鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

苦肉の策

2022-10-19 19:03:35 | 日記
家庭菜園では秋蒔きの野菜がようやく出揃って来た。

シュンギクをはじめ9月になって蒔く野菜は、冬を越して春2月以降に収穫するものが多い。

おおむね9月初めの頃の台風一過を待って蒔くのが定石だが、今年は9月18日から19日にかけて台風14号が吹き荒れ、せっかく蒔いたのが強風や水攻めに遭って蒔き直す羽目になってしまった。

そこで9月20日頃に一斉に蒔いたのだが、小松菜がダメ、ほうれん草もダメ、大根もダメ、とダメ出しばかりだったが、シュンギクだけは何とかきれいに芽が出てくれた。

ところがあに計らんや、シュンギクの畝をほじくり返す者がいた。動物である。何と我が家の猫モモであった。


慌ててシュンギクの畝を竹の棒やらトンネル用に使うグラスファイバーの棒やらで、畝全体を覆うように防御した。

うちの猫は菜園をうんこ場と思っているらしく、種蒔き用に耕して整地しておくとすぐにそこをちょいちょいとほじくって用を足すのが日常である。

𠮟っても知らぬ存ぜぬと申し開きをするのならまだしも、何のことやらさっぱり分からぬのが飼い主の悩みである。

露地ではなくビニールマルチは、その点、猫の用足し防御にはもってこいなのだが、真冬に全部収穫するのならともかく、冬から春先までの長い期間収穫をするためには向かない。

一番いいのは畝全体の周りに防風網のようなもので囲ってしまうことだが、それは大仰過ぎるし草取りなどの管理には邪魔になる。

そこで考えたのが、野菜用ネットのベタ掛けである。


二畝を覆った野菜ネット。左の畝にはシュンギクの苗を移植し、右の畝には青首大根を蒔いた。こうしておけばモモもちょいちょいとほじくるわけには行くまい。やったね、とほくそ笑んだ。(※右手の畝は箱播きしたサニーレタスの苗を、ビニールマルチした畝に移植したもの。モモの攻撃からは完全に逃れている。)

今日は他にタカナ、小松菜、玉ねぎを育苗箱に箱播きした。

秋晴れの今朝の最低気温は10℃台とこの秋の最低だったが、果たしてこの低温にめげずに芽を出してくれるか心もとないが、日中は25,6℃まで行くので何とかならないかと思っている。

対馬の金田城(記紀点描52)

2022-10-15 21:57:33 | 記紀点描
今夜のNHK「ブラたもり」を観ていたら、対馬の金田城が取り上げられていた。

この金田城は西暦663年に百済を救援すべく新羅・唐連合軍と戦い、百済の白村江の海戦で壊滅的に敗れた日本(まだ当時は倭だが、日本を使う)が、連合軍の日本への侵攻を怖れ、4年後の11月に完成させた朝鮮式山城である。(※河内の高安城、讃岐の屋島城も同じ頃に造られている。)

現地は初めてのタモリは、現有の石垣の高く、長く続いているのに驚いていた。主として百済からの避難民のうち、築城に優れた者たちの技術によって倭国人と共同で築造したのだろう。

記録の上で西暦667年11月に完成した(天智天皇紀6年条)とあるから、今から1355年前の話である。小高い山の中腹に帯状に造られた石塁の長さは2.2キロもあり、重機の無い当時、どのように積み上げたのか想像を絶する。とにかくそんな昔の石を積み上げた構造物が、一部とはいえそのままの形で残っているのは奇跡的である。

ここは半島から、唐と新羅の連合軍が侵攻して来たら最初に攻撃される城であるから、かなり綿密かつ強固に造られている。そのため1350年余りを経てなお現存しているわけだが、実際にここで戦闘が行われたという記録はない。

それよりも敗れた663年の8月以降、唐からの遣使は6度もあり、そのうち武将を伴う使いは664年、665年、667年と立て続けにあった。降伏文書(表函)の調印がその目的であったと思われるが、金田城が完成した667年には「筑紫都督府」が置かれ、少なくとも九州北半は唐軍の支配下に入ったようである。(※665年の唐からの遣使船には、中臣(藤原)鎌足の長子で唐に留学僧として学んでいた真人が乗っていた。この真人こそがのちの天武天皇であろうと私は考えている。そのことは記紀点描㊽に詳しい。)

6度目の最後の671年の遣使は、郭務宗という文官が李守真という武将を従え、総勢2000名という大船団を組んでやって来た。この中には百済における戦闘で捕虜になり九州に帰された者が多くいたらしく、九州に到着するとすぐに「大船団だが、攻めて来たのではない」旨を上申させている。

捕虜以外の唐軍の人数は記録に無いが、相当な圧力であったことは間違いなく、筑紫の都督府に滞在しつつ、そのうち相当数の武官が畿内に向かったものと思われる。天智天皇に対する「戦犯容疑」を掲げ、多数の捕虜返還と引き換えに天智天皇の身柄を拘束したに違いない。そしておそらくは殺害されたものと思われる。

その証拠が、20年後の692年(持統天皇6年)に、持統天皇が筑紫大宰に対して「郭務宗が置いて行ったという阿弥陀仏を大和へ送りなさい」という勅を出したことで推測される。「阿弥陀仏」は来世の至福を約束する仏で、天智天皇を処刑した償いのために制作したのではないかと思われるのだ。

郭務宗以下2000名の唐使というのは通常の平和的な使いではないことは明らかであり、それ以前に5度もの使いがありながら、一向に掴み得なかった「戦犯こと天智天皇」の所在をようやく掴み、結局、所期の目的を果たしたのだろう。天智天皇の死が、郭務宗たちの来日と同じ671年の12月3日と書紀に記されているのもそのことを裏付けていよう。

対馬の金田城も、高松の屋島城も、河内の高安城も、その他たくさんの朝鮮式山城は、唐との戦いの場とはならなかったが、白村江の海戦完敗後の日本の一大危機感の象徴だ。

しかし白村江の海戦で日本軍に勝利し、その直後からたびたびやって来た唐軍も、日本側の首謀者の死によって矛を収め引き揚げたのであった。

やられたら、やり返す!

2022-10-13 19:51:32 | 災害
ウクライナへロシアが10日、11日と市民への直接被害も辞さないミサイル攻撃を行った。

これはその2日前のクリミア大橋(ロシア領からクリミア半島へ東側から連絡するヨーロッパでも最長という大きな橋)が破壊されたその報復という。

ウクライナ側は明確にしてはいないが、ロシア自身による自爆ではない以上、ウクライナによる破壊とする他ないだろう。ロシアの報復攻撃によって、そのことははっきりとした。

2014年にクリミアの住民による投票でロシアへの編入が支持されたとして、プーチンは併合を強行したのだが、そのことでクリミア半島内部のロシア系住民とウクライナ系住民の確執が激化したわけではなく、おそらくプーチンはその成果を過大評価し、今度のウクライナ東部4州の住民投票を行ったのだろう。

もちろんその投票結果はでたらめだが、プーチンは一方的に併合を宣言した。東部4州がロシア領になったということである。

このことは非常に大きな意味を持つ。東部4州にいる(残る)ウクライナ系住民はちょっとしたことで「反ロシア行為を行った」としてロシア側が逮捕することが可能になったのだ。スパイ行為の言いがかりを付けられることも日常になる。

もっと恐ろしいのはウクライナ側がこれに対して武力に訴えたら、ロシア側がさらなる攻撃を加えることだ。プーチンはロシアへの戦闘行為だとして報復に核を使うことも選択肢に入れて来るだろう。

ウクライナ4500万の人口のうち、すでに1000万以上が祖国を離れた。ロシアによる攻撃でウクライナ軍人以外の一般住民5万人くらいが死傷している。

またロシアでもプーチンが30万の「部分的動員(招集)」を打ちだしたら、もう70万以上のロシア人が良心的兵役拒否のため祖国を離れたという。

双方で国民の分断が起きているのだ。それも世界注視の中で!!

やられたら、やり返す――という報復の連鎖は、国連の安全保障理事会の最も嫌うところだ。だが、この戦争は常任理事国のロシアが当事国なので安全保障理事会の機能も半端になるしかない。

プーチンの嫌う「ネオナチのNATO」が制裁を超えて圧力を加えるかどうか、一国連加盟国のウクライナへの対応が今後の世界情勢に大きな意味を持つ。

何としてもプーチンに核のボタンを押させないようにしなければならない。


辺境と防衛

2022-10-09 19:46:08 | 日本の時事風景
南九州はいま対中国防衛の本土最前線になっている。

種子島では西之表市に属する離島の「馬毛島」(まげしま)に自衛隊の基地を造り、そこを米軍の「空母艦載機陸上離着陸訓練」、要するに航空母艦に載せて敵地近くに揺曳させ、甲板を滑走路にして攻撃するための米軍航空機の離着陸訓練を行う施設を造成しようとしている。

その際に国は「米軍再編特別措置法」に基づき、関係市町村に「再編交付金」を支払うのだが、西之表市の八板市長は最初は反対だったのだが、次第に折れはじめ、今は馬毛島の中に在った小学校の敷地を防衛庁に言い値で売ることに同意した。

この時点で西之表市は防衛省の軍門に下ったも同然で、今後は市議会の基地造成反対派への説得に市長が乗り出すことになる。ただ反対派との分断は「病膏肓に入る」ではないが、相当な紆余曲折を経そうである。場合によっては現市長の次期再選はないかもしれない。

同様に、ここ鹿屋市でも海上自衛隊基地に米軍の「MQ9(無人偵察機)」が持ち込まれ、対中国防衛の一環としての偵察行動の一翼を担おうとしている。何日か前には米軍の責任者が鹿屋市長を表敬訪問した。

その席で中西鹿屋市長は、休日など米軍人の行動制限なしの事態に危惧を抱いているという市民の思いを司令官に訴えたが、司令官もそのことは十分に心得ていると回答している。

鹿屋に米国の軍人が到来するのはこれが初めてではない。終戦直後の9月2日に鹿屋市の高須から米軍の一団が上陸し、現在の海上自衛隊航空基地に占領軍の軍務所を置いている。時の鹿屋市長は永田良吉で、永田は米軍に臆することなく振る舞ったことで、かえって米軍の信頼を掴んだという。

この米軍の日本本土への上陸と占領は「日本始まって以来の他国による占領」と言われるが、実はもっとはるか以前の天智天皇の3年(664年)には前年の「白村江の戦」で壊滅的な敗北を喫した日本(倭国)の九州へ、唐の将軍劉仁願が、また翌4年(665年)には劉徳高がそれぞれ「文書」を持参している。

この文書は「表函」と称されているが、要するに「降伏文書」であり、勝者の唐側が敗者の日本(倭国)へ降伏の条件を示したものである。

この降伏条件の詳細は記されていないのだが、おそらく日本側はそれを拒否し、これを重く見た唐はさらに郭務宗という人物以下2000名もの軍隊を派遣し、筑紫(九州)に「筑紫都督府」を設置している。(※この筑紫都督府は倭国の設置とする考えがあるが、そうではなく唐による設置だろう。)

幸いにも新羅が高句麗を破って半島を統一し、その後半島は唐の支配を排除したたため、唐による日本(倭国)の統治は免れた。だが、天智天皇は大和を離れ、近江に都を移さざるを得なくなった。おそらく筑紫都督府による戦犯捕獲(逮捕)の最高の対象だったためだろう。

(※この結末には実に謎が多いのだが、天智天皇の後任となった天武天皇の素性も同じ地平の謎の一環である。当ブログの「記紀点描」42から48までを参照してもらいたい。)

さて日本本土最初の米軍占領地となった鹿屋は、言うまでもなく本土最南端の「辺境」にある。そして沖縄とともに中国大陸とは「一衣帯水」の位置にある。

そこで目を付けられたのが、ここ南九州は対中国防衛への最前線になるということであった。米国がそう目を付けた以上、その戦略に従わなければいけないのが「日米安全保障条約」の宿命である。

要するにアメリカが中国を「仮想敵国」視している以上、同盟国日本もそれに従わなければならない不文律があるのだ。辺境の対中国防衛最前線の沖縄も南九州も、本土防衛のためには、当該施設が造られても文句が言えないわけである。

そこには自由も民主主義もない。「お国のためには」と言っていた戦時中とそう変わらない状況であり、かてて加えて「アメリカの自由と民主主義を守るためには」という日米安保ならではのフレーズが加わる。

かくて辺境の地に、地元の平和への念願とは裏腹の防衛施設が次々に造られることになる。「米軍再編交付金」という名目が空々しく響く。</span>

鬼界カルデラの大噴火が残したもの

2022-10-05 20:27:45 | 災害
薩摩半島から約60キロ南へ行った離島の薩摩硫黄島は、7300年前に大噴火を起こした海底火山「鬼界カルデラ」の外輪山で、その名の通り江戸時代から硫黄の産出地として知られていた。

その硫黄採取の様子がNHKの2006年12月に「滝沢秀明が火山探検に行く:鬼界カルデラ」というようなタイトルの特番で放映され、テレビ画面から写真を何枚か撮影しておいたのだが、今日パソコンに保管してあったのを見返してみた。当時は手掘りで大変な苦労をしたらしい。


鬼界カルデラは東西22キロ、南北19キロの大きさで、薩摩硫黄島はその北西部に噴出した外輪山が海上に姿を現した島である。

どのような理由で滝沢秀明がキャスティングされたのか、ビデオで撮っておいたわけではないので、理由は分からない。多分、その当時のNHKで大河ドラマがあり、滝沢が主役か何かを張った時期だったのだろう。とにかく興味があったのでテレビ画面からデジカメで撮影したのだった。

7300年前、鬼界カルデラの大噴火はこの図の赤い線で囲まれた部分のど真ん中で起き、噴火による大津波・大火砕流・大降灰を四周にもたらし、特に南九州にはそれらのすべてが襲いかかり、早期の縄文文明はほぼ壊滅したのであった。

巨大噴火の大きさは、富士山が江戸時代の宝永4(1707)年に起こした大噴火と比べても、その規模の差はけた違いであった。

鬼界カルデラの中心から半径200キロ見当では降灰の量は30センチ以上で、最も遠い1500キロ先の関東北部でも10センチくらいの厚さで降り積もっている。人類有史以来最大の火山噴火と言われているが、確かにその通りだ。

米を食料の中心とするようになった弥生時代以降にもしもこの大噴火があったなら、日本列島全体の米の生産量は2割程度に落ち込み、多くの餓死者が発生したに違いない。

鬼界カルデラの噴出の時は、幸いにも(?)まだ米のような栽培植物に依存しない時代だったので、壊滅的な被害は膨大な降灰、そして火砕流や火山礫の直撃を受けた南九州だけで済んだ。

不幸にして南九州の早期縄文人は、この大災害によって死滅したと言われている。

(※だが一部は生き残り(逃げ延び)、南九州以外の地で気息奄々としながらも暮らしを続けた可能性もゼロではないと思われる。東北・北陸の縄文時代に見られる「火焔型土器」は本当は火焔ではなく巨大津波の姿なのかもしれない。)

この時、当然だが、早期縄文人が製作した諸道具(土器類、祭祀用具など)を持ち運び出すことは不可能で、したがってこれらは火山灰の下にすっかり埋もれてしまった。これを「火山灰パック」と言うようなことがあり、そのおかげで南九州の早期縄文文明が姿を現すことになった。しかもワンセットで。

国分の南に高く突き出た上野原台地に、まさかこんな遺跡が埋まっていようとは考えられもしなかった時、ここを工業団地にしようとした旧国分市の思惑は見事に外れたのだが、結果としては考古学上の金字塔を打ち立てたとしてよいだろう。

そもそも「クマソ・ハヤトの盤踞する遅れた地域」として今も見られがちな古日向地域に、こんなにも古い時代に、他では見られない先進性を持った文明が存在するとは誰も思わず、特に中央の学者たちは自説が覆されるのを快く思わず、無視を決め込んでいるようだ。

青森県の三内丸山遺跡には大騒ぎするが、それは考古学の旧説保持者の連中がお墨付きを与えるからだろう。その三内丸山より4千年から5千年も古い上野原縄文早期遺跡にはもっと光を当てなくてはなるまい。

そして同時に、鬼界カルデラの再発にも気を配っておきたいものだ。