さて、吉水神社を出てからが、長かったです。
最終的には、吉野水分神社と如意輪寺に行く予定で、どちらが先でもよかったんですが、
2か所がここまで離れていようとは(^^;)。方向もまったく違うし。
結論、大雑把に言って、如意輪寺は、谷を挟んで金峯山寺側の尾根?とは反対側にあります。
谷をぐるりと迂回する感じで、花にはまだ早い山沿いを延々と歩きました。
先の見えない、道路が続く、山道…
車も、人も見えません…(--;)
さっきまでいた、金峯山寺蔵王堂の大きな屋根が、春霞にけぶって、はるかかなたに見えます…。
ずいぶんと歩いたもんです。もしや職場のランチタイムで、持久力が鍛えられている!?
ちょっと疑いたくなったあたりで、ようやく如意輪寺の案内看板登場…信貴山奥の院で、
ひどい目にあった経験があるので、ようやく安心できました(^^;)
さて、如意輪寺は山間にひっそりとあります。
後醍醐天皇の信仰が厚かったそうで、裏手には後醍醐天皇陵があります。
もちろん、お参りしてまいりました。
この階段の上、木々に包まれて後醍醐天皇陵があります。
普通、天皇陵は南面していますが、後醍醐天皇陵は、北面…つまり、京都の方を向いているわけです。
後醍醐天皇が、亡くなる際、こう言い残したからです。
以下、角川文庫の太平記からの抜粋です。
…ただ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。…(中略)…
玉骨は縦(たと)ひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。
足利幕府を倒して京都に帰るという悲願を果たせず、吉野で病死した後醍醐天皇なのでした。
さて、再び、如意輪寺へと戻ります。
ここにも、「御用の方はベルを押してください」(^^;)
ホント、今回はマイワールドな旅です(^ω^)
でも、こういう悲しい史跡をめぐるに丁度いいですね。
さて、楠木正成が湊川の合戦におもむく前の、息子正行との別れの場面が石像になっていました。
俗に言う、「桜井の別れ」でしょうか。
如意輪寺で、もうひとつ見逃せないのが、楠木正行の辞世の句を刻んだ扉です。
楠木といえば、何よりの帝の忠臣。
正行の父正成は、足利尊氏が九州から都に攻め上ってきた際、それを抑えるべく湊川にて、弟正季と討ち死にしています。
それで都を足利に取られ、後醍醐天皇は吉野に逃れてきたというわけです。
楠木の尊王の精神は、その後もしっかりと一族に受け継がれていっています。
南朝と、足利幕府との争いはその後も絶えず、1346年、高師直が吉野へ攻めて来る際に、正行はこれを向かい討つべく出陣します。
そのときに、勝てる戦ではないと分かっていたので、後醍醐天皇陵にお参りし、
後村上天皇(後醍醐天皇の皇子:義良)に別れを告げに吉野を訪れました。
そのときに、辞世の句を如意輪堂の扉に彫り付けたものが、今も残っているのです。
辞世の句
かえらじとかねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる
大意は、再び帰れないと思うので、亡くなった人の仲間入りをする名前を書き残していきます…というものです。
決死の覚悟が伝わるとともに、やっぱり悲しいですね…。
ちなみに、このときまだ23歳…今の感覚とは違うとはいえ、信じられない世の中です。。。
ほかにも、宝物殿の中には、楠木正行のエピソードを絵にしたものや、彼の刀、兜
など、貴重なものが展示されています。
お庭には、すごく立派な枝垂れ桜の大木も。
ここの宝物殿には、唯一という桜の木で彫られた蔵王権現像もあります。
さて、ひとしきり南朝に思いを馳せた所で、元来た迂回路を戻るのも面白くないので、
谷超えルートで、如意輪寺方面と奥千本方面との分岐点に戻ることにしました。
…が、さすが谷超え、あたりまえですが、下ったら当然上る…キツイ(^^;)
鶯や鳥のさえずりと、小川のせせらぎのもたらす、自然の超癒し効果にも反して、かなり厳しい行程でありました。
次は、吉野水分神社を目指します。…が一体、どれだけ…。
すでに、地図の目測にだまされないだけの経験は積んでおります…。
最終的には、吉野水分神社と如意輪寺に行く予定で、どちらが先でもよかったんですが、
2か所がここまで離れていようとは(^^;)。方向もまったく違うし。
結論、大雑把に言って、如意輪寺は、谷を挟んで金峯山寺側の尾根?とは反対側にあります。
谷をぐるりと迂回する感じで、花にはまだ早い山沿いを延々と歩きました。
先の見えない、道路が続く、山道…
車も、人も見えません…(--;)
さっきまでいた、金峯山寺蔵王堂の大きな屋根が、春霞にけぶって、はるかかなたに見えます…。
ずいぶんと歩いたもんです。もしや職場のランチタイムで、持久力が鍛えられている!?
ちょっと疑いたくなったあたりで、ようやく如意輪寺の案内看板登場…信貴山奥の院で、
ひどい目にあった経験があるので、ようやく安心できました(^^;)
さて、如意輪寺は山間にひっそりとあります。
後醍醐天皇の信仰が厚かったそうで、裏手には後醍醐天皇陵があります。
もちろん、お参りしてまいりました。
この階段の上、木々に包まれて後醍醐天皇陵があります。
普通、天皇陵は南面していますが、後醍醐天皇陵は、北面…つまり、京都の方を向いているわけです。
後醍醐天皇が、亡くなる際、こう言い残したからです。
以下、角川文庫の太平記からの抜粋です。
…ただ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。…(中略)…
玉骨は縦(たと)ひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。
足利幕府を倒して京都に帰るという悲願を果たせず、吉野で病死した後醍醐天皇なのでした。
さて、再び、如意輪寺へと戻ります。
ここにも、「御用の方はベルを押してください」(^^;)
ホント、今回はマイワールドな旅です(^ω^)
でも、こういう悲しい史跡をめぐるに丁度いいですね。
さて、楠木正成が湊川の合戦におもむく前の、息子正行との別れの場面が石像になっていました。
俗に言う、「桜井の別れ」でしょうか。
如意輪寺で、もうひとつ見逃せないのが、楠木正行の辞世の句を刻んだ扉です。
楠木といえば、何よりの帝の忠臣。
正行の父正成は、足利尊氏が九州から都に攻め上ってきた際、それを抑えるべく湊川にて、弟正季と討ち死にしています。
それで都を足利に取られ、後醍醐天皇は吉野に逃れてきたというわけです。
楠木の尊王の精神は、その後もしっかりと一族に受け継がれていっています。
南朝と、足利幕府との争いはその後も絶えず、1346年、高師直が吉野へ攻めて来る際に、正行はこれを向かい討つべく出陣します。
そのときに、勝てる戦ではないと分かっていたので、後醍醐天皇陵にお参りし、
後村上天皇(後醍醐天皇の皇子:義良)に別れを告げに吉野を訪れました。
そのときに、辞世の句を如意輪堂の扉に彫り付けたものが、今も残っているのです。
辞世の句
かえらじとかねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる
大意は、再び帰れないと思うので、亡くなった人の仲間入りをする名前を書き残していきます…というものです。
決死の覚悟が伝わるとともに、やっぱり悲しいですね…。
ちなみに、このときまだ23歳…今の感覚とは違うとはいえ、信じられない世の中です。。。
ほかにも、宝物殿の中には、楠木正行のエピソードを絵にしたものや、彼の刀、兜
など、貴重なものが展示されています。
お庭には、すごく立派な枝垂れ桜の大木も。
ここの宝物殿には、唯一という桜の木で彫られた蔵王権現像もあります。
さて、ひとしきり南朝に思いを馳せた所で、元来た迂回路を戻るのも面白くないので、
谷超えルートで、如意輪寺方面と奥千本方面との分岐点に戻ることにしました。
…が、さすが谷超え、あたりまえですが、下ったら当然上る…キツイ(^^;)
鶯や鳥のさえずりと、小川のせせらぎのもたらす、自然の超癒し効果にも反して、かなり厳しい行程でありました。
次は、吉野水分神社を目指します。…が一体、どれだけ…。
すでに、地図の目測にだまされないだけの経験は積んでおります…。