱねる画策をしており、664年には対馬・壱岐・筑紫に兵士(防人)を配備し、連絡網である熢(とぶひ)を設置して防備を固め、さらに筑前に「水城」を構築して唐軍に備えた。
さらに665年には唐の使節が到着する前に、長門・大野・基(筑前)に百済の遺臣たちを使って城を築かせている。戦う気力は十分にあるぞ、そうやすやすと唐の言いなりにはならないぞ、という意思表示だろう。
この年には下線部のように、初めて大和側から守君大石や境部石積という人物たち数人が唐に渡っている。これは返礼の使いだが、その意味を考えると、降伏文書の受諾というわけではなさそうである。
ところが③の667年の11月になって倭国側からの使節であった境部石積らが、百済鎮将(占領軍総司令官)であった劉仁願の配下の熊津(ユウシン)都督「司馬法聡」によって2年ぶりに筑紫に送られて来たのだが、その受け入れ先は「筑紫都督府」であったのだ。
「筑紫都督」とは唐側の設置した占領行政機関であり、太平洋戦争後のGHQの機能と同じである。推古天皇の17年(609年)に見える「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」(のちの大宰府)は、664年の初めての使節到来から666年までの間に接収され、唐の占領行政機関になっていたのだ。
百済の占領行政機関は「熊津都督府」であり、その当時の司令官が司馬法聡であったのは分かっているが、この筑紫都督府の司令官が誰であったかは書かれていない。これも推測だが、唐人で倭語にも精通している者としては、664年の初渡来から、672年の最後の帰国までこの期間に4度も記録されている文官の朝散大夫「郭務悰」がおり、その可能性が高いのではないかと思う。
【天智天皇の近江京遷都とその死】
筑紫都督府に境部石積らが送還された年(667年)の3月、天智天皇(称制)は多くの反対を押し切って大和から近江に宮を遷した。そして翌年の1月には近江において正式に天皇に即位した。(※この都で「近江令」が作成されたが、これはのちの律令の嚆矢であったのは名高い。)
大和王府にとって幸いだったのは、唐が再び新羅と連合して高句麗との戦いに入り、直近の2年はそれに戦力を集中していたことである。高句麗は668年の9月に平壌が陥落し、滅亡の一途を辿ることになった。
それが一段落した669年、いつとは年月日はないのだが「この年に、唐が郭務悰ら2000人を派遣した」という記事が分注に見えている。この船団の記事が見えるのは671年11月である。それによると、「対馬国司が、郭務悰らの船団47艘(2000人)が筑紫に向かっているが、けっして戦うためのものではないから、攻撃しないように」と言って来たというのである。
この船団の乗員2000名の内訳は、唐側の人員が600名であとは百済人および倭国人の捕虜1400名ということであった。この捕虜の中には「筑紫君薩野馬(つくしのきみ・さちやま)」なる者もいるという。かなりな大物がいたものだ。
669年の記事に船団を派遣したとしながら、2年も経ってようやく筑紫の手前に到達したというのは余りにも時間がかかり過ぎているが、百済に立ち寄り、そこで倭人の捕虜や敗戦国の百済人・高句麗人で倭国に移住したいと希望する者の選別や支度などにかなりの時間を取られたのかもしれない。
さてともあれ、671年の11月に唐の軍船が47艘も筑紫にやって来たのだが、その直後の12月3日に天智天皇は近江宮で崩御している。死の原因は明示されていない。去る9月に「天皇寝疾不与(天皇みやまひしたまふ)」とあり、何らかの疾病に罹った可能性が示唆されているが、よくは分からない。
天智天皇の死後の殯(もがり)の時に、次のような童謡(わざうた)が聞こえて来たという。
<1.み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ>
<2.臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねば 御子の紐解く>
<3.赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ>
1の歌の「吉野の鮎」は大友皇子と皇位を争いたくないとして出家して吉野に隠棲した大海人皇子を指しており、2の歌の「御子(みこ)」も大海人皇子のことで、法服を脱いで甲冑を身に付ける意味だろうと思われる。また、3の「真葛原」は、吉野の宮から30数騎で宇陀から名張へ抜ける山深い道中の比喩であろう。いずれにしても大海人皇子方の対近江軍戦略(東方への大迂回作戦)の困難と厳しさを歌っている。
(※この壬申の乱で不思議なのが、天智天皇の死(671年12月3日)のちょうど二年前、中臣鎌足は死の直前に「大織冠」を授けられ、加えて姓「藤原」を賜るのだが、壬申の乱の最中に鎌足の息子の不比等は一切登場しないことである。)
天智天皇の死は671年11月に唐の使節が到着した翌月であり、時系列的にいかにも整然とし過ぎており、このため天皇は唐の使節の命によって処刑、もしくは自死したのではないかなどという憶測もある。
また『扶桑略記』には、「天智天皇は山科の山中に馬で歩み入り、そこで行方知れずとなった。履(はきもの)だけが見つかったが、そこを天皇の墓所とした」という記述があり、そうなると失踪(逃亡)した可能性も考えられる。
そもそも大和を捨てて近江へ都を遷したこと自体が、いつか来るかもしれない唐の「戦犯捕獲隊」を逃れる意味合いもあったのではないか。
天智天皇が近江宮を脱出し、失踪したかどうかの詮索は置いておくが、(5)の記事(672年3月から5月)に見える「書函(ふみばこ)」には終戦後最後の唐からの「下し文」で、内容としては天智天皇の死を悼み、かつ唐と倭は今後戦争をしない(倭国は半島に手出しをしてはならない)という、言わば「平和条約」の類だったろうと推測したい。
672年5月には「郭務悰に甲冑と弓矢、及び絹糸・絹布・綿を与えた」とあるが、これが「勝者への賠償」だったのだろうか。賠償の物品にしては少ない気がするし、倭国側の戦争責任者を連行したわけでもない。天智天皇(戦争当時は中大兄皇子による称制)の死を以て、よしとしたのだろうか。この記事だけからはそう考えるほかないようだ。
いずれにしても、この天智天皇の不審死(死の実相)についてはもう少し考えてみる必要がありそうである。
(※大和から近江に都を遷した天皇に景行天皇がいるが、この近江遷都も真因がよく分からない。次の成務天皇時代は武内宿祢が大臣になって取り仕切っており、もしかしたら武内宿祢によって排斥されたのかもしれない。いずれにしても近江への遷都の背景には皇位をゆるがす何らかの争乱があったと言える。)