少し前にWebプラウザーを替えた。
そうなると字数が違ってきて、文字が次の行にはみ出てしまうことがある。
それを修正していると、以前の投稿が目につくようになった。
2015年~2018年にかけては、こんなこともあった、
あんなこともあったと、思い出していた。
今は新型コロナの影響があって仕方のないことかもしれないが、
それだけではなく、あのうねりは何処に行ってしまったのだろう。
SEALDsの人たちは今、どうしているのだろうと気になっていた。
そんな時に9月17日の朝日新聞の〈オピニオン&フォーラム〉に、
元SEALDsメンバーの諏訪原健(たけし)さんの
インタビューが載っていた。
①「(インタビュー)若者の7年8カ月 元SEALDsメンバー・
諏訪原健さん 9月17日 朝日新聞デジタル」
https://www.asahi.com/articles/DA3S14624791.html
共感した言葉を引用させて頂きます。
安倍政権は民主国家としての最低限のモラルをことごとく壊した政権でした。
憲法解釈の変更で集団的自衛権の限定行使を認めたり、
強行採決を繰り返したり、多数派の声だけで決まることのないよう
配慮すべき国会が機能せず、民主主義の基盤が失われた。
安倍政権は、人がものを言うことをよく思わない政権でした。
自分の境遇を自分で語ることは普遍的なことで、ツールが何かより、
言えるということが大事です。
SEALDsは一人ひとりが名前と顔を出して『私』を主語に街頭で語りました。
一人の個人がつぶやいたことが拡散され、小さい方から大きな方へ
流れをつくることは、今後も増えていくでしょう。
外から語られる『若者』と実態にはギャップがあるし、そんな違和感は
みんな持っているんじゃないかな。
私を主語に、個人がネットワークでつながり、社会にものが言える
ようになってきた感じはあります。
ーーー第2次安倍政権は、諏訪原さんが20歳になってすぐのころに発足。
大人になってからずっと安倍政権下で過ごした世代です。
一般化はしにくいですが、僕自身の感覚としては、好景気を実感せずに
育ち、ずっとレールを踏み外さないようにという抑圧に近い
息苦しさを感じてきた。
震災は僕が大学生になる直前。目の前にあるあたりまえの社会で勝ち抜こう
としていたところに、その『あたりまえ』が崩れるような感覚をおぼえた。
デモには警戒心しかなかったけど、大学3年の時に特定秘密保護法について
知った時に、声を上げようと思いました。
僕はひたすら自分の周りの5人くらいに『選挙に行こう』と呼びかけます。
投票が生活と直結していると実感できる人を地道に増やす方が
大事なんじゃないかな。
奨学金を受けない選択はなかった。家庭に経済力がないと教育を受けられない
日本の制度はアンフェアで、個人の問題として片付けるべきではないと
理屈では分かっていた。でも本当は話したくなかったです。
自分自身の話をするのはしんどい。無防備の中で、野ざらしにされて
攻撃を受けるようなきつさがありました。
特につらかったのは、『私は働きながら大学に行った。甘えるな』
といった批判。いわゆる自己責任論で、貧しい者同士がぶつかり合う。
自分のせいなんだから仕方がないじゃん、という考えが染みついている。
でも、政治が変わりさえすれば、社会がすぐに変わるとも思いません。
結局は、個人がどう変わるかに帰着する。
特定秘密保護法が成立した時『日本の民主主義は終わりました』と
口にした人がいましたが、もし終わったとしても、この社会で生きて
いかないといけないのが僕たちです。
いろんな人がいろんな場で、いろんな形で取り組むのが、
実は一番強いのではないかと思っています。
見えにくいんですけどね。 (引用ここまで)
「政治と宗教の話はタブー」とか、「すべて自己責任」とか、
「甘ったれるな」とか、「人様に迷惑をかけるな」とか、
さまざまな言葉で若者を縛ろうとする人がいる。
確かに楽しいパーティの場で政治や宗教の話はしない方がいいのかも
しれないが、全ての場所でそうだと思い込んでいる人の、何と多いことか!
菅氏は【自助】を真っ先に掲げたが、それだったら政治は要らない。
働いても働いても、あるいは働きたくても働けない人のために
手を差し伸べるのが、政治ではないのか!
「私が若い頃は・・・」と言うおじさんがいたとしよう。
あなたが若い頃に比べて、教育費がべらぼうに上がっているのを
ご存じだろうか。
たとえば、今70歳の私の高校の授業料は、1カ月860円だった。(公立)
1969年の国立大学の授業料は、1カ月1000円。(理科系も)
私立大学は学校により差があるが、年次統計によると
1969年・・・76400円。(年間)
これを今の物価に換算すると・・・306299円。(年間)
30万円では、今はどの私大にも通えないだろう。
単純計算しても、国立大学の授業料は私大の6分の1ほどだった。
今は国立大学も私大も、それほどの違いはないだろう。
物価の上昇分を差し引いても、今の教育費、とりわけ
国立大学の授業料は高すぎる!
税金を教育に回さなくなったからだろう。
また当時は東京でも3畳~6畳の下宿が4500円~6000円で
借りられた。贅沢を言わなければ、それなりに生活できた。
今はそうした物件がほとんど無くなり、地方から出てきた人が東京で
生活するには、あまりにもお金がかかり過ぎる。
昔出来たことが、今に当てはまるわけではないのだ。
私は50歳で仕事を辞めるまで、ずっと働いてきた。
昼も夜も働いていた時期がある。
こうなると新聞を読む時間も気力もない。
現在、こうした状況にある人は大勢いるのではないだろうか。
政治について考える時間も余裕もない人が増えること、
これは為政者にとって願ってもないことだ。
こうした状況を改善するために政治はあるのだが、
こうした人たちが声を上げられない矛盾。
また時間も余裕もあるのだが、政治なんて難しくて分かんない、
そんな面倒くさいことは偉い人に任せておけばいい、
私はノンポリだから政治に興味がない、などなどの考えの人もいるだろう。
世の中が比較的安定している時代ならそれもいいだろう。
だが今の日本は、独裁政治を容認してしまうかどうかの、
まさに分水嶺に来ていると思う。
諏訪原さんが言うように、
個人が変わらなければ、社会は変わらない!
そしてこれは私の考えだが、
政治を人任せにすることは、独裁政治でもかまわない!
ということだ。私は生きてあと5年。
若い人はこれから何十年も生きていかなければならないのだ。
情報を鵜呑みにせずに、自分で調べて自分で考える。
こうした若者が増えることを願っています。
そうなると字数が違ってきて、文字が次の行にはみ出てしまうことがある。
それを修正していると、以前の投稿が目につくようになった。
2015年~2018年にかけては、こんなこともあった、
あんなこともあったと、思い出していた。
今は新型コロナの影響があって仕方のないことかもしれないが、
それだけではなく、あのうねりは何処に行ってしまったのだろう。
SEALDsの人たちは今、どうしているのだろうと気になっていた。
そんな時に9月17日の朝日新聞の〈オピニオン&フォーラム〉に、
元SEALDsメンバーの諏訪原健(たけし)さんの
インタビューが載っていた。
①「(インタビュー)若者の7年8カ月 元SEALDsメンバー・
諏訪原健さん 9月17日 朝日新聞デジタル」
https://www.asahi.com/articles/DA3S14624791.html
共感した言葉を引用させて頂きます。
安倍政権は民主国家としての最低限のモラルをことごとく壊した政権でした。
憲法解釈の変更で集団的自衛権の限定行使を認めたり、
強行採決を繰り返したり、多数派の声だけで決まることのないよう
配慮すべき国会が機能せず、民主主義の基盤が失われた。
安倍政権は、人がものを言うことをよく思わない政権でした。
自分の境遇を自分で語ることは普遍的なことで、ツールが何かより、
言えるということが大事です。
SEALDsは一人ひとりが名前と顔を出して『私』を主語に街頭で語りました。
一人の個人がつぶやいたことが拡散され、小さい方から大きな方へ
流れをつくることは、今後も増えていくでしょう。
外から語られる『若者』と実態にはギャップがあるし、そんな違和感は
みんな持っているんじゃないかな。
私を主語に、個人がネットワークでつながり、社会にものが言える
ようになってきた感じはあります。
ーーー第2次安倍政権は、諏訪原さんが20歳になってすぐのころに発足。
大人になってからずっと安倍政権下で過ごした世代です。
一般化はしにくいですが、僕自身の感覚としては、好景気を実感せずに
育ち、ずっとレールを踏み外さないようにという抑圧に近い
息苦しさを感じてきた。
震災は僕が大学生になる直前。目の前にあるあたりまえの社会で勝ち抜こう
としていたところに、その『あたりまえ』が崩れるような感覚をおぼえた。
デモには警戒心しかなかったけど、大学3年の時に特定秘密保護法について
知った時に、声を上げようと思いました。
僕はひたすら自分の周りの5人くらいに『選挙に行こう』と呼びかけます。
投票が生活と直結していると実感できる人を地道に増やす方が
大事なんじゃないかな。
奨学金を受けない選択はなかった。家庭に経済力がないと教育を受けられない
日本の制度はアンフェアで、個人の問題として片付けるべきではないと
理屈では分かっていた。でも本当は話したくなかったです。
自分自身の話をするのはしんどい。無防備の中で、野ざらしにされて
攻撃を受けるようなきつさがありました。
特につらかったのは、『私は働きながら大学に行った。甘えるな』
といった批判。いわゆる自己責任論で、貧しい者同士がぶつかり合う。
自分のせいなんだから仕方がないじゃん、という考えが染みついている。
でも、政治が変わりさえすれば、社会がすぐに変わるとも思いません。
結局は、個人がどう変わるかに帰着する。
特定秘密保護法が成立した時『日本の民主主義は終わりました』と
口にした人がいましたが、もし終わったとしても、この社会で生きて
いかないといけないのが僕たちです。
いろんな人がいろんな場で、いろんな形で取り組むのが、
実は一番強いのではないかと思っています。
見えにくいんですけどね。 (引用ここまで)
「政治と宗教の話はタブー」とか、「すべて自己責任」とか、
「甘ったれるな」とか、「人様に迷惑をかけるな」とか、
さまざまな言葉で若者を縛ろうとする人がいる。
確かに楽しいパーティの場で政治や宗教の話はしない方がいいのかも
しれないが、全ての場所でそうだと思い込んでいる人の、何と多いことか!
菅氏は【自助】を真っ先に掲げたが、それだったら政治は要らない。
働いても働いても、あるいは働きたくても働けない人のために
手を差し伸べるのが、政治ではないのか!
「私が若い頃は・・・」と言うおじさんがいたとしよう。
あなたが若い頃に比べて、教育費がべらぼうに上がっているのを
ご存じだろうか。
たとえば、今70歳の私の高校の授業料は、1カ月860円だった。(公立)
1969年の国立大学の授業料は、1カ月1000円。(理科系も)
私立大学は学校により差があるが、年次統計によると
1969年・・・76400円。(年間)
これを今の物価に換算すると・・・306299円。(年間)
30万円では、今はどの私大にも通えないだろう。
単純計算しても、国立大学の授業料は私大の6分の1ほどだった。
今は国立大学も私大も、それほどの違いはないだろう。
物価の上昇分を差し引いても、今の教育費、とりわけ
国立大学の授業料は高すぎる!
税金を教育に回さなくなったからだろう。
また当時は東京でも3畳~6畳の下宿が4500円~6000円で
借りられた。贅沢を言わなければ、それなりに生活できた。
今はそうした物件がほとんど無くなり、地方から出てきた人が東京で
生活するには、あまりにもお金がかかり過ぎる。
昔出来たことが、今に当てはまるわけではないのだ。
私は50歳で仕事を辞めるまで、ずっと働いてきた。
昼も夜も働いていた時期がある。
こうなると新聞を読む時間も気力もない。
現在、こうした状況にある人は大勢いるのではないだろうか。
政治について考える時間も余裕もない人が増えること、
これは為政者にとって願ってもないことだ。
こうした状況を改善するために政治はあるのだが、
こうした人たちが声を上げられない矛盾。
また時間も余裕もあるのだが、政治なんて難しくて分かんない、
そんな面倒くさいことは偉い人に任せておけばいい、
私はノンポリだから政治に興味がない、などなどの考えの人もいるだろう。
世の中が比較的安定している時代ならそれもいいだろう。
だが今の日本は、独裁政治を容認してしまうかどうかの、
まさに分水嶺に来ていると思う。
諏訪原さんが言うように、
個人が変わらなければ、社会は変わらない!
そしてこれは私の考えだが、
政治を人任せにすることは、独裁政治でもかまわない!
ということだ。私は生きてあと5年。
若い人はこれから何十年も生きていかなければならないのだ。
情報を鵜呑みにせずに、自分で調べて自分で考える。
こうした若者が増えることを願っています。