今日のうた

思いつくままに書いています

言葉への違和感

2014-10-21 06:15:22 | ②一市民運動
安倍政権の三人の閣僚(有村治子女性活躍相、高市早苗総務相、
山谷えり子国家公安委員長)が10月18日、秋季例大祭が行われている靖国神社を参拝した。

その後のインタビューを観ながら、何ともいえない言葉への違和感をもった。

山谷えり子氏
「国のために尊い命をささげた御霊(みたま)に、感謝の誠を捧げました」

高市早苗氏
「国策に殉じて尊い命を落とし、国の存立を守ってくださった方に、
 感謝と哀悼の誠を捧げました」

私はこれまで「御霊」とか、「国策に殉じ」とか、「誠を捧げる」とかの言葉を
身近に聞いたことはない。

広辞苑によると、「捧げる」には次の意味がある。
(1)神仏や目上の者へ物をたてまつる。
(2)自分のもっているものをすべて相手にさし出す。

「国のために尊い命をささげた」とは、(2)の意味で使っているのであろう。
本来、「ささげる」とは、自発的な行為に使うのではないだろうか。

また、「殉ずる」には次の意味がある。
(1)ある物事のために自分の生命を投げ出す。
(2)自分が仕える人の死や辞職のあとを追って、同じ行動をとる。

「国策に殉じて」とは、(1)の意味で使っているのであろう。
本来、「殉ずる」は、自発的な行為に使うのではないだろうか。

自分の意に反して命令に従い、命を奪われた方も多くいたはずだ。
それをこのような美化した言葉で一括りにすることに、私は大いに違和感を覚える。

皇后が10月20日に80歳の誕生日を迎えられた。
その時の言葉
「私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを
 摘み続ける努力を積み重ねていくことが、大切でないかと考えています」

この言葉には違和感が全くないし、まさにその通りだと思う。

皇后80歳、山谷氏64歳、高市氏53歳。
現在、日本が世界が置かれている立場を意識した言葉と、
あまりにも時代錯誤な言葉との違いを、ひしひしと感じた。


追記1
2014年10月21日、朝日新聞夕刊「時事小言」に、藤原帰一氏が次の言葉を載せている。
 ■戦場を知る責任
 犠牲の記憶が隠す事実

「このように、国民の視点だけから戦争を見る限り、語られる犠牲と語られない犠牲が
 生まれてしまう。ここで必要なのは、自分たちの犠牲ばかりを語って相手の犠牲を無視
 するのではなく、自国の国民ではない人々の経験に開かれた戦争の認識である。
 慰安婦を犠牲者として捉えつつ、戦争の加害者である日本兵士も犠牲者としての側面を
 持つことを見ることができれば、戦争の記憶をナショナリズムの束縛から解き放つことも
 可能となるだろう。

 慰安婦に関する現在の議論は、謝罪と補償の必要をめぐって展開している。
 だが、学者の議論という批判を恐れずにいえば、謝罪や補償の前に必要なのは、
 事実を見ることだ。それも相手の誤りを暴くことで自分を正当化するのではなく、
 双方の国民を横断して戦争を捉えなければならない。そして、日中戦争と第2次世界
 大戦における戦場の実態に少しでも目を向けるなら、決して引き起こしてはならない
 破滅的な暴力の姿が目に入るはずだ。

 慰安婦をめぐって展開される議論には、日本の名誉回復を求める熱情があっても
 戦場の現実を知ろうとする姿勢は見ることができない。
 それを私は恐れる」
                           (2014年10月22日 記)
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