私は詩をあまり読んだことがありません。
それでも心にすぅ~っと入ってくる詩には惹かれます。
言葉が入ってきても紆余曲折しているうちに、ますます分らなくなってしまう詩があります。
短歌を始めた頃に、「歌は詩に昇華しなければならない」と言われました。
それ以来、どうも「詩的」というのがトラウマになっています。
手垢のついた、洒落た言葉や表現を使う気にはなれません。
自分で詩的表現をみつけようにも、そもそも「詩」そのものがよく解りません。
こんな思いでいたところ新刊案内で、河津聖恵著『闇より黒い光のうたを 十五人の詩獣たち』
を見つけました。「詩獣」という言葉は、胸に迫るものがあります。
エピローグには次の言葉があります。
「それぞれが残した鋭い爪痕、その癒やされない永遠の痛み、そしてかれらが一瞬掴みえた
絶対的な自由の冷たさと熱さにも、感覚を伸ばしながら。」
15人の詩獣たちとその詩を紹介していますが、その中から9人を取り上げます。
(1)尹東柱(ユンドンジュ) (1917~1945 1943年同志社大学に在学中、
治安維持法違反で逮捕され、福岡刑務所で獄死。
『空と風と星と詩』は没後刊行された。享年27歳)
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。
今夜も星が 風にかすれて泣いている。
この詩が書かれたのは、1941年11月20日。朝鮮民族に決定的な危機が訪れた頃だ。
前年の創氏改名実施に加え、治安維持法改訂、朝鮮思想犯予防拘禁令公布、朝鮮語教育
全面禁止といった、まさに魂を殺戮するがごとき政策が次々実施された。
東柱は文学を学ぼうと日本への渡航を決心し、1942年1月渡航証明書取得のために
創氏改名届を出す。みずからの意志によるとは言え、誇り高き者には名を奪われるという
出来事は耐えがたかった。
在学中に学校教育で禁じられてた朝鮮語で詩や日記を書きためたが、特高警察はそれが
「独立運動」につながるとみなし、治安維持法違反で1943年に逮捕。1944年に
懲役2年の判決を受ける。そして解放直前の1945年2月16日、27歳で獄死する。
「毎日、名のわからなぬ注射を打たれ」、生体実験の犠牲になったとも言われる。
(名前を奪われ、母国語を奪われることは、どんなに辛く屈辱的なものだったろう。
植民地になったことのない日本人には、想像すらできないことかもしれない。)
(2)ライナー・マリア・リルケ (1875~1926 享年51歳)
すべての存在(もの)を貫いて ひとつの空間がひろがる、ー
世界内面空間が。鳥たちは静かに
私たちを貫いて飛ぶ。おお、成長しようとする私、
その私が外部(そと)をみる、すると私の内部に 樹が育つ。 (傍点は省略)
そこに死が立っている 下皿のない茶碗のなかの
青味がかった煎液が。
なんという奇妙な場所にそれはあることか
その茶碗は或る手の甲のうえにのっている
釉薬(くすり)のかかっているその反(そ)りのあたりには いまでもはっきりと
耳のかけたあとが分るのだ それは埃りだらけだ
そして腹のところには 摩り消えた書体で「希望」と書いてある (「死」)
(3)石原吉郎 (1915~1977 享年63歳)
1945年シベリア抑留され、その苛酷な期間を「事実上の失語状態」の中で
生きのびた。
53年特赦により帰還後に、詩と散文を書くことで極限体験と向き合っていく。
帰国後15年経って書き出したエッセイは、再び抑留の日々を生きるという
苦痛を強いる。
だが一方、帰国直後から書き出した詩では「最終的に自分自身をかくしぬこう
という姿勢」を保つことが出来た。
むしろ、言葉が思いがけない美しさで苛酷な体験を照らしだす
救済にも似た瞬間に恵まれた。シベリアでの地獄の光景は、詩的リズムも伴い
本質的なものへ研ぎ澄まされた、詩のイメージへと見事に昇華された。
なんという駅を出発して来たのか
もう誰も覚えていない
ただ、いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつらはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも死臭がたちこめている (「葬列列車」)
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ (「花であること」)
2につづく
それでも心にすぅ~っと入ってくる詩には惹かれます。
言葉が入ってきても紆余曲折しているうちに、ますます分らなくなってしまう詩があります。
短歌を始めた頃に、「歌は詩に昇華しなければならない」と言われました。
それ以来、どうも「詩的」というのがトラウマになっています。
手垢のついた、洒落た言葉や表現を使う気にはなれません。
自分で詩的表現をみつけようにも、そもそも「詩」そのものがよく解りません。
こんな思いでいたところ新刊案内で、河津聖恵著『闇より黒い光のうたを 十五人の詩獣たち』
を見つけました。「詩獣」という言葉は、胸に迫るものがあります。
エピローグには次の言葉があります。
「それぞれが残した鋭い爪痕、その癒やされない永遠の痛み、そしてかれらが一瞬掴みえた
絶対的な自由の冷たさと熱さにも、感覚を伸ばしながら。」
15人の詩獣たちとその詩を紹介していますが、その中から9人を取り上げます。
(1)尹東柱(ユンドンジュ) (1917~1945 1943年同志社大学に在学中、
治安維持法違反で逮捕され、福岡刑務所で獄死。
『空と風と星と詩』は没後刊行された。享年27歳)
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。
今夜も星が 風にかすれて泣いている。
この詩が書かれたのは、1941年11月20日。朝鮮民族に決定的な危機が訪れた頃だ。
前年の創氏改名実施に加え、治安維持法改訂、朝鮮思想犯予防拘禁令公布、朝鮮語教育
全面禁止といった、まさに魂を殺戮するがごとき政策が次々実施された。
東柱は文学を学ぼうと日本への渡航を決心し、1942年1月渡航証明書取得のために
創氏改名届を出す。みずからの意志によるとは言え、誇り高き者には名を奪われるという
出来事は耐えがたかった。
在学中に学校教育で禁じられてた朝鮮語で詩や日記を書きためたが、特高警察はそれが
「独立運動」につながるとみなし、治安維持法違反で1943年に逮捕。1944年に
懲役2年の判決を受ける。そして解放直前の1945年2月16日、27歳で獄死する。
「毎日、名のわからなぬ注射を打たれ」、生体実験の犠牲になったとも言われる。
(名前を奪われ、母国語を奪われることは、どんなに辛く屈辱的なものだったろう。
植民地になったことのない日本人には、想像すらできないことかもしれない。)
(2)ライナー・マリア・リルケ (1875~1926 享年51歳)
すべての存在(もの)を貫いて ひとつの空間がひろがる、ー
世界内面空間が。鳥たちは静かに
私たちを貫いて飛ぶ。おお、成長しようとする私、
その私が外部(そと)をみる、すると私の内部に 樹が育つ。 (傍点は省略)
そこに死が立っている 下皿のない茶碗のなかの
青味がかった煎液が。
なんという奇妙な場所にそれはあることか
その茶碗は或る手の甲のうえにのっている
釉薬(くすり)のかかっているその反(そ)りのあたりには いまでもはっきりと
耳のかけたあとが分るのだ それは埃りだらけだ
そして腹のところには 摩り消えた書体で「希望」と書いてある (「死」)
(3)石原吉郎 (1915~1977 享年63歳)
1945年シベリア抑留され、その苛酷な期間を「事実上の失語状態」の中で
生きのびた。
53年特赦により帰還後に、詩と散文を書くことで極限体験と向き合っていく。
帰国後15年経って書き出したエッセイは、再び抑留の日々を生きるという
苦痛を強いる。
だが一方、帰国直後から書き出した詩では「最終的に自分自身をかくしぬこう
という姿勢」を保つことが出来た。
むしろ、言葉が思いがけない美しさで苛酷な体験を照らしだす
救済にも似た瞬間に恵まれた。シベリアでの地獄の光景は、詩的リズムも伴い
本質的なものへ研ぎ澄まされた、詩のイメージへと見事に昇華された。
なんという駅を出発して来たのか
もう誰も覚えていない
ただ、いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつらはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも死臭がたちこめている (「葬列列車」)
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ (「花であること」)
2につづく