先日の新聞報道で「後藤又兵衛壮烈な最後」の報道もあり久し振りに玉手山を
訪ねた。玉手山は、以前「玉手山遊園地」として近鉄電車が全国で2番目、西日本で
最初の遊園地として明治41年に開園したが、時代の波に押され平成10年5月に閉園
その後柏原市に移譲した。公園内には尾張徳川家の墓所「安福寺」や後藤又兵衛の碑がある。
俳人、小林一茶が当時の景勝地玉手山に2回立ち寄り句を残している。このブログにお立ち寄り頂いた
皆様にしばし、小林一茶の玉手山に対する思いをお聞きください。
彼の著書「西国紀行」の一節に
寺は、道明寺という。わずかに行けば、玉手山 尾張公(徳川家)の墓所あり。
竜眼肉の木ありて、このかいわい景勝地なり。かつらぎ山も見ゆ 山であそぶ人が
ところ処でつどう。下山して遠望す
と玉手山に遊び又、後藤又兵衛の墓に参り、南に連なる葛城、金剛山を眺め旅のひと時を過ごした
様子が覗われる。この地で詠んだ句に
雲折々に 適に 青葉みゆ 玉手山
初セミや 人 松 陰を したう此
と詠んでいる。
後藤又兵衛基次の碑
ご存知の通り後藤又兵衛は1615年大阪夏の陣で徳川方2万人を相手に部下2,800人と
この一帯で戦った。又兵衛は激戦の際に敵の銃弾に倒れ、家臣の吉村武右衛門に介錯をしてもらい
はてたとある。 その詳細は不明であったが、最近、最後の様子を記したメモ書きが京都府内で見つかった。
又兵衛と共に戦った、金万平右衛門の子孫が保管していた「後藤又兵衛討死之時」に詳しく記されており
貴重な資料とされる。
武将 吉村武右衛門の碑~後藤又兵衛の横に建立されている。
後藤又兵衛基次の介錯をしたとされる武将
大阪夏の陣供養塔
徳川、豊臣方両軍のがこの周辺で激しく戦い多数の戦死者が出た。これを弔うため、安福寺を再興した
珂憶上人が建立しました。
攻防の激戦地 小松山
小松山は4世紀ごろの前方後円墳(墳丘長110㍍)で貴重な埴輪等が出ています。
墳頂部は奥田忠次の墓があるが、個人の私有地であり調査はされていません。
徳川方が攻めてきた藤井寺、道明寺方面 小松山から望む~前方下方に静かに石川が流れる
小松山古戦場跡碑
小松山頂上に建つ奥田三郎右衛門忠次の墓
徳川方侍大将の奥田三郎右衛門忠次は小松山を占拠した後藤又兵衛を国分方面より攻めたがあえなく
討死した。家来5名と共に供養塔にその名が刻まれています。
次回は、尾張徳川家の墓所である安福寺について更新します。モミジのきれいなところです。