平成24年3月、38年間の消防人生を彦根市消防長で無事に定年退職することができました。
プロローグ
この消防人生(自分史)は、実のところ、約1年半前の平成22年8月に投稿を開始したものです。
しかしながら、1回から17回まで、その時点の最終のブログ投稿をした段階でクレームがありました。
きついクレームではなかったのですが、現職の消防長が個人的ブログであると言っても、それは通らないと感じて、一旦、ブログ記事を削除することにしました。
とは言っても、記事を「投稿」から「草稿」に設定しただけですが…これでブログ上からは消えました。
結果、それから今日まで、この記事は消えていました。
そして、この度、無事、38年間の消防組織から離れましたので、社会的ルールを逸脱しない限り、言論の自由もあるだろうと、ここに改めて再開版を投稿することにしました。
内容については、公に発表されている情報は記載し、個人に対しては名誉棄損とならないよう配慮することなどに注意して、再度、内容を見直したうえ投稿することにしたものです。
その結果、以前とは違い、面白さは少し失われたかも知れません。
なにはともあれ、ここからが改めて「自分史」のはじまりです。再開版 消防人生(自分史)にお付き合いください…
昭和49年 消防士
消防職員数69人 彦根市人口83,641人(管轄人口109,280人)
第5代消防長 本 一雄 氏(昭和49年4月~昭和50年3月)
昭和49年3月、中京大学法学部法律学科を卒業し、地元、彦根に帰って消防士になりました
・・・・と言えば、聞こえはいいのですが?
大学4年の早い時期に、名古屋で就職は内定(東証一部上場企業でした。)していましたが、長男だからと母親の泣き落しで地元に帰ってくることになったのです。
(今思えば東証一部上場の企業ですから、惜しかったかな?)
半分、ヤケクソでどこでもいいから就職しなければ、と、親の勧めるまま、急きょ公務員を目指すことに・・・
(今から思うと、親の判断は正しかったのかも知れません。)
当然のことながら、大学時代、少林寺拳法しかやっていない私の脳みそでは、彦根市の上級職試験に合格などするわけがなく、消防職員なら空きがありますから、と言う話で、そのままこの世界に飛び込みました。
今の時代と比較するような話ではありません・・・
そのような訳で、昭和49年(1974年)4月1日、彦根市消防本部に就職し、消防士笠原恒夫が誕生しました。
まさか、この時、こんな動機(まったく立派な志ではなく…)で就職した私が消防長になるとは、思ってもいませんでした・・・・・
当時の消防本部は、消防隊員が市民から直接119番の火災通報を電話で受け、そのまま消防車に飛び乗り火事を消すことが仕事の中心でした。俗に言う「火消し」!
私が就職したこの年に、「指令室」という119番を専門的に受ける部門ができました。
電話が普及していない、その前の時代では、望楼(ぼうろう)という消防庁舎の櫓(やぐら)から職員が交代で「火の見」をしていたようです。
こんな私が消防に入って、最初に感じたことは、「なんと楽な職業だ、まあいいか」でした・・・トンデモナイ奴ですね…
採用された15人のうち、大学卒業者は私だけ、職業経験のある人や高校卒業見込みの人など…今、同期は11人残っています。いや、私ともう一人が希望退職で抜けたので、9人になりました。
当時は、毎日が訓練です。訓練は10分、休憩は1時間でした。(それでいいのか?)
24時間勤務ですから、交代で仮眠です。
フトンは今のようにリースではありません。
自らがフトン干し、シーツ付け、もちろん新米は夕食当番です。
煮込みハンバーグも作りました・・・・
今思うと、この年から少なくとも10年以上、まじめ(様々な解釈はあります)に仕事をしたとは言えません。
思えば「行雲流水」のごとく、始まった私の消防人生でした…
朝9時に次の24時間を担当する班と交代です。(現在では朝8時半交代こ変更されています。)
基本的に9時から次の日の9時までが非番です。
公休日は月2回割り当てでした。
当時は、週休2日制などトンデモナイ話です。適当に週休日を交代して一カ月近く休みなしで勤務したこともあります。
様々な考え方はありますが、ある意味、こんな生活は、若い人間には毒になりますね。
前日の仮眠は職場でしっかりとり、非番は朝から喫茶店、10時の開店と同時にパチンコ屋さん。
夜は袋町という歓楽街orマージャンです。
よく遊びました……今、考えると、この「遊び心」が良い方向に作用し、仕事の改善につながったのではないかと思います(笑)。
当時は、総理大臣田中角栄の独壇場、「日本列島改造論」で景気は右肩上がり、当然、公務員と民間の給与格差を是正する、いわゆる「差額」が年末に出でいました。
その額、なんと、ボーナスより多いのです・・・
いい先輩ばかり?
差額は1週間で先輩に連れていってもらった袋町の飲み屋さんにお支払いしてしまいました。(笑)
振り返れば、私は、この時期、これと言って仕事をしたという感覚はありません…その反動は、その後にありましたけれど。
2年ほどの訓練で、私は、消防自動車を運転し消防ポンプを操作して自然水利や消火栓から吸水作業をする「機関員」をさせていただきました。
さすがに初めての火事は、回転灯を点灯し、ウーウーカンカンとサイレンを吹鳴して出動する時、アクセルを踏む足がガタガタ震えたことを思い出します。
この時期、私は、仕事はほどほどにして、少林寺拳法に打ち込みました。
その結果、社会人の関西大会に組演武三段以上の部に出場し、並み居る京都勢を抑えて決勝に進み、第3位に入賞しました。
今の時代では考えられないことばかり…
次は、3年後、消防士長昇任、指令室勤務の話にしましょうか・・・・
昭和49年 7月 9日 赤十字救急法普通科講習 修了
昭和49年 8月 7日 特殊無線技士(無線電話乙) 取得
昭和50年 3月20日 危険物取扱者乙種第4類 取得