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こないだの土曜日夕食が終わった頃に、弟からLINEでメッセージが来た。
「あした、荷物(皿など、ビクターの犬はない)を送ります。今週の水曜日以降で受け取れる?」と。「週末以外なら大丈夫」と返事しておいたら、火曜日に大きな段ボールが一つ届いた。
みんなで実家から欲しいものを持ち帰ったときに(実家から持ってきたもの 1 - kebaneco日記)、あたしが輪島塗の銘々皿の残りを探してたのを覚えていてくれたのか、箱に入った8枚の塗りの皿が一番上に置かれて、下の方からアルバムが2冊、そしてあたしが両親に送った手紙をファイルにまとめたものが3冊出てきた。
早速お礼のメッセージを送ったら、「手紙や写真はその10倍くらいあったけど、多すぎて途中から取っておくのをやめてシュレッダーしました」と返ってきた。あたしが「それでいいよ。お皿は半分持ってなくて大丈夫?」と尋ねたら「いらないです。残ってた壺や絵画などは全部じゃないけど持って帰りました。まだあるけど置き場がありません」とあっさりしたものだった。男の子ってそ〜ゆ〜ものなのか(笑)?
昨日まで仕事がすごく忙しかったので、こんなものが整理して残してあったのかぁ〜と驚かされたままになっていた。昨日帰宅してからパラパラと読み始めたらなかなか面白い。自分の記憶にないことと、そうだったなぁと思うことと、なんでこんなことまで親に報告してんだろ?みたいなことと、笑ってしまう。
あたしは大学を出た後、渉外法律事務所に弁護士のバイリンガルの助手として就職。今で言うところの丸の内OLざんした。当時は両親が福岡に転勤になっていて、弟は大学生で、あたしは1人東京に残り碑文谷でアパートを借りて一人暮らし、という「一家離散」状態の頃。
渉外法律事務所というのは、外国政府や企業が日本で何かする時の日本法に関する法律顧問したり、日本企業が外国企業と何かする(買収やら資金調達やら)時に、日本法についてアドバイスをするような弁護士事務所。あたしが勤めてたのは今は合併して名前が全くなくなってしまったけど、横浜で設立された日本では最古参の弁護士事務所のひとつで、創立当初からずっとパートナーが外国人だったと言うこともあり、人間関係が横並び。白い巨塔とか半沢直樹にでてくるような、ピラミッド構造の組織の対極をいくような組織だった。
大学時代から両親には比較的こまめに手紙をかいていたので、その流れで就職してからも頻繁に手紙を出していたようだ。それを両親が全部保管していた、ってわけ。さすがはA型の父。。。
開くとこんな感じで、封筒と中に入っていた手紙が一つのフォルダに収められて保存されていた(だから便箋は同じだけど右と左の手紙は出したタイミングが異なる)。
右側のフォルダに入っている手紙は、比較的早い段階から仕事を任されたものの、あたしに仕事を依頼した「今村先生」の勘違いで、トラブルの原因をあたしのせいにされて落ち込んだ日(解決したけど)に、両親から電話があったことから書いたもののようだ。
便箋の次のページでは「でも、その先生おかしいの。仕事は5時半までなのだけれど、そのトラブルが5時ちょっと過ぎに、私のミスではなかったことがわかると、「きょうは、もう仕事いいよ。」だって。(決して、もうあなたには任せられないと言う口調ではなくて)。今村先生は、とにかく、いろんな種類の仕事をさせてくださるので楽しいです。今日なんかそのトラブルが発覚する前まで、3時ごろカナダから送られてきたテレックスをもとに、手元にある既に送られてきている書類を訂正したり加筆したりするのをやっていたのだけれど、英語でクロスワードパズルをやっているみたいで、面白かった」とある。
ほほぉ〜と思ったのは「今村先生が自分の勘違いで私のことをしかった、その一部始終を聞いていた先輩が、あとでこっそりきて’あの先生はお忙しくてご自分が前に頼んだことを忘れてしまわれるから、自分の手帳におおまかでいいから、いつなんの書類をどのようにしたか、をメモしておくと自分が楽よ’と教えてくれました。それまで、この人つっけんどんな人だなぁと思っていたのだけれど、このトラブルのおかげでいい人だと言うことがわかって、怪我の巧妙でした。」だって。立ち直りが早いはあたしの得意技だけど、入ったばかりの職場でも発揮しておる(笑)。
でもって「まあ、’こんな間違いをするのはあの人しかいない’という今村先生の見解と、’間違ってたら私のせいだろうなぁ’という私の見解が奇妙に一致したために、ちょっと嫌な目にあったと言うことでしょう。(仕事を離れると今村先生はいい人です。ただ忙殺されてるから)。でも、だんだん’仕事をする’ということに慣れてきました。」と締め括っている。
今の私と違って謙虚じゃないか〜、と思ったら約40年前の自分が愛おしく思える。
かと思うと、別のフォルダに入っている同じ年の冬の手紙では「Randという、うるさいアメリカ人の弁護士は、疲れている時に聞くと神経をイラだたせるような、鼻にかかった大きな声でしゃべるヘンナ奴です。そいつが、私に風邪をうつされて悲惨な週末をおくっただの、寝ていなきゃならないのに会議のために普通より1時間も早く出勤させられただの、私に聞かせにくるから’うるさい。お前なんか私の趣味じゃないんだから、風邪がうつるようなことなんかするかい!’と言ってやった。」と威勢のいいことも書いている。入って1年くらい経って随分慣れてきたんだろうなと言う感じ。
2年少し経って残業量の多さ(時差がある国が相手なのでどうしようもない)に体調を崩しそうになって、あたしはイギリスで大学院生活に戻るのだけど、その間にかなり頻繁に美術館に行ったり、先輩に人形浄瑠璃に連れて行かれたり、小旅行や海外旅行したり、の報告もある。チケットやパンフレットや絵葉書もたくさんあって、OL生活を満喫していた当時が蘇ってくる。自分の中ではそんなに頑張ってたという記憶じゃないんだけど、今から思えば頑張ってたんだなぁ、とも思う。
国内での手紙のやり取りは、私が卒業して2年後に父が東京に転勤となり、両親とあたしの3人で恵比寿で暮らすようになり終了。一番変化が激しかった時代の手紙を丁寧にとっておいてくれた両親と、見つけて送ってくれた弟に感謝だな。
さすがのmy親でも 手紙は 残してないと思います
最近 古い日記、家計簿 断捨離してましたから
大変なお仕事なさっていたのですね
わたしは、特許事務所でした
各言語には プロが 週1くらいで 来てましたから そこそこ 理解出来れば
仕事には なりました
でも 一度 東京が 大雪の日 私の失敗で ボスが 東京へ行きました
無事解決したって聞いた時 私泣いちゃった
(そんな時代もあったなぁ。。。思い出した)
これを見るまで知りませんでした。これ以外には母子手帳や通信簿、卒業アルバムや卒業証書、運動会の賞状まで、ありとあらゆる紙類が送られてきました。
この手紙では自分のミスじゃなかったけど、当然ミスもあれば、ボスに尻拭いさせたこともあったわけで、なんだか思い出しちゃいますよね
kebaさんの 立ち直りの早いB型の血は お母さまから?
碑文谷…私が勤めていた会社の研修センターが 野沢にあり
3年に一度くらい研修に招集されました。
ある時 営業の経験をちょっとでもするようにと
午前中で何枚のアンケートをもらってくるか競う時がありました。
地図を渡されて ペアで歩いて…私は鹿児島支社のかたと 碑文谷から
柿の木坂にかけてまわり 野沢に戻るというコースでした。
30年ちょっと前・・・kebaさんと すれちがったかも?
研修に行くと 交通費が出て東京に行けて 前日の夕方センターに入って
研修中は缶詰だけど 最後の日の午前中に解散するので
行った日は美術館巡り 帰りの日は買い物三昧。楽しかったなあ。
東京へ行きたいなあ。
私の若い頃は思い出すと冷や汗😨💦が出ます。
kebaさん、若い頃からカッコいい。
ご両親もお手紙やらなにやら残されて愛情を感じます。
我が家はタンスから私のヘソの緒が出てきました。😋
そうなんですね〜。柿の木懐かしい。でもね知らない土地でアンケートに答えてもらう、すごい難問ですね。営業職って大変だ。だから到着日と最終日にご褒美があって当然だと思う。
東京、ぜひぜひ〜
確かにすれ違ってたもしれませんね〜
あ、そうそう臍の緒も届きました。木に箱に入ってました。今でもああやって記念にするのかな?
事務所の他の弁護士さんの悪口を言う別の弁護士のことを「情けない」ってバッサリ切って捨ててたり、結構辛辣なコメントもあり、そういうことあったなぁ〜って、情景の輪郭が思い出されるような手紙です。面白がって読んでたのかな(笑)?
懐かしい😄
それにしても、充実した(しすぎる)OL生活を送ったらしたんですね。
昔はメールなるものがなかったので、せっせと手紙を書いていた時代でしたね。
ちゃんと保存してくださっていたお父上に感謝ですね。私、A型なんですが、超の付くめんどくさがり屋なのでA型が几帳面というのはちょっとちがうかも〜😅え?私だけなのかな😁😆
そうですね、懐かしや葉祥明。
ね〜、本人にはいまいち事情が飲み込めてなかったのかも(笑)
こんなにちゃんと保存してあるなんて知りませんでした。当時の自分の文章にハッとさせられたりもします。そう言う機会をもらえたことに感謝してます。
血液型なのか単に生活習慣なのか、謎ですね〜