ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝吹屋ふるさと村〟と〝広兼邸〟

2019年03月24日 | 俳句

 今日は一日中晴れていましたが、やはり気温は少し低いようで、特に夕方から夜にかけてはエアコンを入れないとゾクゾクします。このところ最低気温が4度とか5度ですからね。

 ところで、今日は一日どこにも行かず…一体何をしていたんでしょう?これといったものがありません。まあしいて言えば、俳句の添削をしたり、明日と明後日の俳句教室の資料を作成したり、片付けをしたり…、ああ、「あしかび会」が今週末の土・日ですので、その準備もあって落ち着かないんです。こんな時って気になって何もかもが中途半端なようで…これをしたという気がしないんでしょうね。

 昨日の続き…〝ドイツの森〟をやめて、一路高梁市成羽町の〝吹屋ふるさと村〟を目指しました。ところが、思ったより遠くて、到着したのはもう2時過ぎ。〝吹屋ふるさと村〟はかなり歩かないと行けないし、おばあちゃんも疲れているので、車で通るだけにして、〝広兼邸〟の見学に行きました。それで、〝吹屋ふるさと村〟の説明は、高梁市観光協会の「高梁市観光ガイド」をお借りしました。ゴメンナサ~イ!

吹屋ふるさと村

『ベンガラが語りかける、繁栄の歴史』

赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み、この町並みこそ、江戸末期から明治にかけ、吹屋の長者達が後世に残した最大の文化遺産です。

豪商が財にあかせて建てた豪邸は、全国各地に見ることができます。しかし、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります。昭和49年には岡山県のふるさと村に認定され、昭和52年には文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の認定を受けました。

 広兼邸へはかなり急な坂を上ってしか行けませんので、おばあちゃんは下の駐車場から見上げるだけにして、あとの6人は邸内を見学しました。入館料300円。以下は「高梁市観光ガイド」より。

映画のロケ地にもなった豪奢な雰囲気を味わって

享和、文化の頃(1800年ごろ)小泉銅山とローハ(硫酸鉄)の製造を営み、巨大な富を築いた大野呂の庄屋・広兼氏の邸宅です。江戸末期に建てられた、楼門づくりで城郭にも劣らない堂々たる石垣は、今もそのままに当時の富豪ぶりをたたえています。広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えで今もそのままに当時の富豪を偲ばせている。
映画「八つ墓村」のロケが昭和52年と平成8年の二度にわたりおこなわれ、全国に放映された。

写真は、①坂から見上げた広兼邸 ②武者返しのような石垣 ③広兼邸の説明板 ④楼門づくりの入口 ⑤~⑧邸宅

 

 時間もかなり遅くなっていましたので、見学者も私たち以外にあと二,三人…。とにかくこんなところによくもまあ建てたもんだと感心します。楼門の上は寝ずの番の門番部屋、水は岩から流れ出る山水を使っていたとか…小大名のお城のような暮らしをしていたんでしょう。

 この後ここから中国自動車道の新見インターへ出て、京都の義弟夫婦と別れ、一路宇部へ。結局お昼はいちごだけでしたので、途中のSAで食事をして、帰り着いたのが8時半頃でした。ああ、疲れた…のは、2日とも運転してくれた主人。どうもお疲れ様でした。オシマイ!                    


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