日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
オオカマキリ
2017-09-26 / 自然
秋のお彼岸を過ぎると「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、夏の暑さを忘れるように涼しくなってきた。朝夕は窓を閉めなければならないほど急に秋めいてきた感じだ。今年の夏はひときわ暑かったので、よけいにそのように感じる。
散歩するにもいい季節になってきた。田んぼや山際の野道を歩けば、たくさんの草花が目を楽しませてくれる。その草花の中にじっと潜むカマキリをあちこちで見かけるようになった。大きさが90mm前後のオオカマキリだ。大きな鎌足(前足)をじっと閉じて獲物を待っている。草花に誘われる昆虫などをじっと待っているのだ。
カメラを向けると、くるりと首を回して大きな目玉で睨みつけられた。捕まえようとすると大きな鎌足を縮めて挑戦的な態勢をとる。睨んだ目も縮めた鎌足も攻撃的だ。草花に誘われた昆虫があの鎌足に捕まったら、どうにも逃げようがない気がする。私がチョウやバッタだったらあの鎌には捕まりたくない。
「草むらのハンターここにあり」と言ったところか・・・.。
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台風一過、空には台風の置き土産
2017-09-18 / 自然
台風18号は、遥か日本の南で発生。当初予報では北西方向へ進路を取り、台湾を突っ切り中国へと向う進路だった。ところがだんだん北向きに方向を変え、宮古島のすぐ西を通り東シナ海に入って東へ急カーブ。その後、九州西海岸に上陸後九州を斜めに縦断かと思われたが、少し東に逸れて南九州市付近に上陸した。そして宮崎市付近を通り高知から富山に抜け、佐渡をかすめてまた北海道へと上陸した。
この台風、来るまではのろのろ。4、5日前頃から、今度は直撃しそうな予感がしていた。少しでも逸れて欲しいと思うのは誰しも同じだが、大きく強い台風だったので、心の内では避難も準備していた。しかし、実際に避難したのは高齢者のみで済んだ。気が気でなかったのは宮崎県北部と大分県南部や四国等の大雨。各地の知人などの顔が浮かんだが、知人たちも被害は受けなくて済んだようだ。
わが地を台風が通り過ぎたのは午後2時頃。風の無い曇り空が続いた後、急に西風に変わり涼しげな風となった。多分、台風の目が通ったのだろう。その後、急速に天気は回復。夕方には太陽も顔を覗かせた。テレビで台風情報ばかり見ていたため体が鈍ったような感じだったので、元に戻したく、夕まずめ散歩に出た。と、西の空に一風変わった雲。大きな筆ですーっと描いたような雲がゆったりと浮かんでいた。その白い雲は、時間が経つにつれ、少しづつ黄味を帯び始め、最後は黄金色に染まった。
一方、北の方角は陽が沈んだばかりのような夕焼け。その夕焼けを背景に尾鈴山が悠然とシルエットとなっていた。方角を間違うほどの不思議な光景だったが、黄金色の雲とともに台風の置き土産だったか・・・。
黄金色に変わった一筆描きの雲
北方角にある尾鈴山の夕焼け
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耳川合戦図屏風
1577(天正5)年薩摩を本拠とする島津氏は、日向の国の支配者であった伊東氏を豊後に追い落とした。いわゆる「伊東一族豊後落ち」だ。翌1578(天正6)年、伊東氏が頼った豊後大友軍は、大友宗麟のキリスト教国建設の夢も内包しながら日向の国に南下。高城川(現・小丸川)を主舞台に両軍の戦いが繰り広げられた。結果は大友軍の大敗、耳川方面への敗走となった。島津軍はそれを追走、多くの首をとった。
その時の高城川での戦いの様子を描いた絵が「耳川合戦図屏風」だ。実物は相国寺(京都府)にあるようだ。屏風図を書物の写真で何度か見ているうち、ある時ふと気にとまったのが左上のお城。ひょっとするとこれは佐土原城ではないのかと思うようになった。博物館に行けば大きな図があるかもしれないと思い、過日出かけた。屏風図はすぐに見つかったが、実寸よりかなり小さいもので、内側から照らされていた。それでも書物の写真よりはずっとよかった。右側3分の1の所に高城川が大きく描かれている。その川を右から左に渡るのが大友軍。画面中央では両軍が激突している。左下には島津軍の鉄砲隊、その上方は陣から駆け出る島津軍だ。
この合戦図では3つの城が描かれている。高城川左岸(絵では一番右上)の城は、幟から島津軍が守り固めた高城と思われる。大友軍の執拗な攻めにも落ちなかった城だ。そして一番左上が佐土原城、その右奥が都於郡城のようだ。佐土原城とみたのは、三層の天守が描かれているためだ。この天守、「天正年中佐土原城図」(日南市教委蔵)に描かれている天守と瓜二つなのだ。左上の城が佐土原城なら、その右奥は島津軍の出撃の舞台ともなった都於郡城に間違いない。この屏風絵、いつか実物と対面し細かな所も確認してみたい。
尚、なぜ「耳川合戦」と呼ばれるかと言えば、大友記に高城川を耳川と誤記したためか。主戦場はあくまで高城川である。
※「天正年中佐土原城図」の描かれた時期は、天正年間の佐土原城を江戸時代に描いたというのが定説。また、天守台が二層か三層かは不明で、古文書では二層との記述もあるが、現在進行中の発掘が進む中で明らかになりそうだ。
※耳川合戦図屏風に描かれているお城は、どれも天守台を持っているように描かれているが、この頃のお城はどれも山城。佐土原城天守台ができたのは、佐土原島津藩第2代藩主島津忠興の時なので、耳川合戦図屏風に描かれているような天守は、実際はないようだ。
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