今日のうた

思いつくままに書いています

野火 3

2015-10-13 12:52:51 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
2020年2月27日(木)13:00から、塚本晋也監督・主演の『野火』が
 NHKBSで放送されます。

もし私が神に愛されているのがほんとなら、何故私はこんなところにいるのだろう。
こんな蔭のない河原に、陽(ひ)にあぶられて、横たわっていなければならないのか。
雨は来ないか。水は涸(か)れ、褐色の礫(こいし)の間に、砂が、かつて流れた
水の跡を示して、ゆるく起伏しているだけである。
雲もなく、晴れた空は、見上げると、奥にぱっと光が破裂する。眼を閉じる。
何故、こんなに蠅が来るのだろう。唸って飛び廻(まわ)り、干いた頬(ほお)に
止まって、むずむず動く。眼とか鼻孔とか口とか耳とか、やわらかいところを、
大きな嘴(くちばし)でつつく。
何故私の手は、右も左も、蠅を共に追い払おうとしないのか。私の体はただだるく感じる。
しかし私の心は、自分が生きなければならないという理由だけで、他の生物を食うのは
止(よ)そうと決意した以上、自分が食われるのを覚悟しなければならぬ、
だから私の手は、私の粘膜を貪る昆虫(こんちゅう)を追おうとはしないのだと
思う。眼だけは勘弁してくれ、見る楽しみだけは残しておいてくれ。……

この田舎にも朝夕配られて来る新聞の報道は、私の最も欲しないこと、
つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、
それが利益なのだから別として、再び彼等に欺(だま)されたいらしい人達を
私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかは
あるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、
半分は子供である。

不本意ながらこの世に帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。
戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。
それが一度戦場で権力の恣意(しい)に曝(さら)されて以来、すべてが偶然となった。
生還も偶然であった。
その結果たる現在の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子(いす)を、
私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。
もし私の現在の偶然を必然と変える術(すべ)ありとすれば、それはあの権力のために
偶然を強制された生活と、現在の生活とを繋げることであろう。
だから私はこの手記を書いているのである。

思い出した。彼等が笑っているのは、私が彼等を食べなかったからである。
殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、
私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。だから私はこうして
彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽を見ることが出来るのである。

もし私が私の傲慢(ごうまん)によって、罪に堕(お)ちようとした丁度その時、
あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば――
もし神が私を愛したため、予(あらかじ)めその打撃を用意し給(たも)うたならば――
もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人である
ならば――
もし、彼がキリストの変身であるならば――
もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――
神に栄えあれ。  (引用ここまで)

※レイテ島での日本兵の戦没者は約8万人と推測され、フィリピン全体では約50万人に
 のぼった。そのうちの8割が飢餓や病気による戦病死と言われている。
 2014年7月13日の私のブログ「ゆきゆきて、神軍」にも「人肉食」のことが
 書いてあります。鬼気迫るドキュメンタリーなのでお奨めします。
 DVDを借りることができます。





(画像はお借りしました)

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