10代の頃、ひたすら自分に問いかけていたものがあります。
それは「自分の存在理由」というものについて。
これまで歩いてきた自分の足跡を辿ってみても、30代になった今の自分にはまだ、その頃の自分に返してあげる言葉を見けることができません。
旅をしていると、「旅は人生の縮図」だなと感じることがあります。
前述の問いに対して、旅する自分を重ねてみると、自分のその旅にどんな意味があるのかなど誰にもわからないと思うし、旅をしている最中の自分にも、それが良いとか悪いとか言えるような余裕もありません。
旅の後、、、しかもそれから一定の時間が経った、その後の暮しの中でふと振り返った時に、ただ「よかった」という言葉以上の何かを感じることがあります。
後に振り替えってみて、旅の中で偶然出会った誰かの言葉が、その後の自分の旅に影響を与えたと思えることがあります。
それは自分のまだ行ったことのない場所の情報や、実体験に基づいた生の声であったり、その人が笑顔で楽しそうに語る思い出だったり、苦いトラブルの話だったり、、、。
日本や欧米の先進国だとそれ程必要と感じないのかもしれませんが、特に治安が悪かったり、病気の心配がある発展途上国での旅などでは、旅の前や旅の途中に、生きた情報や生の声を求めることがよくあります。
同じように何度か一人旅を繰り返していると、誰かにふとしゃべった自分の言葉がきっかけとなったのか、「あの時話していたあの場所へ行ってきましたよ」などという話を、後で聞いたりメールでもらったりすることがあります。
そんな話を聞いたとき、こんな自分でも、誰かの何かのきっかけになれたりするのだと、少し嬉しい気持ちになります。
自分の旅の意味は、もちろんその後の自分の人生によって決められるような気がしているのですが、残念ながら自分のことは、自分ではよくわからない部分も多く、やはり同じように人生という「旅の途中」では、良かった、悪かったといえるようなレベルにはまだ無いような気もしています。
こんな自分でも、自身の経験や失敗が1つのきっかけになって、誰かに何かの影響を与えたりすることができる。
そんな時、他人を通してではあるものの、ほんの少しだけ、自分の旅の存在理由が感じられたような気がするから、「嬉しい」という感情が生まれるのかもしれません。
同じように人生という名の旅においても、自分自身の何かが、誰かの何かになることができた時、自分の存在理由という、もやっとしたすごく曖昧なものが、少しは見えてくるのかもしれません。。。
※写真:2000年の旅ではじめて世界を旅した時の最初の旅ギター