今日のうた

思いつくままに書いています

二十二歳の自分への手紙 ~司馬遼太郎~2

2014-07-30 15:00:41 | ⑤エッセーと物語
(5)統帥権について

   陸軍が日本の政治を自分たちの思う通りに引っ張っていこうとしたのかというのは、
   司馬はずっと考えた。 考えついたのが統帥権だった。
   大日本帝国憲法では、次のように規定されている。「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
   (内閣から独立し、発動には参謀本部・軍令部が参与)

   統帥権、皆さんちょっと聞き慣れない言葉ですけど、我々をひどい目にあわせたのは、
   この三文字に尽きるんじゃないか。

   陸海軍は天皇がこれを統率するという一条を大きく解釈して、統帥権を
   インチキ理論・論争を持ち出すことができる。
   立法・司法・行政三権の上に超越して、軍人だけが統帥権を持っています。
   統帥権を盾にすることで、軍の構造に政府が反対できない状況が生まれる。
   戦争への道の大きな分岐点となった。

(6)1931年、満州事変

   満州の関東軍が勝手に始めた軍事行動を、東京の参謀本部が追認し、
   ついに行政府が追認せざるを得なくなる。
   魔法の時代が始まる。日本史上、異様な時代。
   日本史上、こういう陰惨な歴史を持ったことはない。

(7)ノモンハン事件(1939年5月~9月)

   戦前の日本の国家は一体なんであったかを考えるため、ノモンハン事件を検証する
   必要がある。わずか短い期間しかなかった戦闘です。これをきちんと書く事によって
   ある程度、全部出る、昭和という時代が。

   ノモンハン事件の発端となったのは、満州とモンゴルとの国境をめぐる紛争である。
   ソビエトの戦車部隊は日本を圧倒していた。この紛争による死傷者は2万人に及ぶ
   という事実は当時極秘とされ、国民に知らされることはなかった。

   事件は、関東軍の参謀だった服部卓四郎と辻政信が独断で拡大し、その間
   関東軍を統括する東京の陸軍参謀本部は、服部・辻たちの行動を追認することになる。
   (政府は関知しなかった)

   壊滅状況になっても戦闘を続け、死傷者が76%になる部隊もあった。
   なぜ関東軍の無謀な戦いを止めることができなかったのか。
   司馬は当時の陸軍参謀本部・作戦課長だった稲田正純にインタビューしている。

   のらりくらりとしながら怖い感じがしました。妖怪の怖さみたいなものが
   ちゃんと残っていて、そういう人たちが日本を戦争に引っ張っていったという怖さ。
   よくしゃべるが油紙の上に水をかけたようにはじくばかりで、
   何も自分の聞き手の心に入ってこない言語があふれるだけで、
   ノモンハンのことを巧みに外していらっしゃって、
   ノモンハンのことをまた聞きますと、何だか官僚的な答弁がでるだけで、
   それが非常に面白かった。 要するに官僚だということであります。
   ああこういう人がやったのかということであります。

   連隊長で生きのびたのは3人だけだった。そのうちの一人、
   須貝新一郎を司馬は訪ねている。
   須貝は作戦参謀を痛烈に批判し事件後自決を強要されたが、それを拒否し予備役に
   編入された。

  「我が作戦の愚昧なること、さらにわが装備がお話にならない。
   我が戦車は、敵の戦車砲の前には豆腐の如き存在でしかなかった。
   迷夢の酔者たちは日本を引きずって、ついに大東亜戦争に迄突き込んで終わった」

   紛争を拡大させた服部と辻は、まもなく大本営参謀本部になり、
   2年後に日本は太平洋戦争に突入する。

   司馬は10年取材して、昭和の戦争を書くことはなかった。
   血が腐るほどの怒りが先になると、小説はできない。   
   

(8)日本列島改造論から4年

   人間の生存の基礎である土地が、投機の対象にされるという奇現象がおこった。
   大地についての不安は結局は、人間を自分が属する社会に安(やす)んじて
   身を託してゆけないという基本的な不安につながり、私どもの精神の
   重要な部分を荒廃させた。

(9)二十一世紀に生きる君たちへ

  「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」、この三つの言葉はもともと
   一つの根から出ているのである。根といっても本能ではない。
   だから、私たちは訓練をしてそれを身につけなければならないのである。
   いつになっても人間が生きていく上で、欠かすことのできない心がまえと
   いうものである。

   国際社会のなかで、明治以降よくここまでやってきた。
   だけど太平洋戦争、ものすごいミスがありました。
   アジアの諸国にずいぶん迷惑をかけて、結局は後々まで日本人は、ものを考える
   日本人は少しずつ引け目を持って生きていかなければいけない、
   それだけのことをやってしまった。

   相手の痛み、相手の国の文化・歴史をよく知って、自分がその国で生まれたがごとく
   いろいろな事情を自分に身につまされて感じる神経、そういう神経の人々がたくさん
   日本人に出てくることによってしか、日本は生きていけないんじゃないか。

司馬は在日コリアンと親交を深めたり、アジアの人々とのつながりを大切にした。
とりわけ大学で蒙古語学を専攻したほどモンゴルが好きだったようで、
馬に乗った司馬の写真は本当に嬉しそうだった。

中学、高校と日本史を学んできて、私は近代史を学んだ記憶がない。
これは大変危険なことだと思った。  (敬称略)

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